5
小川の石の上を渡ると、小さな魚が逃げていった。
「秋、落ちないように気をつけてよ」
「春もね」
石には苔がついていて、滑りやすくなっていた。
ずるっといく感触にひやっとしながらも無事に渡りきり、先へ進む。
川の近くにはしんとした冷たさが広がっていた。
僕は腕をめいっぱいに開いた。
まだ、先ほど見たあちらの世界が、頭の中に残っていた。
いつも通り夢見心地な感じはあったものの、いつにも増して本当に体験したかのようだった。それとも、さっきのは単なる夢だったのか。
「春! 早く!」
「ちょっと待ってよ」
秋は猿のように軽々と木や岩を登っていく。
近頃、運動をしていなかったせいで息が切れたが、それでもなんとか秋についていく。
山は色々な顔を持っていた。美しい水と植物があちこちに見られ、雄大な岩々に木々が並び、そこを小動物や虫が元気に動き回っている。
街のアスファルトに跳ね返る太陽の灼熱とは違って、比較的過ごしやすかった。
「ここ壁になってるよ」
秋が指さした方向には、ちょっとした崖のようなものが続いており、向こう側へは壁を登るか、遠回りをしなければならなかった。
「春、肩車して」
「いいけど、気をつけてよ」
僕がしゃがむと、秋は肩の上に乗ってきた。
以前は時々肩車をしていたが、最近はしていなかったため、前よりずっと重くなっていて驚いた。
肩にぐいと圧力がかかる。
「登れた!」
上で、リュックサックをガサゴソやっている秋。
「トンボ号飛ばしていい?」
「そこから? まあ、いいよ」
崖の上からの方がよく飛びそうだと考えたのだろう。
彼はトンボ号に輪ゴムをかけて、ぐいっと引っ張った。
「いくよー!」
ぎゅんと飛び出したジェット機はその場で宙返りをし、二回転目の途中で風に持って行かれたのか、右へ旋回した。
「あ」
トンボ号は崖の側に立っていた木の葉の中に突入し、見えなくなった。
落ちてこない。
「どうしよう。引っかかっちゃった」
秋は葉の中を覗き込もうと崖の端にしゃがみ込んでいた。
「落ちないでね、危ないから。ちょっと登れるか確かめてみる」
崖に登って手を伸ばしたとしても、飛行機が引っかかっている枝には届かなそうだ。
だとすれば、木を登って取る方が可能性はある。
木の下から見上げてみると枝の中に薄茶色のふわふわした物体があった。
僕はそれを注意深く見た。
猫だ。
こちらに気づいた猫と目が合う。
猫は軽快に枝から枝へと移動し、木から崖へと飛び移った。
「うわあ!」
崖の上から秋の声が聞こえて、僕は崖下に駆け寄った。秋の姿がない。
「秋、大丈夫!?」
いてて、と言いながら秋が立ち上がった。
「急に飛び出してきたからびっくりして転んじゃった」
安心したその時、僕は気がついた。
この光景、どこかで見たことがある。
たしか――とその時、後頭部に軽い何かがぶつかった。
振り向くと、足元にトンボ号が落ちていた。
「トンボ号、落ちてきたよ! 猫が枝を揺らして取れたみたい」
秋は喜んで拍手をした。
僕はトンボ号を拾い上げて、手を伸ばし秋に渡した。
「ここは木が多いから、もっと広い場所でやった方が良さそうだね。じゃあ、僕も登るよ」
「つかまって」
上から手を伸ばす秋。
「ありがとう。でも、僕は駆け上るからちょっと離れてて」
引っ張ったら秋が落ちてしまうのは目に見えたので、助走をつけて崖の上に手をひっかけ、よじ登る作戦で行く。
まず、三メートル程の距離を取り、そこから一気に加速、崖手前の地面から跳ぶ。目の前の壁を思いきり蹴って手を上に伸ばす。
ぎりぎり届いた。
壁に張りつき、そのままよじ登る。
「ぐぐぐ、何とか登ったぞ」
足を上に振り上げて引っかけ、全身を崖上に投げ出す。
久しぶりの運動は楽しかった。
「もっと奥まで行ってみよ!」
秋の小さな体に秘められた体力に感心しながら、少しふらついた足取りで先へ進んでいく。
木がまばらになってきて、一気に開けたところが見えてくる。
「見て、あれ」
先に進んでいた秋が足を止め、遠いところを示していた。
そこは広い高台で、山に囲まれた谷が一望できた。
眼下には大きなクレーン車やダンプなどが止まっていた。
向こうの方から道路が続いており、山の中を開通しようとしているみたいだった。
きっと向こうには町があり、アクセスを向上させるための道路なのだろう。
現在、集井村へ行くには、昔からある山道をぐるぐると遠回りしなくてはならない。この道路ができれば村の人や周りの町に住む人たちの生活が大きく変わるに違いない。
「すごい。道路ってこう作られるんだ」
「ね」
感心している秋を横に、切なさが胸にじわじわと押し寄せた。
木が切り倒されて、石が砕かれて、道ができていく。もしかすると、子どもの頃に気に入っていた場所もなくなっているかもしれない。
この滞在中に、山の景色を目に焼き付けておこう。
鳶の高い鳴き声が悲痛に聞こえた。
秋が疲れたと行ってしゃがみ込んだ。肩が痛いというので、カバンの中身を出したら、画用紙や色鉛筆が出てきた。
「これは重いわけだ。どうしてお絵かきセット持ってきたの?」
「冒険の途中で新発見があるかもしれないから、それを記録するために持ってきたんだよ」
「なるほど。僕がしばらく持っとくよ」
僕は画用紙と色鉛筆を自分のリュックにしまおうとした。
しかし、手が滑り、それらを落としてしまった。
色鉛筆のケースがぱかっと開いて、中身が土の上に散らばる。
「うわっ、やっちゃった」
しゃがみ込んで、それらをひとつずつケースに戻していく。
赤、青、緑、黄緑、紫……黄色がない。
どこへ転がってしまったのだろう。
近くの石を持ち上げたり、草をかき分けたりするが、黄色はどこにも落ちていない。あるのは濃い土の香りと、影に隠れていた小さな虫だけ。
夢中になって探しているうちに、頭に固いものがぶつかり、僕は尻餅をついた。
目の前には木が立っていた。下を向いていて気がつかなかった。
痛む頭を押さえながら立ち上がる。
「これを探しているのか?」
顔を上げると、黄色の色鉛筆を持ったヤシが満面の笑みで立っていた。
「あ、ヤシ。ありがと」
彼から鉛筆を受け取り、全ての色が揃う。
「まったく、相変わらずはるはドジだな。待ち合わせ場所まで一緒に行こ」
「うん」
僕らは並んで歩き出す。
「ヤシは、絵かき大会で何描くの?」
「そうだな、おれは人の絵を描きたいな」
「難しそうだね。誰を描くの?」
「まあ、誰かと言われると……アサヒだな」
「何で?」
僕の問に彼は不思議そうな顔をしていた。
「それは、だって、アサヒの笑顔は綺麗だろ。アサヒの名前も、いつも笑っていて、その笑顔が朝日みたいだからあの名前なんだぞ。芸術家は綺麗な物を描くから、おれはアサヒを描くんだ」
「確かに、アサヒはよく笑ってるね」
「そういうはるは何を描くんだよ」
「うーん。どうしようかな」
人を描くのは難しそうだし、花を描くような気分にもならない。かといって、風景を描くのはもっと難しそうだ。
「何も思いつかないなあ」
「じゃ、はるはモデル探しからだな」
待ち合わせの場所には、アサヒの他に小学校低学年くらいの男の子とちょっと大人っぽい三つ編みの女の子がいた。
小柄な男の子はアサヒの後ろに隠れて、彼女の裾を握っていた。
くるくるふわふわの髪の毛についていた葉っぱをアサヒが払う。
女の子は落ち着いた雰囲気だった。
肩掛けバッグにパレット、それにキャンバスを手にしており、もう一方の手には開かれた本があった。
彼女は、麦わら帽子の影からこちらをじっと見ていた。
「おお、今日はハナセとシゲも来てたのか」
ヤシが近づいていくと、シゲと呼ばれる少年は僕の方を指さし、アサヒを見上げた。
「あの子だれ? お姉ちゃんの友だち?」
不安げな表情でこちらを見ている。
「そういや、シゲもハナセも、はるに会ったことなかったよね」アサヒが思い出したように言う。「はるは最近引っ越してきて、来学期から同じ学校になるんだよ」
「それで、ミラクル冒険隊転校生代表に任命したぞ」
ヤシが胸を張る。
「こっちがハナセ。頭がよくてなんでも知ってるし、色々作るのも得意なことから、博士みたいなんだ。特に花が好きだから花と博士が合体して、『ハナセ』」
ハナセは小さく会釈した。焦げ茶の髪色と外国人のように白い肌が印象的だった。
「ハナセは六年生。で、こっちはシゲ。シゲはアサヒがそう呼んでるから『シゲ』。アサヒの弟」
シゲはくりくりの目をしていた。
「シゲは、今は二年生だっけ?」
「違うよ、シゲは三年生だよ」
シゲは元気よく反論する。
「ということだそうだ」
「よろしくね」
僕が握手しようと手を出すと、彼は僕の手を見て頷いた。
「じゃあ、紹介も済んだところで、絵かき大会を開催しますか」
ヤシが張り切った声を上げる。
「アサヒ、モデルを頼んだ!」
「私、動かないの苦手だから他の人にお願いして」
アサヒは画用紙を持って歩き出す。シゲがその後ろを歩いて行く。
ヤシは首をうなだれていたが、何か思いついたのか、二人とは違う方向へ走って行ってしまい、残されたのはハナセと僕の二人だけだった。
「私たちも行こう」
彼女は開いていた本を閉じ、歩き出した。
彼女がアサヒたちの向かった方へ行くので、僕もそれについて行くことにした。
今度は足元に気をつけなきゃ、と何気なく視線を落とすと、そこに一枚のしおりが落ちていた。
拾い上げると、そのしおりには押しつぶされた花が挟まれていた。
「これ、落としたよ」
ハナセは栞を受け取り、それを本に挟んだ。
「気づかなかった。拾ってくれてありがとう」
「それ、何?」
「これは、押し花のしおり」
「へえ、そんなの作れるんだ」
「綺麗でしょ」
再び歩き出した彼女に、僕もついていく。
さて、何を描こうか。
考えながら土の上を歩く。
前を行くハナセは、無言でまっすぐ前を見つめていた。その視線の先で、アサヒとシゲが楽しそうに話している。
どうせだったら描きやすいものがいい。なぜなら僕は絵が下手だから。
こんなにも美しい世界が目に映っているのに、指先から生まれる線は、見たものとかけ離れて醜くなる。
目に映ったものをそのまま写し取れる機械があったらいいのに。
「何を描くの?」
前方から聞こえた声に目を向ける。そこには変わらず前を向いたハナセの背中がある。
「あ、僕は、ええと……まだ、何を描くか決まってないんだよね」
カサカサと草の擦れ合う音。
麦わら帽子は振り返らない。
「ハナセは何描こうと思ってるの?」
「私も、まだ決めてない」
木漏れ日が彼女の背中に模様を描いていた。
「そうなんだね。いやあ、何を描くか迷っちゃうよね。普段、絵とか描かないし、僕、絵が下手くそだからさ。描きやすいもの探してるんだけどね」
彼女の肩掛けバッグからは絵筆が顔を出しており、反対側にはキャンバスやパレットが抱えられている。
それらは、彼女が一歩踏み出す度に落ちそうになりながらも、ぎりぎりのところでバランスを保ち、あるべき場所に収まっている。
「ハナセは普段から絵を描くの?」
「うん。お父さんが絵を描くから」
「そうなんだ。すごいね」
彼女のお父さんは画家だったりするのだろうか。それとも、彼女の家庭ではそれが身だしなみのようなものなのだろうか。
「描きたいと思ったものを描けばいいと思う」
「え?」
彼女がこちらを振り返って、止まる。
「絵っていうのは、上手な絵を描くために描くものじゃないよ」
彼女の目がまっすぐに僕の目を捉えた。
「描きたいと思った時、描けばいいの」
「描きたい絵を……」
「はるも、私も、うまい絵を描かなきゃいけない理由なんてない」
涼しげな口元がぐいっと持ち上がり、風に飛ばされそうになった帽子を押さえた彼女は、笑っていた。
「筆をキャンバスにつけたとき、こっちだと思った方向に腕を動かすだけだよ」
そうして、彼女は何事もなかったかのように歩き始める。
僕はその場で動くことを忘れ、遠くなっていく彼女の筆を眺めた。
僕は、描きたいもの、とつぶやいた。
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