4
茂みのトンネルをくぐっていく。
ちらちらと葉の隙間から漏れる陽光を頼りに、先へと進んでいく。
トンネルは少し頭を低くしないとぶつかってしまうくらいの高さだった。
視界が開けて明るくなった。
中心に僕の身長ほどもある大きさの岩があり、その周りを囲うようにして、小川が流れている。
僕はそこに転がった石の上を跳んで、岩のある中心へと近づいた。
岩は触れると冷たかった。
その隣に腰掛けて、休憩を取った。
小川の流れる音、遠くの方で鳥のさえずり。
岩から安らぎが染み出ていた。この空間には外と違う何かが流れている。
一見、偶然にできた風景のようだが、それ以上の何かがある ような気がした。
手を頭の後ろに当てて寝転ぶ。
茂みに囲まれたその空間は、上部に穴が空いており、青天井が広がっていた。
その中を雲がゆっくりと流されていく。
昼の空を上映するプラネタリウムのように。
手を前に伸ばすと、手に持っている箸が視界に入った。
机を囲み、草野家と深沢家が食事をしている。
「春、それ欲しい」
秋にたくあんを取ってあげ、自分もそこから一枚口に放り込む。
あの写真に似たところだった。子どもの時に集井村付近を冒険していた時、見つけたあの場所に。
この村に来たことで記憶が呼び起こされたのかもしれない。
山菜料理を口に運びながら、先ほどまで見えていたあちらの景色の中に、心はまだ取り残されていた。
弘子おばさんと母は友人のように会話をしていた。
秋が与助おじさんへ料理についてあれこれ質問をし、おじさんは丁寧に作り片まで教えている。
あの岩は、今、どうなっているのだろうか。この村にも変わった部分はあるのだろうか。
あちらの世界は、無意識の奥深くに眠る記憶の片鱗なのかもしれない。
障子の向こうから聞こえる蛙の大合唱が、久しぶりに訪れた僕を迎え入れているようだった。
*
昨夜はゆっくりと眠ることができた。静かな夜は久しぶりだった。
朝、六時頃に目が覚め、与助おじさんに一言告げて散歩に出た。
秋も誘おうかと思ったが、幸せそうな顔で寝息を立てていたので、今は一人で行くことにした。
朝の冷えた空気。あくびをしながら歩いて行く。
茂みの先端に露がしがみついていて、揺れる拍子にそれらは地面へ跳びはねた。
鳥はもう起きているようで、仲間と戯れているような声が聞こえていた。
裏山の方は、秋との冒険ゾーンになりそうなので、家々が立つ村の中心へ向かう。
山道の砂利を踏みしめ、民家にたどり着く。
家の前でかがみ込んで作業をしている中年女性がいた。
近づいていくと、彼女が振り向いて、目と目が合った。
「あら、深沢さんとこの親戚の子?」
「あ、そうです。おはようございます」
彼女は手を服の裾で拭いながら、立ち上がる。
「爽やかなハンサムじゃない」
「はは……どうも」
「何? これからどっかいくの?」
元気な人だった。声が朝の静けさに浮かび上がっている。
「散歩にでも、と」
「あ、そうなのね。行ってらっしゃい」
行ってきます、とその場を去る。
この村では、家と家の距離は遠いのに、人の距離は近い。
僕の家がある街では、家と家の間は手を伸ばせば届いてしまうほど近いけれど、そこに住んでいる人がどんな人なのかよく知らないし、知ろうとすることもない。
自分の住む街との違いを噛みしめながら、道を歩いて行くと、小さな池があった。
そのそばには木の柱を二本地面に打ち込み、そこに一本の板を渡した簡易的な椅子がある。
そこに見覚えのある後ろ姿が座っていた。
「あ」
「え、春?」
振り返ったのは思った通り、山辺くるみだった。
「なんでここに……?」
「わたし、おじいちゃんの実家に来たんだよ」
ああ、そうか。
康司さんの実家はこの近くのはずで、別荘に使っているのだったっけ。
「僕も久しぶりに親戚の家に来てるんだ。くるみの別荘がこっちにあるのは康司さんから聞いてたけど、同じ日に来てるとは思わなかったな」
ベンチのそばまで行くとくるみが端にずれたので、隣に座った。
「偶然だね。しかもこんな朝早くに会うなんて」
彼女は伸ばした足を上下に揺らしながら言った。
「そうだね。早く起きちゃったから散歩してたんだ」
「わたしも早く目が覚めちゃって」
彼女があくびをかみ殺し、それを見た僕もつられてあくびをした。
「眠いね」
あくびをする僕の顔を見て彼女は言った。
「そうだね」
空を仰いで、彼女は背伸びをした。
のんびり流れる雲みたいに、時間がゆっくり過ぎていく朝だった。
*
お尻に鈍い痛みが走る。体のあちこちが擦り傷だらけで動かすと痛んだ。
僕が座り込んでいるのは草がうっすら生えた岩場だった。
見上げると、先ほど自分が落ちてきた崖がある。
反対方向を見ると、何メートルも下に地面があった。
ここは崖の途中にある、ちょっとした出っぱりだ。
茂みの奥が急な坂道になっていて、そこに足を取られ転げ落ちてしまった。
風に服がはためいた。
登らなきゃ。
壁のへこみに手をかけて、力を込める。
固い岩壁は掴みにくい形をしていて、なかなか力が入らなかった。
それでも足をかけるところを探し、体を精一杯持ち上げる。
手が震えた。パラパラと石のクズが落ちていく。
もう一方の手を上へと伸ばしたとき、足元がずるっと滑り、体が壁から離れた。再び出っぱりに落ちる。
僕は落ちたままの姿勢で崖の上を見つめた。
こんな所で死んでしまうのだろうか。
大きな鳥が高いところを飛んでいる。僕が死んだら食べようと待っているのかもしれない。
あんな感じの大きな鳥が、動物の死体を食べるという話を本で読んだことがある。
膝を抱えた格好で崖に背を着けた。
何もしなかったら助からない。どうにかしないと。
大きな息を吸って、力の限り叫ぶ。
「助けてえええええええ!」
声が山のあちこちに響いた。
これでは、どこから助けを求めているのかわからないかもしれない。
それでも、何もしないよりは助けを呼んだ方がいいと考えて、もう一度大きな声を出す。
声がかすれてひっくり返った。それでも声の限りに叫び続けた。
何十回も叫んで、僕は力尽きた。
だめだ。助けを求めても誰にも届かない。教室ではうるさいと注意される僕の声も、この山奥では風の音にかき消されてしまう。
「助けて……!」
喉が痛かった。
「おい! 大丈夫か!?」
上を見上げると、崖の上に男の子の顔があった。見た感じからして同い年くらいの少年。
髪の毛はボサボサで寝ぐせが花開いており、よく日焼けした肌に白目がぎょろりと目立っていた。はっきりとした顔に太い眉。顔をひょっこり出して、こちらを見下ろしている。
「ヤシ、大丈夫そう?」
女の子の声も聞こえてくる。
「崖から落ちたんだ。助けてあげないと」
ヤシ、と呼ばれる少年の横に、少女が並ぶ。
小麦色の肌に、凛とした瞳。黒髪のおかっぱ頭。彼女は心配そうにこっちを見下ろしていた。
「おれ、ロープ持ってくるわ。アサヒはここで見張ってて」
ヤシが立ち上がり、アサヒと呼ばれた少女は頷いて彼を見送った。
「怪我はしてない?」
彼女がこちらを見下ろした。
「擦り傷はあるけど、大きな怪我はしてないと思う」
「よかった。落ちないように気をつけてね」
本当にでっぱりがあって良かった。ここに落ちなければ、何メートルも下まで一気に転げ落ちていたのだ。
そうなれば、絶対に生きてはいなかった。
「なんて呼べばいい?」
彼女は覗き込んだ姿勢で聞いた。
「はる、とかでいいよ。前の学校とかでそう呼ばれてた。君はアサヒっていうの?」
「うん、みんなにはそう呼ばれてる。前の学校って?」
「引っ越してきたんだ。二学期からはこっちの学校に通うんだよ」
「そうなの!? 今何年生?」
「五年生」
「じゃあ、同級生だ。これからよろしくね」
彼女は嬉しそうに笑った。
「さっきの子は?」
「あれは、ヤシ。髪の毛がヤシの木みたいだからヤシ。あたしたちの隊長なんだよ」
「隊長?」
「そう。ミラクル冒険隊の隊長なの。みんなの隊員名をつけてるのもヤシで、その呼び名で呼びあってるんだ。私も『アサヒ』ってヤシからつけられたの。たぶん、名前の一部を取って」
「隊員名……」
「ヤシが帰ってきたら、はるの名前もつけてもらえると思うよ」
「僕も入れてもらえるの?」
「入れるよ。ヤシも新入隊員を欲しがってるから」
彼女は満面の笑みを浮かべた。
しばらくして、ヤシがロープを肩にかけて現れた。
アサヒがずっと一緒にいてくれたおかげで、待っている時間はあっという間だった。
「これに掴まれ」
彼はロープの一方を木に結びつけ、崖から垂らした。
ロープを掴み、岩壁をよじ登る。踏ん張るのが難しかったが何とか登り切り、ヤシとアサヒに引っ張り上げてもらった。
「困ったときはロープが助けてくれるぞ。ロープは隊員のひつじ品だ」
「必需品といいつつ取りに帰ってたけどね」
「重いからな。どこにあるかを覚えておくことが大切なんだよ」
ヤシは木に縛り付けたロープをほどく。
「本当にありがとう。二人がいなかったら僕は死んじゃってた」
「気にすることはないぞ。おれたちミラクル冒険隊は、困った人を助ける正義の味方だからな」
彼は肩にロープをかけ、こちらに向き直る。
「おれはヤシ。隊長だ」
「僕ははる。よろしく」
「はるは、二学期からあたしたちの学校に入学するんだって。同級生だよ」
アサヒの紹介に、ヤシの顔がぱっと明るくなる。
「本物の転校生じゃん! おれ初めて転校生みたぞ」
テンションが急に上がるヤシ。
「よし、今日から、君はミラクル冒険隊転校生代表だ。よろしく頼んだ」
「よ、よろしく」
「それでだ」彼は腕を組む。「隊員名をつけなくてはいけないが、『やまびこ』はどうだろう」
「やまびこ?」
アサヒが疑問の声を上げる。
「そうだ。助けて、という『やまびこ』によっておれらは出会った。だから、『やまびこ』」
「うーん、なんかしっくりこない」
アサヒが難しい顔をしている。
「じゃあ、『崖落ち』は?」
「それはちょっと……」
僕は必死で抗議する。
「ううん。話してるときに『はる』で慣れちゃったし、『はる』が呼びやすいなあ」
アサヒが僕の顔を見て、それからヤシの顔を見る。
「そうか?」
ヤシは僕を下から上まで眺め、眉を寄せている。
「他に思いつかないし、アサヒがそこまで言うなら、『はる』にしよう」
彼は少し顔を赤らめながら、そう言った。
「今日から、はるは、ミラクル冒険隊転校生代表だ!」
差し出された手を握る。
「やったね! ミラクル冒険隊の仲間が増えた!」
アサヒが小さくぴょんぴょん跳ねた。
「じゃあ、引き続き冒険するぞ」
「その前に、はるの怪我を見てもらいに行こうよ」
「たしかにそうだな。じゃあ、おれの家まで冒険だ」
元気な二人について、僕は歩き始める。
「ミラクル冒険隊って、普段何してるの?」
「冒険に決まってるじゃないか」
僕の問にヤシが答える。
「よくここら辺の山を冒険してるよ」
アサヒが補足する。
なるほど、冒険か。そのままなんだな。
しゃあしゃあと降りそそぐ蝉時雨の中、僕らは進む。
楽しい夏が始まる予感がした。
近くで蝉が飛び立ち、手に液体が当たった。
手元を見ると、食べかけのスイカから、赤い汁が手を伝ってぽたぽたと垂れていた。
僕は一人、深沢家の食卓に座っていた。
今回はこれまでより随分と鮮明だった。夢の一部だけ妙に覚えているような感覚だ。
今までぼやけた人物しか出てきてなかったのに、ヤシとアサヒは意識がこちらにもどってきた今でも思い出せる。
また、あちらの世界で僕は、何の意識もせずに自分が小学生であることを受け入れているのがはっきりした。
「それじゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
玄関から声が聞こえた。
僕ははっと我に返り、スイカを置いてティッシュを取ると、手を拭きながら玄関へ向かった。
与助おじさんと弘子おばさんが出かける所だった。
ドアが閉まり、二人の影が離れていく。
「どこ行くって?」
「友達のお墓参りだって」
お見送りに出ていた秋が教えてくれる。
「おばさんたち、子どもの頃に若くして亡くなった友達がいるらしくて、定期的にお墓参りに行ってるの」
そう言う母は、いつもよりのびのびとしているように見えた。
普段は働いて家事をして、いつも忙しくて疲れている様子だったので、僕は少しほっとした。
「そうなんだね。じゃあ、僕らも出かけようか」
「やった! 探検!」
秋が走り回り、床が揺れた。
まだべたついている手を洗いながら、以前のおばさんたちのことを思い出す。
そういえば昔も、二人はお墓参りに行っていた気がする。
僕も一度連れて行ってもらったような。
そんなに前から定期的に通い続けているということは余程仲が良かったのだろう。
果して、僕にもいつかそんなに仲のいい友人ができるのだろうか。
玄関へ向かうと、リュックを背負った秋がもう外に立っていた。
僕も靴を履いて、日の下へ出ていく。
こうして、何年かぶりの集井村周辺の冒険が始まる。
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