第128話 メリアの揺り籠

 

「大丈夫です。時間は掛かりますが……」

 

 メリア海の女神官が、ロンディーヌに頷いて見せた。

 黒布ヴェールに隠れていて瞳を見ることは叶わないが、穏やかに微笑んでいるようだった。 

 

「感謝致します」

 

 ロンディーヌは、ひつぎのような液槽に横たわるレインを見つめた。

 本来、大神の権能で灼かれた人間が命力を保っていることは不可能だ。だが、レインは、自身の回復術でじわじわと死を押し返し、徐々に肉体を蘇らせつつあった。 

 

「この地は、光神が覗き見ることができません。無論、立ち入ることも許されません」

 

 口元をほころばせた神官が、ロンディーヌの方を見たようだった。

 

「……以前は、お世話になりました」

 

 ロンディーヌは、精霊の術技を鍛錬した際、アイリスに伴われてメリア海を訪れている。その時、この女神官に迎えられた気がした。 

 

「やはり、記憶を繋いでいらっしゃいますね」

 

 メリアの女神官が小さく首肯した。

 

「記憶を?」

 

「ここは、生ある者が訪れる地ではありません。それは御存知でしょう?」

 

「はい。アイリス様から教えて頂きました」

 

 ロンディーヌは頷いた。

 

「稀に、夢現ゆめうつつの狭間から迷い込む方がいらっしゃいます。その際は、メリア海のことは忘れて頂く決まりになっているのです」

 

「そうなのですね」

 

「貴女とレイン様は、メリアの記憶をアイリス様がお残しになったのでしょう」 

 

「……メリア海には、貴女のような神官が大勢いらっしゃるのでしょうか?」

 

「数で表すことは難しいですね」 

 

 女神官が小さく首を傾げた。

 

「それは、どういう……」

 

「個という概念が当てはまらないのです」

 

「個……では無いと?」

 

「そうですね。こうして、人の姿をとるのは、人と接するため。常は、定まった形がありません」 

 

 そう言って、女神官が小さく笑った。

 

「そうですか」

 

 それ以上は訊かず、ロンディーヌは意識を液槽のレインへ戻した。 

 

「とても多くの方に恨まれ、とても多くの方に愛されている。非常に危うい宿運を負っていましたが……少し落ち着きましたか?」 

 

「どうなのでしょう? 本来ならひじりたっとぶはずの光神からうとまれているようですが……」

 

「その"ひじり"とやらは、何者が規定しているのですか?」

 

 女神官が訊ねた。 

 

「それは……」

 

「神々が世俗に塗れてしまった今、何をもって"ひじり"を定めるのです?」

 

「……確かに」

 

「聖なるもの……穢なるもの……虚しく聞こえる世になってしまいました」

 

 女神官が液槽のレインを振り返った。

 

「個々が感じる"ひじり"……曖昧さはあるし、同じものでは無いでしょうが……個々人が思う"ひじり"……個々人が己にとっての"ひじり"を定めれば良いのだと思います」 

 

 レインを見つめながら、ロンディーヌは呟いた。

 

「神の在り方……神の行いが"ひじり"なのでは無く?」

 

「人がそれを"ひじり"だと認めるかどうか……です」

 

「それが、貴女の規定なのですね」 

 

 女神官が小さく頷いた。 

 

つたない答えで申し訳ありません。気分を害されたのなら謝罪致します」

 

「どうして謝罪を?」

 

「こうして、御力にすがっておきながら……神々を非難するようなことを口にしてしまいました」 

 

「謝罪など必要ありません。元より、"ひじり"については人が定めるもの。ただ、何をもって"聖"だ、"穢"だと規定しているのか興味がありました」

 

「レインに……レインの宿運と何か関係が?」

 

「ありません」

 

 女神官が首を振った。

 ふと、何かに気が付いたように顔をあげ、軽く手を振った。 

 途端、部屋のように壁で仕切られていた小さな神殿が消え去り、どこまでも続く水面が拡がった。 

 レインの横たわる液槽は、水面に浮かんで揺れている。

 

「神官殿?」

 

 ロンディーヌは、レインの液槽に寄り添いながら周囲に視線を巡らせた。 

 

「神魂が漂い流れています」

 

 いつの間にか、女神官の手に紫紺色をした錫杖が握られていた。 

 黒布ヴェールの下で何を見ているのか、水面の一点に注意を払ったまま、ゆっくりと首を巡らせている。その様子を、ロンディーヌは固唾を呑んで見守った。

 

「多いこと……」

 

 呟いた女神官が、錫杖の頭を水面に浸けた。 

 わずかに間があって、白々とした霧のようなものが辺りに立ちこめ、細波さざなみを立てる水面を覆っていった。 

 

「神が……」

 

 液槽を背に庇うように立って、ロンディーヌは白霧の中を見回した。

 

「怨念を纏った魂が彷徨さまよっています。いずれ、メリアの海に洗われて無垢となりますが……未だ怨敵を求めて彷徨さまよう魂にとって、命力は暗闇に点る灯火ですからね」

 

 穏やかに語りながら、女神官が錫杖を軽く振った。

 

 

 リィ……ン……

 

 

 細く透き通った音が霧の中を拡がっていった。

 

「御存知なら教えて頂きたい。神々は……レインをどうするつもりでしょうか?」 

 

 怨念と聞いて、ロンディーヌは【双翼盾オルパーリ】を顕現させ、油断なく周囲を覗った。 

 

「裁神様の御判断になりますが、あの方ならば……恐らく、レイン様に選択を委ねるのではないでしょうか」

 

「選択を……レインに?」

 

「光神ばかりが目立ちましたが、各地で起きている厄災のほとんどは、神々や精霊が関与して引き起こしたものです。アイリス様が救済措置のために奔走なさっておいでですが……」

 

 女神官がゆっくりと首を振った。

 

「覇王候補のような存在が、厄災を引き起こしているのでしょうか?」

 

「覇王……ああ、半神の……そうですね。関与していないとは言えませんが……大本は、神籍にある存在です。この度の一件が、そうだったのではありませんか?」

 

「……そう感じました」

 

 ロンディーヌは頷いた。

 

「人の世に関わりを持ちすぎたのです」

 

「神々が?」

 

「多くを語ることはできませんが、未だに妄執を抱えてメリアを漂う神魂など……目を背けたくなります」

 

 物静かに呟いて、女神官が錫杖を振った。 

 

 

 ボッ……

 

 

 ボッ……

 

 

 霧中に青白い炎が燃え上がり、何かが負の思念を発しながら消えてゆく。

 

「今のは、神魂でしょうか?」

 

「神魂の妄執に引き寄せられた妖異の類いです。これだけの数の妖異が湧いたのは久しぶりですね」

 

 

 リィィ……ン……

 

 

 女神官が錫杖を鳴らした。

 

「……大丈夫だ。心配は要らぬ」

 

 ロンディーヌは、液槽に声を掛けた。 

 敵意を感じ、薬液の中で眠っているレインが霊法陣を描き始めたのだ。 

 

「お見事です」

 

 展張された霊法陣を見て、女神官が口元をほころばせた。 

 

「まったく……意識も戻っておらぬというのに」

 

 呆れながら、ロンディーヌも笑みを浮かべた。

 四肢の内、無事に残っているのは右腕だけという状態だったが、頭部や顔はかなり回復していた。目を閉じて薬液に漂いながら、時折、小さな気泡を吐いている。 

 

「どのくらい時が必要でしょうか?」

 

 ロンディーヌは、女神官に訊ねた。

 アイリスに連れて来られてから、体感で5日ほど過ぎている。

 

「大神に負わされた傷ですから数年は掛かります」

 

「……しかし、それでは」

 

 生ある者が、この地に滞在できる時間は限られている。

 

「杞憂でしょう」

 

 女神官の声に笑いが含まれる。

 

「どういうことでしょうか?」

 

「レイン様は、太陽神に傷を負わせたと聞きました」

 

「確かに、アイリス様はそのように仰っていました。しかし、わずかな掠り傷であったと……」 

 

「大神に、掠り傷を与えることが、どれほどのことか……このメリア海にまで神域のざわめきが伝わってきたほどです」

 

「凶皇という……レインに代わって、決闘を買って出て下さった方は大丈夫でしょうか?」

 

「先ほど流れて行った魂の一群は、凶皇によって魂を砕かれた神々でしょう」

 

「えっ!? 決闘は、太陽神が相手だったはずでは?」

 

「太陽神及び同調する神々を相手にした決闘裁判なのでしょう」

 

「多対一なのですか!?」

 

「レイン様の代理……凶皇様を支持する神々がいらっしゃらない場合はそうなりますね」

 

 女神官が頷いた。

 

「そんな……」

 

 ロンディーヌが不安に顔を曇らせる。 

 

 その時だった。

 

 ロンディーヌの後方で眩い光が爆ぜた。慌てて振り返った視界を、純白の光が霧を貫いて上方へと噴き上がっている。

 

「レイン!?」

 

 閃光に目を眩ませながら、ロンディーヌが呼び掛けた。 

 液槽に横たわるレインが白光を放っている。

 

「もう、治療の必要がなくなりましたね」

 

 少し寂しげに、女神官が呟いた。 

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