第26話 再会


「く……来るなっ!」

 

 怯えた若者が、必死の形相で手にした花瓶を投げつけた。

 

 ロンディーヌは、避けなかった。

 放心したような顔で立ち尽くしていた。その額に、投げつけられた花瓶が当たった。

 

 水と紅い薔薇が純白の婚礼衣装を彩った。結っていた紅色の髪が解けて、黄金の髪飾りが滑り落ちてゆく。

 

 花瓶と髪飾りが、石床に落ちて硬い音を立てた。

 

「化け物っ! 来るな……来ないでくれっ!」

 

 若者が壁に背を張り付かせて、恐怖の視線を向けていた。

 

 ロンディーヌは、虚ろな瞳で自分の手を見つめた。それから、自分の足下に横たわる男を見下ろした。骨と皮だけになった気味の悪い容貌をした男が倒れていた。

 

「お……父様!」

 

 ロンディーヌの紅をひいた唇が微かに震えた。

 彼女の父親が、この世でたった一人の肉親が、餓死した者のようにやせ細って倒れていた。

 

 もう誰とも分からぬしなびた顔に眼窩が深く落ちくぼみ、眼の球だけがぬめぬめと白く濡れて見えた。

 干涸らびた父親は、骨のような指に、血に染まったハンカチを握りしめていた。

 

「だ……誰かぁ! 助けてくれっ! 化け物だ! 誰かっ!」

 

 若者が壁を背にしたまま、金切り声をあげていた。

 

(化け物……?)

 

 虚ろに混濁するロンディーヌの意識が、不思議そうに若者の叫び声を聴いていた。

 

 あの若者は、今日から夫になった人である。ロンディーヌが十二歳になったら、嫁ぐ約束になっていたらしい。それが、夫になる人からの強い要望だったそうだ。

 

 父親に嫁ぎ先のことを聴かされた時には、結婚がどういう物なのか理解ができていなかったが、家の為になることだと教えられて安堵していた。自分が嫁ぐことが父の役に立つと言うのだから、それだけで嬉しかった。

 

 挙式の事は、とても眩しかったぐらいにしか覚えていない。

 大勢の見知らぬ大人達から挨拶をされ、教えられたとおりに笑顔でお礼を言い続けた。

 

 その後は、頭の中が白くなった感じがして、何処をどう歩いていたのかさえ覚えていなかった。

 ぼんやりしている内に式が終わっていた。気が付くと、夫になった人に連れられて、控えの間に入っていた。外套らしいものが沢山吊るされている、誰も居ない静かな部屋だった。

 

 疲れていたのだろう。ほっと溜息をついてしまい酷く慌てた。不躾な娘だと思われたに違いないと、恥じ入りながら男の表情を見ようとした。

 その時、いきなり強い力で腕を掴まれた。

 そのまま、引きずるように抱き寄せられた。

 

 ロンディーヌは、本能的に恐怖を覚え、逃れようとして手を突っ張った。しかし、男の力には敵わなかった。

 怖くて声も出せなかった。怯える紅色の瞳を睨み付け、眼を血走らせた男が顔を寄せてきた。荒々しく吹きかかる息が生臭く、ロンディーヌは思わず顔を背けた。

 

 途端、頬を平手打ちが襲った。

 弾けるように仰け反ったロンディーヌに、もう一度、二度……。男が獣のように唸りながら、激しく殴打の手を振り上げた。

 

「おれは、きさまの夫だぞっ! 何を嫌がるんだ!」

 

 そう怒鳴って、男がまた殴った。

 

 ロンディーヌは、何も分からなくなっていた。壊れた人形のように、男の暴力に身を任せていた。半ば意識が無かったのだろう。

 

 お父様が助けてくれたことも覚えていなかった。

 

「ロンディーヌ! しっかりしろっ!」

 

 気がついた時、背中を温かい力で抱かれていた。目の前に、懸命な表情をしたお父様の顔があった。

 

 訳もわからず、ただ安心させたくて微笑もうとしたことを覚えている。

 

「済まなかった! 許してくれっ!」

 

 お父様が涙を流していた。

 立ち上がろうとすると、お父様が抱き起こしてくれた。

 どこかで、あの男の甲高い叫び声が聞こえていたが、もう怖くはない。だって、お父様が一緒に居てくれるのだから……。

 

 お父様が、白い綺麗なハンカチで、顔を優しく拭いてくれた。

 どうして拭いてくださるのか分からなかったが、なんだか小さな子供に戻れた気がして、つい甘えて抱きついてしまった。

 

 いつもは、とても厳しくて、こんな事は許してくれないのだけど、今だけは別……。お父様はしっかりと私を抱きしめて背中をさすってくれた。

 

 大きな安堵が、震えている心を包み込んでくれる。壊れそうな十二歳の儚い心に、愛情が優しく伝わってきた。

 

 私は、胸奥からこみ上げる衝動のまま、お父様に抱きついて泣いていた。

 

 声を放って泣いていた。

 

 どうして泣いてしまったのか分からなかった。

 

 悲しいのか嬉しいのか、とにかく激しい感情に押しつぶされるように、頭の中が真っ白になってしまって、童女のように泣いてしまった。

 

 頭の中が熱かった。

 

 体が熱かった。

 

 けるように熱かった。

 

 そして、それは起こった。

 

「ロッ……ロンディーヌ!?」

 

 お父様の苦しそうな声が聞こえた。

 

 不意に、私の手の中で、お父様が小さく縮み始めた。

 たくましかったお父様の体がどんどんせていくのだ。何か言いたそうに唇を開いたまま、お父様の顔が老人のようにしわだらけになり、ずるりと手の中をすり抜けた。

 

 恐怖が背筋を震わせた。

 

「い、嫌っ……嫌ぁぁぁ!」

 

 ロンディーヌは、絶叫を放っていた。

 

 悲痛な叫びが、夜の静寂しじまを引き裂いて響き渡った。

 

「お父様っ!?」

 

 跳ね起きて、すぐにいつもの悪夢だったことに気が付いた。

 

(またか……)

 

 夜着が嫌な汗で濡れて肌にへばりついている。

 ロンディーヌは、目元を手で覆い、溜息を吐きながら、立てた膝を抱えるようにして顔を埋めた。

 

 その時、

 

(……あっ!?)

 

 恐怖で体が強張った。

 すぐ近くに、何者かの気配があった。

 

「……えっ?」

 

 恐怖で強張る視線を向けた先に、見覚えのある少年が横たわっていた。

 艶やかな黒髪をした少年が、先ほどまでロンディーヌが横たわっていた寝台の上で眠っている。

 

「む……ん」

 

 黒髪の少年が微かに目を開き、ぽりぽりと頬を掻いてから再び目を閉じる。

 

「まさか……レイン?」

 

 怖々と名を呼んで、ロンディーヌはそっと手を伸ばしてレインの肩に触れようとした。

 

 途端、目を見開いたレインがロンディーヌの腕を掴んで引き倒し、逆手に握った"折れた剣"を振り下ろす。

 

「ぁ……」

 

 ロンディーヌには為す術が無かった。死を覚悟したロンディーヌだったが……。

 寸前で、レインが動きを止めていた。

 

「あれ? ロンディーヌさん?」

 

 レインの双眸が大きく見開かれた。

 

「レイン……本当に、レイン……なのか?」

 

 ロンディーヌは、レインに組み敷かれたまま体の力を抜いた。

 

「……ここは?」

 

 レインがいぶかしげに顔をしかめて周囲を見回している。

 

うるわしの姫君の寝所だ」

 

 ロンディーヌは小さく笑った。

 

「寝所?」

 

 レインが、薄暗い部屋の中を見回した。

 木箱が一つ、木樽が一つ、簡素な寝台が置いてあるだけの部屋だった。

 

「まあ、少しばかり手狭てぜまだが……」

 

 ロンディーヌは、自分を組み敷いているレインを見つめた。

 ほんの微かだが、霊力の動きがある。何かの術技を使っているらしかった。今のロンディーヌが集中して観察しないと気が付かないほど、見事に隠蔽された霊力の動きだった。

 

「広い廊下……でも、扉がちて、壁も崩れたところが多い……お城ですか?」

 

 レインが呟いた。

 

「分かるのか?」

 

 ロンディーヌは仰向けに押さえつけられたまま、レインを見上げた。

 記憶にあるレインより、ずいぶんと身体が大きくなっているように感じる。

 

「そういう術技です」

 

 レインがロンディーヌを解放して、壁際へ歩いて行った。

 やはり、ドリュス島で共に生活をしていた時よりも、すらりと背丈が伸びている。

 

(あれから……2年……いや、3年?)

 

 ドリュス島で着ていた神官服と"折れた剣"を未だに使っている。背には、見覚えの無い革鞄を背負っていた。

 

「便利な術があるのだな」

 

 ロンディーヌは、ゆっくりと身を起こすと、床に落ちていた紺色の長衣を拾った。地の薄い夜着の上から長衣を羽織って腰を紐で絞ると、軽く頭を振って燃えるような真っ赤な髪を舞わせる。

 

「近くには、誰も居ませんね」

 

 出入り口の見当たらない部屋の中を見回して、レインが呟いた。

 

「この城には、身寄りの無い麗しの美姫が一人で暮らしている。静かで良いが……少しばかりカビ臭いのが難点だな」

 

 ロンディーヌは魔術を使って宙空に水塊ウォーターボールを生み出すと、手招いて口をつけた。

 

「……レインは、どうやってここへ? ここは、化け物しか住んでいない呪われた地だぞ?」

 

「また……転移で飛ばされたみたいです。なんか、いつもこんな感じなんですよね」

 

 窓の抜け落ちた枠から外を眺めながら、レインが答える。

 

「転移だと?」

 

 ロンディーヌは、まじまじと黒髪の少年を見つめた。

 "転移"そのものは、広く知られた事象だ。不思議な泉であったり、姿鏡であったり、門であったり……太古の魔法文明が遺した"転移を行う装置"がいくつも現存している。ただし、転移先が固定されていて、行き先を選べるようなものではない。

 

「どうして、ここに飛ばされたのかは分かりません。気が付いたら、ここだったんですから」

 

 レインが振り返って笑う。

 どこか諦めたような苦笑だった。

 

「……遺物に頼らず、転移を行う術が存在するのか?」

 

 日焼けを知らないレインの端正な顔を見つめながら、ロンディーヌは何から訊ねようかと思案を巡らせた。

 

「でも……どうせ、ロンディーヌさんを捜すつもりだったから良かった」

 

 レインが言った。

 

「私を?」

 

「帝都に行くつもりだったんですけど、ここって……帝都じゃないですよね?」

 

 何を見ているのか、少し遠い眼差しをしたレインが首を傾げている。

 

「まあ……帝都ではないな」

 

 ロンディーヌは小さく首を振った。

 

「賭けには勝ったんですか? 負けたんですか?」

 

「……一つは勝った。もう一つは……まあ……惨敗だな」

 

 ロンディーヌは苦く笑った。

 無遠慮な問いだが、不思議と全く腹が立たない。むしろ、心地良くさえある。

 

「それで、ここに?」

 

「私には、少しばかり面倒な異能が宿っているらしくてな、神殿の連中が鬼の形相で追い回してくる。町という町に、賞金付きの人相書きが出回ってしまった。魔物より人間の方が怖くなって、逃げ隠れしているところだ」

 

 ロンディーヌは、自嘲気味に笑った。

 

「異能?」

 

「ドリュス島へ流された時は、魔力ごと封印されていたのだが……封印が解けてしまった。魔力が戻ると同時に、忌まわしい異能も……戻ってしまったらしい」


 神殿による異能封じの儀式は不調に終わった。

 手に負えないと判断するや、神殿はロンディーヌを捕らえて監獄へ連れて行こうとした。だが、護送をしていた兵士、神官達が、意図せず発現したロンディーヌの異能によって亡くなってしまった。

 

「ふうん?」

 

 軽く鼻を鳴らしたレインが、じっとロンディーヌを見つめてくる。

 

「なにか見えるか?」

 

「その黒い蛇みたいなのが、異能なんですか? 変なのが浮かんでいますけど?」

 

 レインが、ロンディーヌの肩の辺りを指差した。

 

「……む?」

 

「精霊というか……悪霊のたぐいかな?」

 

「いったい、何を言って……」

 

 ロンディーヌの柳眉がひそめられる。

 

「とりあえず、はらっちゃいましょうか」

 

 "折れた剣"を手にしたレインの全身が、眩い聖光に包まれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る