2
窓の外を流れる景色は見慣れないものへと変わっていく。ビルは少なくなり、家の数も減った。トンネルに入り、ばっと暗闇が広がる。トンネル内のライトが後ろへ飛んでいく。
再び外へ飛び出すと、田園風景が広がっていた。車の後ろで荷物がガタガタと音を立てている。
僕は窓に額を貼り付けて、田舎の景色をぼうっと眺める。車が揺れ、ダダン、とお尻に振動が伝わる。
「おい、毛虫ついてるぞ」
どこからか聞こえてくる囁き声に、辺りを見回す。
「草野、シャツの袖に、毛虫登ってる」
左腕の袖に、もぞもぞと動く、細長くて茶色いものがあった。
うわああ、と自分でも驚くような大声が出た。必死に腕を振り払う。
「おっ、ちょ! お前、飛ばすなよ!」
立ち上がって、袖を見ると、毛虫はいなくなっていた。と、同時に体育館の景色が目の前に広がっていることに気がついた。
ごほん、とマイクを通した咳払いが聞こえ、ステージ上を見ると、校長先生が厳しい顔つきで夏休みの過ごし方についての話を続けていた。
あちこちから向けられた同級生の視線に押さえつけられるように僕は腰を下ろした。
今までの人生で最悪の終業式になった事は間違いない。
*
夏休みに突入した解放感から来る生徒達の元気な声で、通学路はいつもより賑わっていた。
一学期は長くも短くもあった。とりあえず高校生活のリズムに慣れるのが大変だった。ようやく一段落。
街中、濁った川にかかる短い石橋を渡る。
道路をまたいで向こう側、コンビニの入店音が響いた。
ちょろちょろと水が流れる音。
心地よい風が肌の上をすうっと撫でる。
冷えたアイスを一口食べて、目の前の景色を見た。
パーキングエリアにずらっとならんだ車は、強い陽差しを反射して、ギラギラと輝いている。触るだけで皮膚が焼けそうだ。
ぶらぶらと歩いていると、小さな木の添え木に蝉の抜け殻が張りついているのを発見した。
取り外して、手の上に乗せると、爪の先がチクチクと皮膚に刺さった。
眺めていると、風が吹いて、抜け殻は遠くへと吹き飛ばされた。
それを追いかけて、走って行く。
あちらこちらに歩いて行く人々の足の間を縫うようにして、抜け殻についていく。
地面を転がる抜け殻に飛びつくが、それは手の下をすり抜け、前方へと消える。
つられて顔を上げる。
目の前には雄大な山々が連なり、雲が風になびいていた。
「……おおい、はーるー」
背後から自分を呼ぶ母の声が聞こえた。
「もう出発するよー」
次は父の声。振り返るけれど、そこには人混みがあるばかりで、二人の姿は見当たらない。
「はるー。どこにいるの?」
声だけが近づいてくる。
「おおい、春。おおい」
横を見ると、くるみが顔を覗き込んでいた。
傍を下校中の生徒が歩いて行く。
「またぼうっとしてる」
「ああ、くるみ。今日は部活ないの?」
「今日は陸部、休みなんだ」
彼女は運動が好きで、日焼けした健康な肌をしている。家にばかりいて白い自分とは正反対だ。
黒のショートカットに爽やかな笑顔、身長は女子の中では大きい方で、その身長を活かしてハードル走をやっている。
「最近、体育の授業中に突然立ち止まったりもしてたし、大丈夫? 心配だよ」
「まあ、大丈夫」
「そういえば、この前の水曜日、おじいちゃんとこ来なかったでしょ。あれもぼうっとしてたせい?」
彼女は僕が通っている駄菓子屋の康司さんの孫だ。そのため、付き合いは小学生の時からになる。
「そうそう。寄り忘れちゃったんだよね。秋には代わりに特性オムライスを振る舞ったけどね」
「いいお兄ちゃんだなあ。すごいよ。オムライス作れちゃうなんて」
「いや、そんなことないよ。くるみの方がずっとすごいよ。何でもできるじゃん」
彼女はいつも友人に囲まれている。
陸上にも一生懸命で、勉強も頑張っていて、その上、幅広い趣味まで持っている。
自分のしたいことに向き合っている姿はかっこいい。
僕はといえば、趣味は特になく、散歩と読書がちょっと好きなくらいで、何かにのめり込むようなことは滅多にない。周囲の生徒たちがやっているような、ゲームにもあまり興味が湧かず、家事と学業の両立をしている以上、そのような時間を取るのも厳しかった。
こんな僕の目には、彼女の誰とでも気さくに会話できる能力が魔法のように見える。
「いや、わたしは料理、全然できないからね。それぞれ得意なものが違うだけだよ。春みたいな人がいないと、わたしたちは味のない食材をそのまま食べて生きていくことになるんだよ」
「大袈裟だな。料理なんて、ちょっと練習すればすぐできるようになるよ」
彼女はいつも明るく元気だ。彼女とは何の気兼ねなく話すことができ、僕はその時間が好きだった。
中身のない会話も安らぎに感じられた。やっぱり彼女は魔法使いなのかもしれない。
「そんなことないって、今度わたしの料理食べに来なよ。できない人はとことんできないってわかるから」
「じゃあ、今度、『春の料理レッスン』をしに行くか」
「え、ほんと? やった、春の料理が食べれる」
「冗談のつもりだったんだけど。やるとしても、作るのはくるみだし」
「わたしも頑張るから、指導お願いします」
彼女は嬉しそうだった。いつもこんな明るくいて、疲れてしまわないのだろうかと思う。
こんな風に軽い感じで言葉にすることが、友達を作る秘訣なのだとしたら、僕はいつまでたっても友達ができる気がしない。
「ほんと尊敬するよ。その実行力」
「人生何でもやってみなきゃね」
二人の間に沈黙が訪れた。
「ところで」
くるみが僕の顔をちらりと見た。
「悩みがあるなら相談に乗るよ。長い仲じゃん。何でも言ってよ」
「急にどうしたの?」
僕は力の入らない笑いと共に、くるみを見た。
「授業中であることも忘れるくらいの悩みがあるのかな、と思って」
彼女は心配して話しかけてくれていた。
たしかに僕は最近、しょっちゅうぼうっとしている。もう一つの世界が見えるためだ。
以前、あちらの世界はごくたまに見えるだけだった。それにもっと短く曖昧なものだった。それが近頃になって見る頻度が上がり、中身も徐々に鮮明になっているような感じがしていた。
ある日、自分に見えているものが母や秋に見えていないと知り、自分が普通でないと知った。
あちらの世界の話は、家族以外にしたことがない。
話そうとすると抽象的になってしまう事象であり、あちらで感じ取っている雰囲気は言葉にすることがとても難しい。
ただ、くるみには言ってもいい気がした。
彼女だったら、からかうようなことはしないだろうし、あの美しい世界について誰かに共有できたら、という願望はいつも心の片隅にあった。
僕は絵が下手で表現する方法を知らないから、それを形にすることは出来ない。だからこそ、美しさを人と分かち合えたらどんなに嬉しいだろう、と思う。
「ううん。そうだね……」
「話せないなら無理はしなくてもいいよ。でも、話せば楽になるかも」
「実は、言葉にするのが難しいんだけど……不思議な現象が起きているんだ」
「不思議な現象?」
彼女は目を丸くした。
「ぼんやりした話で、伝えるのが難しいんだけど、僕には、この世界じゃないどこかが見えるんだ」
彼女は少しの間固まった。
「……それは、どんな場所なの?」
「現実に戻ってきてからはぼやけた記憶になってしまうことが多いんだけど、覚えている限りでは、町であったり、空き地であったり、路地裏や自然の中だったりして、どこもノスタルジックな雰囲気が漂ってるんだ」
「おとぎ話とか夢の世界みたいな?」
「たしかに、この目で見た覚えがない場所だし、幻想的なんだけど、一方で現実味はあるんだ。日本的な風景だからかもしれない。あちらにいるときは、実際にその場にいるような感覚になるね。一番近いのは記憶かな。それも美化された記憶。いい思い出は時間が経つほど『あの頃に戻りたい』という願望でコーティングされて、実際以上の美しさを持つようになったりするけど、それに似た感じ。戻れないし、どこかわからないけど、だからこそ心を鷲掴みにするみたいな」
「ふうん。そんな特別な力があるんだ」
彼女はいたって真面目な表情だった。
「もしかすると、天性の芸術家なのかもしれないね。ほら、頭の中で勝手に話が進み出すっていう作家がいるじゃん。それみたいに、春の頭の中にも動いている世界があるんじゃない? いつか急にアイデアが降ってきて、壮大な物語が作れたりするかもよ」
「まあ、突然に見えるから、実生活に影響が出るという問題付きだけど」
なるほど、たしかに僕みたいな人は他にもいるかもしれない。これがいわゆる「天からアイデアが降ってくる」というものなのだろうか。
「自分だけのための世界。わたしにはそいうの見えたことないな。もし、行ける方法があるのならわたしも行ってみたい」
彼女は微笑んだ。
僕だけのための世界。面白い言い方だ。
でも、あの世界がどうして僕に与えられたのかは、さっぱりわからなかった。
「見える方法がわかったら、くるみにも行き方教えてあげる」
「ありがと」
くるみが水たまりを飛び越える。
「そういえば、今日は自転車じゃないね」
「朝来るときは小雨が降ってたから、折りたたみ傘で来た」
「なるほど。わたしもそうだった」
何の駆け引きもなく、ただただ思ったことを口に出すだけの会話は頭を少しすっきりさせてくれる。
相手のご機嫌を取ろうとか、そういったことを考えない、自然にできる純粋な会話。
「今日は何か買っていくの?」
くるみの家が見えてくる。それは、康司さんの駄菓子屋でもある。家の一階の一部分が店になっているのだ。
「この前買い忘れたから、秋の好きなラムネ買っていこうかな。あと甘いもの欲しいな」
「相変わらずの弟思い」
駄菓子屋は小学生たちで賑わっていた。山辺家のすぐ近くにある団地は子ども連れの家族が多い。だから放課後になると、近所の子どもたちがやってくる。
「ただいま」
「お帰り! 春くんと一緒か。どうぞゆっくりしてって」
康司さんが元気よく出迎えてくれる。
御年七十四歳であり、僕の祖父と大体同じくらいの年齢だ。
彼は昔、祖父と仲がよかったらしい。以前、「春くんのおじいさんって、もしかして、
彼の実家は祖父の実家の近くにあるとのことで、現在も別荘として使用しているのだった。祖父の実家というのが現在の深沢家に当たる。深沢家には行っていたものの、向こうで康司さんと会った記憶はなかった。
康司さんは高身長で筋肉質だ。祖父よりも年上だとは思えないぐらい元気で、髪の毛もかつらかと思うほどふさふさしている。小学生の頃に引っ張らせてもらったから地毛であることは確認済みだ。
「今日は何を買いに来たんだい?」
「ええと」
店内にはカラフルな菓子がずらっと敷き詰められている。
「この、ラムネと……康司さん、チョコってどこにあるの?」
「チョコレートはそっちの机の上だな」
こんな雑多の中でも、康司さんは一瞬で品物の場所を適確に指し示す。彼の記憶力は並大抵ではなかった。
僕は机の上に並んだ数々のチョコを見渡し、そして、壁に掛かっている飛行機のおもちゃに目を留めた。
機体は発泡スチロールのような軽さのポリスチレンでできていて、簡易な作りながら結構な距離を飛ぶ製品だ。
筆箱ほどのサイズ、ペラペラな袋の中に、機体、翼、そしてプロペラ(これだけはもう少し固いプラスチック製)が入っている。それらを組み立てることで飛行機が完成する。
壁には、先週までに見覚えのない機種の絵が掛かっている。
「これ、新商品?」
「そう、そのグライダーは昨日入荷したやつだよ。今回は手で投げるんじゃなくて、機体の下のでっぱりに輪ゴムを引っかけて、パチンコの要領で飛ばすんだ。他の飛行機より速く飛ぶジェット機なんだよ」
「じゃ、これもちょうだい」
ラムネ、チョコ、ジェットをレジに並べ、康司さんはそれらの値段を計算した。
このお店にはレジがないから、いつも彼が電卓で計算をする。
「秋くんに買ってあげるの?」
くるみがジェットを眺めていた。
「秋はこのシリーズを集めてるからね。喜ぶ顔が目に見えるよ」
「秋くんは幸せものだ」
「いつも助けられてばかりだから、これぐらいしなきゃ」
康司さんから商品を受け取り、駄菓子屋から出ると、すぐそばの公園でグライダーを飛ばしている子どもたちがいた。
「わたし、春のお見送りしてくる」
店内からくるみの声がして、背後から彼女が追いついてきた。
「見送りはしなくても大丈夫だよ」
「いいの。散歩したい気分だから」
僕も彼女も何も言わずに、ただ、並んで歩いた。
彼女は空を見上げた。
それにつられて空を仰ぐと、本物の飛行機が飛んでいた。
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