6
うねうねと動くそれを描くのはなかなかに難しかった。
背中の中心には青いラインが入っている。
それはステンドグラスのような、万華鏡のような美しさを持っていた。
その美しさを守るようにして並ぶ黄緑の棘は、触れさせない強い意志を感じせる。
それは木の枝をゆっくりと這っていくため、自分も少しずつ移動して色鉛筆を動かした。
ようやく描き終えて顔をあげると、最初にいた位置からだいぶ離れていた。
隣に、座り込んでお絵かきに熱中しているシゲがいた。
シゲの絵を覗こうとすると、彼は、まだ見ちゃだめ、と絵に覆い被さってそれを隠した。
ちょっと近くを散歩して、他に面白い物がないかを探したり、持ってきた画用紙の端っこに落書きをしたりした。
少し歩くと、ひらけた場所でアサヒとハナセが二人並んで絵を描いていた。
「できた! 見て見て!」
シゲが自由帳を開いてこっちの方にやってくる。
絵を見ようと近寄る僕をスルーし、彼はアサヒの方へと一目散に向かった。
二人がいるのは頭上に木がなく、山に囲まれた谷が一望できる展望台のような場所だった。
「シゲ、すごいじゃん。これ、何?」
シゲに気がついたアサヒが褒める。
「飛行機!」
「どこかに飛んでたの?」
「もう、今は飛んでないってテツロウくんが言ってた」
自由帳を広げて見せる彼の笑顔は今日で一番明るかった。
「あ、ほら、はるにも見せてあげて」
アサヒに言われ、彼は自由帳を持ち直し、両手でこちらへ広げる。
そこには緑色の力強い線が伸びており、躍動感のある色があちこちへと飛び散っていた。
「戦闘機だ」
途端に彼は目をキラキラさせる。
「うおお、知ってるの!? うまいでしょ」
デッサンしなくても、想像上のものを描くという手があったか。
感心していると、彼が僕の画用紙を見ようと引っ張った。
「これ何?」
僕は画用紙を、シゲに見せた。
「イラガだよ。さっきあそこの木で見たんだ」
「うわあ、すごい! かっこいい!」
先ほどまで作っていた壁はどこへ行ったのか、シゲは興奮していた。
「かっこいい、のかな?」
「うん! なんかすごい」
後ろで微笑むハナセと目が合う。
「二人は何を描いたの?」
僕が聞くと二人は顔を合わせた。
「私たちのは二つで一つなの」
ハナセが横向きのキャンバスを立てる。
そこには、広がる木々や川の風景があった。
「まだ作り途中だけどね、ほら」
アサヒが自分の画用紙をその上に立てる。晴天に流れゆく雲があった。
二つの絵がつながり、そこにでき上ったのは、絵の向こうに広がる谷の景色だった。
僕はその美しさに息を呑んだ。
「すごい……」
「次は一緒に描こ」
僕はシゲに手を引かれて、木々の中へと入っていく。
アサヒとハナセが笑いながら手を振っている。
山と谷の風景が、まだ目の前を埋め尽くしていた。
「ねえ、行こうよ」
声の方を見ると、そこには秋がいた。
「工事現場見るのは飽きちゃった。あっちも冒険しよ」
もう、絵はなかった。手元に持っていた色鉛筆も消えていた。
だけれど山の中に広がる景色は、さっきまで見ていたものとよく似ていた。
この景色を見て連想したのだろうか。
現実から呼び起こされるものだとすれば、それは想像力が生み出す単なる妄想だ。
感性が少しばかり豊かで、その内容がリアルに想像できるため、不思議な世界が実際に見えているような気がしているだけかもしれない。
「春、大丈夫?」
「うん。大丈夫だよ。行こうか」
これが白昼夢か。
ところで一点、気になる事があった。
白昼夢内のイラガに対して、恐怖心がほとんど湧かなかったことだ。
今なら、想像しただけで鳥肌が立つのに、どうして何も感じなかったのだろう。
わだかまりを感じながら、僕はその場を後にする。
山の間に見えた空は、絵の中で見たものと全く同じ色をしていた。
森の中を歩くのは気持ちが良かった。
木の根を渡り、岩を乗り越え、枝をくぐった。
途中、小さな滝を見つけ、その脇で母が作ってくれたおにぎりを食べた。
水は冷たく、飲んでみると甘かった。
おにぎりの具を当てるゲームをしながらそれを食べ、食事を終えると滝のしぶきを浴びて涼んだ。
山の景色はどこも同じように見えたが、よく見ると小さな発見があって面白かった。
集井村の付近であるだけあって、水がとても豊かだった。あちらこちらに清流が流れていた。
そうして自然を楽しんでいるうちに、日は傾いてきて、辺りはうっすらとオレンジ色になった。
僕らは川原に出た。
その川は緩やかに流れており、向こう岸までの距離は一〇から一五メートルほどに見えた。
ふと、その名前が思い浮かんだ。
ずっと昔に聞いた名前。どうして名前が出てきたかはわからなかったが、この川にはそんな名前があったはずだ。
河岸は静かだった。
川の流れもゆったりに見えた。
先に走って行った秋が川に手を入れて遊んでいる。
「滑らないよう気をつけてね」
「春も触って。冷たくて気持ちいよ」
「どれどれ」
川へと近づく。徐々に足元が草から石へと変わる。
足の裏に石の動く感触がある。
徐々に胸の中で何かがざわめき始める。
水の流れる音が大きくなる。
鳥肌が広がる。
怒る与助おじさんの顔が浮かんだ。
そうだ、ここはおじさんに怒られた場所だ。子どもだけで近づくなと言われたあの場所。
首筋を汗が走った。
「秋、危ないからあまり川に近づかないで」
そう言いながら、僕は川を前に後退った。
「何で? 流れはゆっくりだよ」
「危ないかもしれないから」
気持ちの悪い感じが服の下を這いずり回っている。
「ちょっと具合悪いから休む」
川から離れる。
胸が苦しい。
「大丈夫?」
ズボンで手を拭きながら、秋がこっちへ向かってきた。
足元が石から土へと変わり、ほっと安心する。
大きな木の幹に寄りかかり、座った。陰に入ると風が涼しかった。
足が弾力のある何かにぶつかる。タイヤだった。
劣化したタイヤが転がっており、中には水が溜まっていた。その上を緑色の物体がうねうねと動いていた。
イラガだ。
体が痺れた。
その向こうの木の幹にも、数匹のイラガが張りついている。
見上げると葉の裏にも、うじゃうじゃ動くイラガがいた。
巣窟だ。
見上げたまま、体が震えて思うように動かなくなった。
「うわあ。すごい数だね。降ってくるかもしれないから離れよう」
秋に手を引かれて、その場を離れる。木が見えなくなってきて、ようやく震えが収まる。
「ありがとう、秋……」
「あんな場所あるんだね。春は近づかない方がいいよ」
恐ろしい光景だった。
「そろそろ帰ろうか」
辺りは暗くなってきていた。
懐かしさと、恐ろしさが織り混ざっていた。
身震いして家に向かった。
家に到着すると玄関が開いており、そこに眼鏡をかけたおじさんが座っていた。
その奥には弘子おばさんが立っていて、二人は話し込んでいた。
「こんにちは、お邪魔してます」
「お帰り。春くんは四郎さんのこと覚えてる? ほら、
弘子おばさんが教えてくれる。
「おお、春くん。すっかり青年だね。秋くんは会ったことないか」
おじさんは野菜を持ってきたようで、作業着の格好のままだった。
黒縁眼鏡の奥で温厚そうな目が笑っていた。
全く記憶がなかった僕は、どうも、と曖昧な返事をすることしかできない。
「そいじゃ、今日は帰るわ。二人も、いつでも遊びに来てね」
彼は元気な足取りで軽トラックに乗り、帰って行った。
「桂子ちゃんとは仲が良くてね。私、よく遊びにいってるのよ。四郎さんも優しいから、今度顔を見せてあげて」
「はーい」
秋が返事をしながら靴を脱ぎ捨てて家へ上がる。
僕は秋の靴を揃え、それから自分の靴を脱いでお風呂に向かった。
久しぶりの運動に体の疲れがどっと出た。
*
深沢家は昔ながらの木造の家だ。
い草の匂いや古い箪笥の匂い、ちらつく蛍光灯、立て付けの悪いふすま、それらが時間の流れをせき止めている。
この家にいると、心から落ち着くことができる。
お気に入りは縁側。風鈴の涼しげな音を聞きながら、木々をゆったりと眺めることのできる、開放的な空間。
ここでアイスを食べるのは至福だった。
「あ、いいな。秋もアイス食べる」
僕は足を外に投げ出して横になると目をつぶった。
とっとっとと走る足音が遠のいていき、冷蔵庫の開く音。中身をがさごそやって、冷蔵庫の閉まる音。とっとっとという音が近づいてきて、隣に座った。
秋は僕が食べていたものと同じアイスバーを手にしていた。
「おいしいね。これ」
「おいしいね」
好きな場所で、秋と一緒に食べるアイス。
そよぐ風に風鈴の冷たい響き、ほのかなサイダーの香り。
秋が口を動かすと、しゃりしゃりと音がした。
もぐもぐしている口がおもしろくて眺めていると、彼は視線に気づいてにっこり笑顔になった。
「次はどこいこうかな。今度はトンボ号を飛ばせる場所に行きたいな」
「なるほど。じゃあ、広めの場所を探しに行こうか」
「そうしよ」
蝶々がひらひらとやってきて、足元の踏み石に止まった。
大きな入道雲が背伸びしていた。
昨日と反対側の山を探索する。
生い茂る草の中をがさがさとかき分けて進んだ。
「どこかに広いところないかなあ」
秋は岩に登って辺りを見渡した。
「あれ、あそこになんか立ってるよ」
そこに立っていたのは錆びついたバス停だった。
バス停といっても、円形の鉄板に一本看板をさした簡素なものだ。
その横には草の生えた道路が横たわっている。
昔はバスが走っていたのだろうが、今では使われていないようだった。
茶色くなって折れ曲がったバス停の文字は、ほとんど消えかかっていて、読むのが難しかった。
「春、なんて書いてあるかわかる?」
「『集、小、校前』。きっと集は集井のことで、小学校前のバスなんじゃないかな」
「そういうことか。じゃあ、近くに集井小学校があるんだ。探しに行こ」
「道沿いにあるかな」
道路の真ん中を歩くのは楽しかった。それも今は走る物のなくなった道路。
遺跡の上を歩いているようでわくわくする。
「校庭があればトンボ号も飛ばせるね!」
「そうだね。この道路の具合からして、学校の状態がどんなものかな。入れたらいいね」
「あった」
そこにはくすんだ校舎が建っていた。鉄筋コンクリート造りと思われる、横に長い二階建て校舎。
窓のいくつかは割れていて、壁の塗装があちこち剥がれ落ちている。
あちこちにつたが張りつき、長い年月放置されていたのを物語っていた。
校舎前には校庭とみられる広いスペースがあった。
そこで縄跳びをして遊んでいるこどもたちがいた。
小学生くらいの子が四人。中学生くらいの女子が一人。僕と歳が近そうな男子が一人。
「お、誰だあれ!」
小学生らしき男の子がこちらに気がつき、駆け寄ってくる。
縄跳びが止まり、皆の視線がこちらへと向けられる。
「俺はソウイチ。君は何て言うの?」
少年が秋に話しかける。
「ぼくは秋。よろしく」
「こんにちは。二人はどこから来たの?」
年長者の男子が笑顔で話しかけてきた。
「東京の方から来たんだ。僕は春。秋の兄」
「へえ、兄弟で季節の名前?」
「そう。僕も秋も季節の漢字と同じ」
秋が自分の名前を校庭の砂に書いて見せた。
ソウイチくんもその横に「総一」と書いていた。
「へえ、そうなんだ。俺はカズマ。和む馬で
彼は筋肉質で、つんつんと立った黒髪をしていた。
身長は僕よりも少し高い。
「僕は高一、よろしく。秋は小三」
「あ、惜しい。よろしく、春。秋くんもよろしくね」
彼はしゃがんで秋と同じ目線になり、微笑みかけた。
「あっちで俺と一緒に縄回してたのが、俺の妹のヒロコで小六。そのつながりで、よく小中学校の子たちと遊んでるんだ」
秋がトンボ号を取り出すと、総一くんら小学生たちは目を輝かせた。
「何それ!?」
「この前、春に買って貰ったんだ。輪ゴムで引っかけて飛ばすんだよ」
秋が構えると子どもたちは息を呑んだ。
次の瞬間、手から離れたジェット機は、一瞬で青空に小さくなった。
そうして上がりきったところで、太陽の光をきらりと反射させ、そのままくるりと縦に一回転し、滑空した。それからふわりともう一度浮き上がって、少し離れた場所に着陸した。
歓声があがり、秋を先頭に小学生たちはトンボ号の元へと駆けていった。
彼らがトンボ号で遊んでいる間、僕と和馬、それに中二の
和馬と奈美は、こちらのことをたくさん教えてくれた。
この学校は彼らの祖父母世代が通っていた古い学校で、元は木造だったという。一九八〇年頃に鉄筋コンクリート校舎に建て替えられたらしい。
しかし、十数年前にこの地域の少子化により、集井小学校は町にある風山小学校と合併されたのだそうだ。それに伴い、こちらの校舎は使われなくなり、手入れがされずに今に至っているのだという。
ここは現在、彼らの遊び場所になっているということだった。
僕は彼らに自分の住む街について話した。彼らは都会の話を聞いて、小さな事に対しておもしろい反応をしてくれた。例えば、コンビニエンスストア同士の近さで感心していた。
自分の家の周りでは、別のコンビニが道路を挟んで向かい合っていたりするという話をすると、もっと離れたところに作った方が、お客さんが多く来そうなのに、と言われた。
たぶん、混んでいない方にお客さんが流れて丁度よくなるのだと返すと、便利さを羨まれた。
会話に盛り上がっていると、急に雨が降り出した。
先ほどまで青かった空は分厚い雲に覆われて、地面で水滴が跳びはねていた。
小学生たちも大急ぎで校舎の方へ走ってきて、僕らは校舎の中で雨が止むのを待つことにした。
和馬が、校舎の中で比較的綺麗な教室に案内してくれた。
黒板には彼らが書いたような落書きが見られ、それを総一くんが近くに置いてあった黒板消しで消した。
よくここで落書きをしているらしく、側に転がっていたチョークで、みんなそれぞれに絵を描き始めた。
「ちょっと、校舎内を散歩してきてもいいかな」
和馬は頷いた。
「いいよ」
「秋、ちょっと校舎の中見て回ってこようと思うけど」
「ぼくはここで絵描いてる!」
彼は友達とのアートを楽しんでいた。
「秋くんのことは見てるから。たぶん、しばらくこの部屋にいることになると思う」
「わかった。じゃあ、行ってくる」
「春、ちょっと待って!」
僕が教室を出ようとすると、秋が慌てた様子でカバンをガサゴソかき回しながら言った。
「これ」
差し出されたのはゴム手袋だった。
「弘子おばさんからもらったの忘れてた。もう使わなくなったやつだって。毛虫ガードなの」
ゴム手袋は肘手前までの長さで安心感があった。
これがあれば、毛虫にも何とか近づけるかもしれない。近づきたくはないが。
「秋、ありがとう」
「もし、前みたいにドアノブに毛虫がついてても、これをつければ大丈夫だよ」
秋は、また後でね、と友達の元へと戻っていった。
手の中のゴム手袋を見た。
毛虫なんか平気と言える、いい兄になりたいと思った。
それでもイラガのことを想像すると、やっぱり身のすくむ思いがした。
ゴム手袋をリュックに入れ、こもった雨音の中、廊下を歩く。
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