二つの夏を生きていた

滝川創

1

 ブランコが軋んでいる。前へ、後ろへ視界が揺れる。

 地面が迫り、空が広がり、また地面。

 風が体を包み込み、そのまま、その中へと体を放り投げる。

 足の裏に弾力のある感触。

 乗り手を失ったブランコが、捻じれながら踊っている。


 夕暮れに、世界は大きな常夜灯みたいになって、土の上には滑り台、シーソー、鉄棒の影が伸びていた。

 ざっざっと砂利を歩く音。

 ひとり、公園の出口に向かう。


 公園の外には、弛れた電線とアスファルトの道路がどこまでも続いている。

 その中を歩いて行くと、遠くの電柱が歪んでいるのが見えた。

 いや、電柱ではなく、野球部のバックネットの柱だ。

 校庭の端に刺さっている高い柱。


 気がつけば、校舎前に立っていた。


 広がる青、立ち上る入道雲。

 耳を澄ませると夏が聞こえた。

 生温い空気の中を駆ける爽やかな風に、草木が揺れるざわめき。道で打ち水が跳ねる音。木の幹に止まった残り少ない命が、その存在を高らかに謳う声。飛行機が雲を引いていく音。


 全てが季節の到来を、鮮やかに教えてくれた。


 自転車置き場へと向かう。

 連日の猛暑にへたばってしまうこともあるというのに、過ぎ去るとなぜかその日々を恋しく思う自分がいる。

 どうしようもなく叙情的で、遠い記憶を呼び起こす。夏は、僕を郷愁へと引きずり込む。

 僕と同じ名前の季節が終わった寂しさを胸の隅に抱えつつ、自転車にまたがり、校門から外へ走り出した。


 僕は草野くさの家の名前を気に入っている。夏生なつき冬華ふゆかの間に生まれたはるあき

 それぞれの生まれた季節から名付けられているが、こんなに綺麗に四季が揃うなんて、ずっと前から決まっていた運命なのではないかと思う。


 かけがえのない家族だったから、だから、夏が来ると少し寂しくなる。

 秋が生まれ、一年の季節が揃ってすぐ、我が家からは夏が欠けてしまった。

 当時、秋はあまりに小さかったから、父の存在をほとんど覚えていない。

 父はいつも日本中を飛び回っていて、なかなか帰らない人だった。だから、僕もぼやけた記憶しか残っていない。

 それでも、父が僕らを愛していたことは知っていた。


 正門を出て、高校沿いの道を走っていると、前から高齢女性が歩いて来るのが目に入り、僕は自転車を降りて手で押した。

 校庭からは、生徒達のかけ声が聞こえる。


「部活か……」


 本当は入りたかった。しかし、そんな暇はない。

 母が働いているのだから、僕も家事を頑張らなくては。それに、そのうち秋が帰ってくる。


 小さないながら一生懸命に生きている秋を見ると、いつも元気が湧いてくる。普段はまん丸な目を細くする、秋の笑顔が僕の背中を押してくれるのだ。

 秋に寂しい思いをさせないためにも、母が帰ってくるまで、僕は家事をこなそう。




 自転車を家の前に停め、門を開けてポケットから鍵を取り出す。

 気温のせいで体がバテている。


 玄関のドアノブに鍵を差し込もうとしたところで、ふと何かが目に入った。

 それはドアノブ付近を這っていた。

 マーカーで塗りつぶしたような黄色の蛍光色に、形の崩れた茶色いライン。体から生えたサボテンのような刺刺しい毒針。


 イラガの幼虫だった。


 手を伸ばしたままの姿勢から、動くことができなくなる。冷たい汗が腕を這っていく。

 その感覚とイラガが這う動きがマッチし、自分の腕をイラガが這う妄想に襲われる。

 息が苦しくなってきた。一歩後ろに下がろうとするが、足が震えて体が言うことを聞かなかった。


「春! 大丈夫?」


 秋だった。ランドセルを背負った彼は、木の枝を手に僕の横をすり抜け、毛虫の側に木の棒をつけた。

 イラガがウニョウニョと動き、枝の上に這い上った。秋は素早い動きでそれを持ったまま門を出て行った。


 僕がようやく呼吸することを思い出し、膝に手をついていると後ろから足音が再び近づいてきた。


「大丈夫? 毛虫さんはあっちの茂みに逃がしてきた」

「秋、ありがとう。お帰り」


 何事もなかったかのようにドアを開け、中に入っていく彼に続き、僕もドアノブに触れないようにして玄関に入った。

 あとでドアノブは消毒しておくべきかもしれない。毒のある毛が付いていたりしたら大変だ。


 手を洗っていると、秋が冷蔵庫の横に置かれたお菓子箱の中を覗き込んだ。


「あれれ、お菓子がないや」

「あ、ごめん。今日、水曜日か。駄菓子屋に行ってくるの忘れちゃった。明日買ってくるね」

「そっか。でも、いっぱい遊んだからお腹減っちゃった」


 毎週水曜日、僕は通学路にある駄菓子屋さんで、お菓子を買ってくるのが習慣だった。


 僕がここへ引っ越してきたのが、小学五年生くらい。それまでスーパーでお菓子を買っていた僕は、その駄菓子屋を見つけてとてもワクワクしたのを覚えている。それから僕はそこに通うようになり、今でも主に秋のお菓子を買うため、通い続けている。そのおかげで、店長の康司こうじさんとも仲がいい。


 寄ってくるのを忘れるなんて珍しかった。だいぶ疲れているのかもしれない。


「お菓子を買って来なかったお詫びに、秋の好きなオムライスを作るよ」


 僕がエプロンを着ける横で、目をキラキラと輝かせながら「やったー」と走り回る秋を見て、僕は腕まくりをした。




「いただきます」


 家族三人が食卓を囲むのは、草野家ではとても珍しいことだった。

 母は今日、仕事が早く終わったらしい。

 秋は大好きなオムライスを、家族揃って食べられるこの機会に、足を楽しげにぶらぶらさせた。


「秋、小学校はどう?」


 秋はケチャップで、オムライスに顔を描くことに夢中だ。


「おーい、秋?」

「え? なんて言ってた?」


 上手く絵が描けたようで、満足げに秋が顔を上げる。


「小学校、どう?」

「三年生になって、また新しい友達がいっぱいできて、楽しい」

「それはよかった」


 母が笑顔で、オムライスを口に運ぶ。


「春は?」


 母の質問に一瞬、手をとめてしまった。

 この春から始まった高校生活。ちょっと話すクラスメートはいるが、部活も何もしていない自分には、友達と言える顔が思いつかなかった。

 しかし僕は、「順調」と応えた。やるべき事はやっているし、特に困っていることもないのだから。


「そう、それはよかった……でも、家事をいつもまかせちゃって、友達と遊べてる? 高校生は一生に一度なんだから、無理しないでね」


 母は、ちょっと心配そうに見えた。


「わかってるって。大丈夫」

「そう……? ところで、二人にお知らせがあるんだけど」

「なに? なに?」


 母が笑顔で言うと、楽しいお知らせだと感じ取った秋がスプーンを持った手を止めた。


「あのさ、二人とも今週で学校終わりだよね?」


 僕は頷く。

 今週の金曜が終業式だったはずなので、夏休みまであと数日だ。


「だから……土曜日から弘子ひろこおばさんの家に行こうと思うの」


 懐かしい響きだった。以前、まだ父が生きていた頃、たまにおばさんの家に行っていた。


 深沢ふかざわ弘子さんは、母方の祖父の姉で、僕の大伯母にあたる人だ。母が幼い頃、よく面倒を見てもらっていたようで、二人は仲がよかった。


 深沢家は自然に囲まれた村に住んでいて、車で何時間もかけて向かったものだ。

 深沢夫婦は昔ながらの色々な遊びを教えてくれたし、近所の子ども達と山の中で鬼ごっこをして遊んだこともあった。

 小学生のいい思い出だ。しかし、そんな楽しい過去も今ではおぼろとなっていて、人間の記憶能力の脆さを感じさせる。


 父が居なくなった我が家は忙しくなり、経済的余裕からも彼らの家に通うことが難しくなっていた。

 あれ以来、二人には会っていない。祖父には数ヶ月に一回くらいの頻度で会うのだが、深沢家とは機会もなく、霞んだ子ども時代にしか彼らは存在しなかった。


 また、あの風景を見てみたいと思った。

 それに、都会の喧噪を離れ、美しい山村へ足を運べるというのは、とても魅力的だった。


          *


 草が揺れ、アメンボが水面を滑る。

 陽光を反射させ、輝きが池の周りの草やベンチに飛び散っている。

 池には鳥たちが呑気に浮いていた。あれはカモだろうか。白と灰色の毛に覆われた彼らはのんびりと波を立てている。


 池のそばに寝転んで、空を見上げると、綿あめみたいな雲があちこちに浮いていた。

 顔に水が飛んできて、辺りを見回すと、すぐそばで鳥の中の一羽が身震いをしていた。

 大きな声を出すとその鳥は飛び立った。


「草野……草野、起きてるか?」


 はっと我に返ると、教室中の視線が自分に集まっていた。


「ここの訳」


 隣の席のくるみが教科書の英文を指さす。


「ええと、『彼はこの前の日曜日、友達からもらった本を読んだ』」

「はい、合ってますね」


 先生が黒板に向き直り、次の問題を書き始める。

 顔が熱くなるのを感じながら、僕は教科書に目を落とした。




 授業が終わり、生徒が一斉に立ち上がる。


「さっきはありがとう」


 隣の席の山辺やまべくるみに礼をすると、彼女は頷いて、お疲れだね、と笑った。

 僕はまあね、と席を立つ。


 いつからか、この世界ではないが見えるようになっていた。ふとした瞬間に、あちらの世界が視界になだれ込んでくるのだった。

 その時、僕は目を開けているのだが、前にある世界は見えなくなって、あちらの景色だけが意識を埋め尽くすのだ。


 あちらの世界が見えるとき、決まっていつも、自分は子どもになっている。多くの物が眩しく輝いて見え、美しい物が目に留まるようになる。知らない人々と生活していて、日々の過ごし方も自分のものとはまったく違うのだが、違和感はない。

 あちらの世界に意識がある間、こちらの世界のことは頭から消えている。


 はっとして現実に引き戻されると、あちらの世界の淡い美しさだけが印象に残っていて、細かいことはわからなくなってしまう。まるで、夢から目覚めたばかりで、その記憶が思い出せそうで思い出せない感覚。


 この現象が起き始めたのがいつ頃だったかは覚えていない。ずっと前であることは確かだ。

 このことが一般的に人が体験していることではないと知るまで、誰しもが経験しているものだと思っていた。


 この現象は唐突に起き、こちらの世界での意識が曖昧になってしまうため、生活に支障が出ることもある。


 例えばこの前は、体育のサッカー中にあちらの世界が流れ込んできて、気がついた時にはグラウンドの地面に座り込んで、みんなの不思議そうな顔に囲まれていた。他にも宿題を聞き逃したり、横断歩道で青信号になっても気がつかず、次の赤信号になってしまったりと不便なことが時々ある。

 これが原因で、友人やクラスのみんなに、ちょっとぼうっとしがちな人間だと思われている。


 この風景は一体どこなのだろう。実在する風景なのだろうか。そしてなぜ、自分だけに見えるのだろうか。

 何もわからないけど、この美しい世界に、僕は魅了されていた。




 購買でパンを買い、教室に戻った。

 五人、三人、六人とそれぞれが固まっている中、僕はぽつんと空いている自分の席に座った。


 スマートフォンがポケットの中で震えた。来ていた通知を開いて見ると、SNSでクラスメートが遊びの召集をしていた。


 新学期始まって早々になんとなく入ることになったSNSのグループでは、活発な生徒たちによって度々イベントが計画されていた。

 画面を上にスライドする。

 自分が発言しているのは、グループに入った時の軽い自己紹介、一回だけだった。


 画面を閉じ、パンを手に取った。一人で虚空を見つめるのもつまらないので最近買った本を片手に昼食をとる。


「春、今、大丈夫?」


 声をかけてきたのは、後ろの席の笹井涼夜ささいりょうやだった。


「それ、この前僕も本屋で見たんだよね」

「そうなんだ」

「そうそう。それで、買うか迷ってるんだけど、どう? 面白い?」

「うーん、まだ、読み始めたばかりだからあまりわからないけど、出だしはいい感じ」

「そっか、じゃあさ――」

「おーい、涼夜、サッカーしようぜ!」


 教室の出入り口で、彼の仲間が叫んだ。


「わかった! 今行く!」


 彼は返事をすると再びこちらに向き直った。


「あのさ、今週の日曜日、クラスのみんなで集まって遊びに行こうと思ってるんだけど、春も行かない?」


 僕はクラスメートと話すこともそんなに多くないので、誘ってもらえたのは嬉しかった。

 それに彼はちょくちょく話しかけてくれるから、そのうち仲良くなれるかもしれないと思っていた。

 しかし、彼の周りにいるのはクラスの中でもノリがよく、休み時間に鏡の前で前髪をいじり、教室の中で目立つ言動をするタイプの人たちだった。


 もう完成しているグループの中に、うまく馴染めるほど僕は器用じゃない。

 だから、彼とは友達に近い距離感でありながら、友達にはなりきれていない。きっと、あちらも勝手に友達ぶった行動を取られたら、馴れ馴れしくて嫌だろう。

 僕には、家事をしながら秋と一緒に過ごす時間の方が似合っている。


「ごめん、その日は用事あって……誘ってくれたところ申し訳ない」

「あーそっか、じゃ、またの機会に。な?」


 彼の笑顔の中にはちょっと残念そうな表情が見えた。


「おーい! 早くー」


 仲間の急かす声が教室に響く。


「わかった! もう行く!」


 たぶん、付き合いの悪いやつだと思われている。

 実際に高校に入ってから、友達と遊びにいったりしたことがないのだから、しょうがない。


 忘れていたが、今週の土曜から旅行なのだ。どちらにせよ、遊びには参加できなかったわけだ。

 僕は食事と読書を再開する。



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