7

 涼しい風とすれ違った。

 割れた窓ガラスの下に水溜まりができていて、雨が残った窓をぱちぱちと叩いていた。


 階段を上って二階へ上がった。

 ところどころ滑り止めのゴムが剥がれていた。


 人のいない、静まりかえった廊下には、雨の匂いが充満している。

 自分の足音だけが反響しているこの場所も、いつの日かは子供たちの声で賑わっていたのだろう。


 ある教室の前の壁に、画鋲が刺さっていた。すっかり錆びたそれらは、ずっと前から変わらずにそこで時間をとめていた。

 床に画鋲が転がっていないか確認しながら、教室に足を踏み入れる。


 中はほこりっぽい空気と湿気でこもっていた。

 黒板には、誰かが忍び込んで書いたのか、様々な落書きが並んでいた。もしかすると、地域の子供たちがやったのかもしれない。


 時計の音だけが教室に響き渡っている。


 一つの椅子を引き出して、そこに座る。何気なく空になった机の引出しに手を突っ込んでみる。ザラザラした感触。

 右手を取りだして嗅いでみると、鉄の匂いがした。

 もう一方の手を動かしているうちに、机の奥で四角い物に触れた。

 引っ張り出してみると、黒い筆箱だった。誰かが教室に置き忘れていったのだろうか。


「いたいた!」


 教室の入口に、ヤシが立っていた。


「もっとうまく隠れないとすぐに見つかっちゃうぞ」


 彼は廊下の向こう側をちらちらと確認しながら、こちらへ歩いてくる。


「ていうか、おれの机の中いじってなかった?」

「あ、これヤシの机だったんだ。筆箱忘れてたよ」

「それは、忘れたんじゃなくて隠しているんだよ」

「隠してる? 何を?」


 ヤシは僕の手から筆箱を取り上げて、その蓋を少しだけ開いた。


「ほら、見える?」


 筆箱の隙間からはカサカサという音が漏れていた。

 中は暗くてよく見えない。


「うーん。光があったら見えそうだな」

「それじゃあ、窓際に行こう」


 窓からは校庭が見えた。中心の方でシゲと、坊主刈りで高身長の男子がキャッチボールをして遊んでいる。


「シゲとビックはキャッチボールしてるな。かくれんぼ終わったら後でおれらもやるか」


 二人は遠目からだとその身長差から、親子に見えた。

 ヤシは筆箱を窓の方に向けて、少し開いた。


「ここで見えるかな」


 日光に照らされた筆箱の中を覗き込むと、緑色をした何かがうごめいていた。


「これ、俺のカナブンコレクショ――」

「みいつけた!」


 静かな教室がアサヒの大声に震え、それに驚いたヤシの手から筆箱が落ちた。


「「あ」」


 僕とヤシの間抜けな声が重なる。

 地面に当たって全開になった筆箱から、一斉にカナブンが飛び出した。


「ぎゃあ! 何してるの!?」


 アサヒはすぐに背を向けて逃げ出した。

 やべやべ、と言いながらヤシがまだ近くにいたカナブンを拾い集める。

 カナブンたちはバチバチと壁にぶつかり、天上にぶつかり、転げ回りながら逃げ道を探している。


「はるも捕まえて!」


 僕は暴れ回る緑の甲虫を捕まえては、筆箱へ持っていきを繰り返した。

 途中からはアサヒも加わって、どこか隙間にカナブンが挟まっていないかしらみ潰しに探した。


「あたしが見つけたとき、何やってたの?」

「おれのコレクションをヤシに見せてたんだ。午前中に捕まえたやつなんだぞ」


 アサヒは呆れた顔で、ヤシの手の中にある筆箱を見た。


「本当に驚いた……で、捕まえてどうするの?」

「え?」


 ヤシは頭をポリポリ掻いた。


「それは……逃がすかな」

「よくわかんないの」


 アサヒはそう言って筆箱を見た。


「そうだな、後で森に返そう。ってことで、次は誰鬼やる?」


 ヤシがこちらを見る。


「僕はまだ、どこにどんな部屋があるのかわからないから、探すのは難しいな」

「そうだよね。はるにはまだ学校の案内をしてないよ。先に学校紹介しようよ」


 アサヒの言葉にヤシが頷く。


「そうだな。よし、じゃあ今からミラクル冒険隊は小学校探検を始める。注意してついてくるんだ!」


 ヤシが教室から駆けだしていき、僕とアサヒがそれについていく。


「ここが音楽室だ」


 教室には足踏みオルガンが並んでおり、奥にグランドピアノが置かれていた。

 壁には音楽家の絵が飾られていて、その下に木琴などの楽器が置いてある。


「次は、どこの教室がいいかな」

「ヤシ、図工室が近いよ」

「じゃあ、図工室が次の目的地だ」


 木の廊下を歩く上履きの音が、静けさの中に楽しく跳ねた。


「これが図工室だな。鍵かかってるから入れないや」


 中を覗くと、暗い棚や机の上にきりや絵の具など様々な道具が見えた。


「あ、私の」


 アサヒが指さす先には、雪山の版画があった。廊下の壁には生徒たちの作品がずらっと並んでいる。


「おれのはこれ」


 ヤシのは抽象的で、流星群のような流れる線と太陽みたいな光る球が浮かんでいた。


「すごい、芸術的だね」

「芸術的? 野球の風景を描いただけだぞ」


 それを聞いた上で、野球には見えなかった。


 それから教室を順繰りに回った。

 家庭科室、理科室など鍵がかけられているところが多く中には入れなかったが、窓ガラス越しに覗くことはできた。

 別に人体模型が動いたりすることはなかったが、誰もいない教室を覗き見るのはドキドキした。


「ここがさっきおれたちが入ってきた一階の男子トイレ。窓の鍵が壊れてるからいつでもここから出入りできる」

「誰もいない学校にいるの、極秘作戦みたいでワクワクするよ。後はどこがあるの?」

「図書室とか。もしかするとカギ閉ってるかもしれないけど、行ってみるか」


 廊下の窓からは昼下がりの陽が差し込み、宙を舞う埃が煌めいていた。

 ヤシがドアに手をかける。

 ドアはすんなりと開いた。


「お、ラッキー。閉まってないや」


 彼は本には目もくれず、奥の方の窓際に進んでいく。


「あれ、ビックとシゲがいない」


 隣に並んで見てみると、校庭には誰もいなかった。


「疲れて校舎に入ったのかもね」


 アサヒが窓に張りついて外を眺めながら言う。


「ビックも来年には中学生なんだな。おれたちが小学校で一番年上になるのか」


 ヤシが感慨深そうに言う。


「おれもビックみたいにすごい六年生になるぞ」

「ビックは運動も勉強もできるからね。ヤシも勉強頑張んなきゃ」


 アサヒは楽しそうに話した。


「勉強か、面倒くさいな」


 ヤシが窓を開けると新鮮な空気が入ってきた。


「あー、気持ちー」


 ヤシはTシャツの裾を持ち上げて、はためかせていた。


 自分と遊んでくれる友達がいる。

 これは、僕にとってとても幸せなことだった。


 僕はクラスのみんなと仲よくなる前に引っ越すことが多い。

 今回の引越は、タイミングが夏休みだったから、なおさら友達はできないと思っていた。

 しかし、今、目の前にはミラクル冒険隊のみんながいる。


「はる、何をにやにやしてるんだ? 何かイタズラでも思いついた?」


 ヤシが悪い笑みを向けてくる。


「いや、そうじゃなくて」

「そうじゃなくて?」

「僕、転校ばかりしていたからさ、あんまり友達ができなかったんだ」


 ヤシとアサヒは何も言わずに頷いた。


「それで、友達と遊ぶこともしてこなかったんだけど、今、こうして遊べてすごい楽しいなって」


 ヤシが窓枠に両手をつく。


「友達に入れてくれてありがとう」

「友達に入れたわけじゃないぞ」

「え?」


 僕は固まった。


「おれがはると友達になりたいと思ったんだ」

「そうだよ。あたしたちが入れてあげたんじゃない。みんながはると友達になりたいと思って、はるもみんなと友達になりたいと思ったから、あたしたちは友達になれたんだよ」


 アサヒは近くの椅子に座っていた。


「そっか、じゃあ、僕たちは友達にってことか……」

「まあ、ミラクル冒険隊には隊長の許可が必要だから、入れてあげたけどな」


 アサヒは微笑んだ。


「隊が無くなってもあたしたちは友達だよ」

「そんな、隊は無くならないぞ」


 胸の内側にじわじわと温かいものが広がった。

 それは照りつける夏の陽差しよりもずっと温かいものだった。


「いたいた。ここか」


 振り返ると、開いたドアからビックの顔が出ていた。


「お、ビック」

「俺とシゲは疲れたから休もうと思ってるんだけど」


 ビックは眉を上げて笑みを浮かべた。


「家にすいかがあるんだけど、食べに来ない?」


 アサヒとヤシが、「行く」と元気に叫ぶと、ビックの後ろからシゲも顔を出してそれに続いた。


「はるも来る?」


 ビックは優しく聞いた。


「うん」


 彼は白い歯を見せて目を細めた。


「よし、じゃ行こう!」


 明るい窓際から離れると、視界がとても暗くなった。

 背後からミーンミンミンと蝉の声が追いかけてきた。

 みんなに続いて教室から出かけた時、僕は窓が開けっぱなしである事に気づき、窓際に戻った。

 蝉の鳴き声の中に、誰かの声が混ざって聞こえる。


「おおい、はーるー」


 足元に陽だまりができていた。


「あ、いた。外晴れたから、そろそろ帰ろ!」


 教室の入口から秋が覗いていた。

 僕は校舎探索中に入った教室の、窓際にもたれていた。


「ぼうっとしてどうしたの?」

「いや、何でもないよ。ちょっと考え事してただけ。行こうか」


 僕らは階段を降りて、灰色の廊下を歩く。

 窓には水滴が流れており、その影が床を這っていた。


 あの世界はどこにあるのだろう。

 たまたま学校にいたから、それから連想されて勝手に広がった想像なのだろうか。


 今そこで本当にあった出来事のように思える。彼らの名前も覚えている。

 ただ、彼らの顔や景色の細部の記憶は、徐々にぼやけて消えていってしまいそうだ。

 それを思い出そうとしても、印象的な部分しか鮮明には残っていない。

 印象派の絵画展から帰ってきて、その中の絵について詳しく思い出そうとしているような気分になる。


 現実と類似したあちらの世界を見るようになったのはここ最近になってからだ。

 出かけたことが、何らかの刺激になって作用しているのだろうか。


 徐々に、ふたつの世界が連動するようになっているのが不思議だった。

 あちらの世界にもこちらの世界にも僕は順応して存在している。

 それをそのまま受け入れて生きている。


 ふと、どちらが現実かわからなくなってしまったらどうしよう、という不安に襲われた。

 もうひとつの現実が、今生きているこの世界になだれ込んできている感覚があった。


 疑問は次々と浮かぶが、常時認識できない世界について、その存在を証明できるものは何も無い。

 その中にいるときはいくら現実だと思っていても、目覚めて忘れてしまえば、それはきっと夢になる。

 今、目の前にいる秋は明瞭だったが、僕は心配になって秋の肩にそっと触れた。


「どうしたの?」


 彼はにこにこしながら振り向いた。


「いや、ちょっとごみがついてた」


 もしもこの世界が夢だったら、とても寂しい。だけど、目覚めたのなら、その寂しささえ思い出せないのかもしれない。


「秋、あっちまでかけっこ勝負ね!」

「いいよ!」


 考え出すともっと寂しくなりそうだったから、僕は秋と、誰もいない廊下をちょっと走った。


          *


 夕食は康司さんの別荘に招待された。

 僕たちは四郎さんがくれた野菜を持っていって、山辺家、草野家、深沢家合同でBBQをした。


 母はくるみの両親と話し込み、与助おじさんと弘子おばさんは康司さんと昔話に花を咲かせていた。

 その間、秋は肉が焼けるのをじいっと見ていた。


「焼けたかな?」


 コンロの向こう側に座っていたくるみが肉をひっくり返す。


「もういいと思うよ」


 秋は喜んで肉を口に入れた。思った以上に熱かったようでジタバタしていた。


「やけどしないように気をつけて。ちょっとずつ切って食べな」


 僕は色がついてきたタマネギを自分の皿に盛り付けた。

 お酒が入って、大人達は声が大きくなっていた。


「あたしはずっと康司くんのことが好きだったんだよ」

「ええ、俺は全然気がつかなかったなあ」


 弘子おばさんの告白に康司さんが赤くなった。


「おれは康司くんが都会に出て行っちゃったからラッキーだったけどな」


 与助おじさんも随分と酔っているようだった。

 くるみと目が合い、僕らは笑った。


「わたしのおじいちゃんがこんな楽しそうなの久しぶりに見たかも」

「いいことだね」


 歳をとっても、これだけ打ち解けて話ができる人がいたらきっと楽しいだろう。


 僕も将来、静かな森の中に住んで、たまに古くからの友人を招く想像をしてみる。

 しかし、その友人の顔を想像出来なくて切なくなる。

 別に友達がいなくたって、一人で滝の前とかに佇むのも十分にいい生き方かもしれない。


 しかし、自分の気持ちはごまかせず、あちらの世界でのミラクル冒険隊との楽しかった感情が沸き上がってきた。


「ねえ、春は夏休みはどんな予定なの?」


 くるみは箸でピーマンをつついた。


「そうだね、特に決まってないな。宿題したり、読みたかった本を読んだり。あとは家事をしたりかな」

「なるほど。帰宅部の夏休みはそんな感じか。家事もして忙しいね」

「そんな忙しくはないよ。くるみは部活あるし、そっちこそ忙しい夏休みじゃん」

「いや、陸上部は休みも多いし、部活の中では休める方だよ」


 くるみとの間に沈黙が流れる。

 くるみとも久しぶりにどこか行けたらな、と思っている自分がいた。そして、くるみもそう思っていたら嬉しかった。


 小学生の頃はよく一緒に遊んだものの、いつからか遊びに行ったりすることはなくなっていた。だから急に誘うのはなんか変な感じがして、また機会があったらにしようと思った。


 忙しくはないといいつつも、実際は色々やることもあるだろうし、彼女なら友達と遊びに行ったりもするだろう。

 僕と二人で遊びに行くような暇はきっとない。


 肉を裏返して顔をあげると、くるみと目が合った。

 僕は笑みを浮かべ、彼女もにっこりと笑顔で応えた。


 じゅうじゅうと肉や野菜が焼ける音がしていた。

 隣を見ると、秋が次の肉を狙っていた。



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