3
探し物をしていて、棚の奥に眠るアルバムを見つけた。
僕が小学校低学年の頃に撮った写真が入っていた。中古のカメラをもらって夢中になっていたのだ。
被写体は道端に落ちている鎖や微妙に枯れている花の写真などで、目についたものは片っ端から収められていた。
ページをめくっていくと川の写真が出てきた。たしか、この川は弘子おばさんが住む村の近くだったはずだ。
よく、川原で水切りなんかをして遊んでいた記憶がある。
深沢家のある
川の水は透き通っていて、辺りの自然や生物も活き活きとしていた。そんな場所で遊ぶことが、子どもの僕には大冒険だった。
村で遊んでいた時のことを詳しくは覚えていないけれど、それでも、写真を見たらワクワクやドキドキが蘇ってきた。
この川は、僕の曖昧な記憶の中で最もはっきりと思い出がある川だ。
穏やかな
与助おじさんは、弘子おばさんの夫だ。おじさんとおばさんはいつも優しくて、僕が悪さをした時も怒れる母から庇護ってくれた。
しかし、僕が「川へ行ってくる」と言い残して家を飛び出した時のおじさんは違った。おじさんは必死の形相で追いかけてきて、子どもだけで川に行くのはだめだと叫んでいた。
今思い返すと、おじさんは僕の命を守ろうと必死になってくれていたことが理解できる。川での事故をよく耳にするからだ。 しかし、当時の僕にはそんなことなどわかるはずもなく、その迫力に圧倒され、泣いてしまった。すぐにけろっとして遊んでいた気もするが。
川の他にも、おじさんの家の近所で撮ったであろう写真がたくさん並んでいた。
その中の一つがふと目にとまった。
周りをぐるっと茂みに囲われ、他の世界から隔離されているようなドーム状の空間。中から取っている写真であるため、内部の構造や、どのくらいの大きさなのかはわからなかったが、この写真を撮った時のことはうっすらと覚えていた。下は雑草が生えていて、中は意外に広かったはずだ。
写真の中央に大きな岩が転がっている。岩の上、ドーム中央の天井には穴が空いていて、そこから青空が見える。岩は大半が苔で覆われていて、それが、上から差し込む日光で照らされている。
幻想的な雰囲気に、秘密基地を見つけ出したような喜びがあった。
小さい頃の僕は村の周囲をあちこち歩き回っていたため、それがどこにあったのかわからない。それでもここは印象に残っていた。
今でも残っているだろうか。
僕はアルバムをしまい、物探しを再開する。
いよいよ、明日は出発の日だ。
*
畳。蚊取り線香。ダンボール。
慣れない匂いが広がっている。母が荷物を運んだり、ダンボールを開けて中身を出したりとせわしなく動き回っている。
畳の上で仰向けになった。
四角い箱の中に円形の蛍光灯が二周。そこから紐が垂れ下がっている。よく見ると、電気がつけっぱなしになっていた。
寝転がったまま視線を頭の上にやると、縁側の向こう、庭の端っこで薄茶色の猫がこちらを覗いていた。
僕は起き上がり、玄関から靴を持ってくると、その庭にそれを放り投げた。
猫は道へと歩いて行く。
靴を突っかけながら、猫を追いかける。猫は裏山の方へと駆け上っていった。
見失わないように前方を見ながら、急な斜面を登る。
土から出た木の根っこを足がかりにして、ツタを掴んで上を目指す。
斜面を登り切ると、猫は数メートル離れた大きな木の下を通り過ぎているところだった。
後ろから抜き足差し足で追いつこうとするが、猫の足は僕より少し速い。
焦ったところで木の枝を踏み、バキという音と共に猫が走り出した。僕も猫を追いかけ、木々の中を走る。
しばらく走り続け、猫は突然向きを変えたかと思うと、木の上へひょいと登って、枝の先から崖の上へと飛び移った。
僕は木に登ろうとして枝を掴んだが、体重に耐えられず枝はへし折れた。
体が宙に浮き、お尻に痛みが走った。
ここはどこだろう。
追いかけっこに夢中になりすぎて、自分がどこにいるのかわからなくなっていた。どこを見渡しても、森が広がっていた。
木漏れ日が顔を撫でる。
とりあえず今走ってきたところを戻ろう。
そこら中でチー、ウィーと蝉が鳴いている。
目の前を大きなバッタが跳び、草を揺らした。そのバッタは僕の手のひらほどもある大きさで、草にとまったまま動かなくなった。
両手を構えてバッタにゆっくり近づける。バッタは危険を察知したのか大きく跳びはね、木の幹に止まった。
僕も木に飛びつくが、バッタはうまく手をすり抜け、羽をばたつかせて、今度は遠くへと飛び去ろうとする。
森の中を走り出す。バッタはすばしっこく、華麗に指をすり抜けていく。
ようやく捕まえると、バッタはジタバタしていた。背中側から挟むようにして持つと、あまり動かなくなった。
周りの風景は相変わらず見たことのない森だった。
それでもさっきいた場所よりかは開けていて、村に近づいているように思えた。
家を探して歩き出す。草花が活き生きとしている。
何かに足を取られて転んだ。手の中からバッタが飛び出し、羽音を鳴らしながら草の中へ入っていった。
起き上がると、そこには石があった。
長方形の灰色の石。その周囲に同じような形の加工された石がいくつか転がっている。
側に崩れた井戸があった。そこの石が転がっていたのだった。
覗き込むと、中には闇が沈んでいた。
転がっていた石のかけらを投げ入れる。数秒後、どぽん、という音が反響した。
僕は井戸から離れ、そこから見えた木造の家に向かった。辺りは雑草が伸びていた。
窓から覗こうと家の脇に回る。
窓には泥のような汚れがついており、中はあまりよく見えなかった。しかし、人の気配はなく、時間が止まったような空間があるだけだった。
怖いもの見たさで家に入ってみようと思った。
玄関ドアはあっさりと開いた。
おじゃましまーす、と恐る恐るの挨拶をしながら、玄関をくぐり、中へ足を踏み入れる。
「すいません。誰かいますか」
家の中は静まりかえっていた。大きな声を出すのが悪いことである気がするほどに。
もし誰かがいたら怖いので、すぐに逃げることができるよう、靴は履いたまま家を探索した。
中にはほとんど何もなかった。ほこりだけが積もっており、かび臭く、空気が悪かった。
家中をうろうろして、ひとつの押し入れを見つけた。ちょっと開いており、その中からガサゴソと音が聞こえていた。
急に室内の温度が下がった気がした。
お化けかもしれないし、悪い人が隠れて待っているのかもしれない。とにかく、早くここから逃げないと。
音を立てずにゆっくりと後ずさった。その時、ふすまの隙間から二つの眼光が僕を捉えた。
金縛りに遭ったかのように動けなくなった僕の方へ、その目は近づいてくる。
太陽の光の下に出たそれは、さっき追いかけていた猫だった。
あっけにとられた僕を尻目に、玄関へと歩いて行く。
もう見るところもないので、僕も退散することにした。
家から出て、村への道を探し、あてもなく歩き始める。
太陽はちょうど頭上に登っている。
ごつんと額に衝撃が走り、目の前のガラスに歪む自分の顔が映って見えた。
車に揺られて数時間。うとうとしているうちに景色に見慣れた街の建物はなくなっていた。
窓からは、谷の下を道路沿いに流れる青い川が見える。その幅は広く、流れは緩やかだった。
どうやら、また、あちらの世界に行っていたようだった。
秋はお気に入りのグライダーを片手に、飛行機で谷間を飛び回る妄想に没入しているようだった。
僕に気がついた秋は、バッグの中をごそごそとかき回し、昨日買ってあげたジェットを取りだした。
「見て見て春。トンボ号」
ジェットには赤い色が塗られており、翼の部分には模様が描かれていた。
秋はグライダーを買うと、毎回絵を描いてオリジナルにアレンジする。今回のもなかなかインパクトのあるものになっていた。
「おじさんちの周りで飛ばそうと思って持ってきた」
秋は満面の笑みを浮かべている。喜んでもらえて何よりだ。
到着したのは静かな田舎町で、それでもこの辺りでは栄えている地域と見えた。
駅のロータリー近くには小さい商店街のようなものもある。深沢家から買い物に来るときは、この周辺まで来ていた気がする。
駅前に与助おじさんが軽トラックで迎えに来ていた。
「やあ、春くん、随分と大きくなったね。それに秋くんもこんにちは。冬華ちゃんも元気?」
「こんにちは」
与助おじさんは写真よりも歳をとっていた。
白い髪の毛は薄く、肌が透けて見えた。顔に深いしわが刻まれている。背中は曲がっており、身長は僕より少し小さい。
僕が一七〇センチくらいだから、小柄な方だったようだ。以前来た時は、大人の身長はみんな大きいように思えていたから、与助おじさんが縮んでしまったように感じた。
見た目の印象は違ったが、優しい喋り方はイメージ通りだった。
「私たちは元気にやってるよ。与助おじさんは元気?」
「ああ、おれはずっと元気にしてるよ」
「それじゃ、数日間お世話になります」
「いやいや、家も賑やかになって嬉しいよ。さ、案内するからついてきて」
そこから山道を通り、一時間ほどしてようやく集井村に到着した。
先導するおじさんは慣れた様子で運転していたが、母は狭い道に怖がっていて、後部座席に乗っている僕らもひやひやする場面が何度かあった。
集井村では、家が集まった部分もあるものの、大体の家がまばらに散っていて、深沢家はその中でも山奥の方に位置していた。
車を降りると、木々の匂いが肺に流れ込んできた。
「さあ、着いたぞ」
与助おじさんが車から降り、家へと案内をしてくれる。
落ち着いた話し方で、母とこの数年間にあったことを話しながら前を歩いて行く。
深沢宅は大きな家だった。昔ながらの木造の家だ。
家に入ると、弘子おばさんが出迎えた。
「いらっしゃい」
弘子おばさんも歳をとっていたが、おじさんよりも写真に近い感じがした。
灰色の髪に、血管の浮き出た手。目尻にしわを寄せた笑顔。
「春くんは大きくなったね。秋くんはあたしのことは覚えてないか、あんなにちっちゃかったもんね」
言いながら、おばさんは部屋に案内してくれた。
「信重は元気にしてる? 最近は会えてないけど」
「お父さんは元気そう。つい最近、孫の顔が見たいって家に来たばっかり」
母とおばさんは長い間会っていなかったとは思えないほど距離感が近く、おしゃべりで盛り上がっていた。
僕らが泊まる部屋は家の端にある一室で、深沢夫婦の息子の部屋だったものだという。
そのひとり息子は、何年か前に東京に出て行って、現在もそちらで生活しているということだった。
部屋は物置として使われていたが、今回、僕らが来ると言うことで綺麗に掃除をしてくれていた。
荷物を置くと秋は僕の袖を掴んで、探検に行こう、と言い出した。
「今日はもう夕方だから、明日行こ」
秋はちょっと残念そうな顔をしてから頷いた。
「わかった。じゃあ、約束ね。山の探検」
秋は、リュックから自由帳と色鉛筆を取り出し、絵を描き始めた。
僕は縁側に出て、外を眺めた。落ち着く空間。
車やバイクの音はせず、セミの鳴き声や風の音だけが聞こえてくる。
粉塵が舞う街とは明らかに違う清い空気を、鼻から吸い込んだ。
目を閉じて寝転がると、心地よい眠気が襲った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます