Ⅱ
第26話 再会
「く……来るなっ!」
怯えた若者が、必死の形相で手にした花瓶を投げつけた。
ロンディーヌは、避けなかった。
放心したような顔で立ち尽くしていた。その額に、投げつけられた花瓶が当たった。
水と紅い薔薇が純白の婚礼衣装を彩った。結っていた紅色の髪が解けて、黄金の髪飾りが滑り落ちてゆく。
花瓶と髪飾りが、石床に落ちて硬い音を立てた。
「化け物っ! 来るな……来ないでくれっ!」
若者が壁に背を張り付かせて、恐怖の視線を向けていた。
ロンディーヌは、虚ろな瞳で自分の手を見つめた。それから、自分の足下に横たわる男を見下ろした。骨と皮だけになった気味の悪い容貌をした男が倒れていた。
「お……父様!」
ロンディーヌの紅をひいた唇が微かに震えた。
彼女の父親が、この世でたった一人の肉親が、餓死した者のようにやせ細って倒れていた。
もう誰とも分からぬ
干涸らびた父親は、骨のような指に、血に染まったハンカチを握りしめていた。
「だ……誰かぁ! 助けてくれっ! 化け物だ! 誰かっ!」
若者が壁を背にしたまま、金切り声をあげていた。
(化け物……?)
虚ろに混濁するロンディーヌの意識が、不思議そうに若者の叫び声を聴いていた。
あの若者は、今日から夫になった人である。ロンディーヌが十二歳になったら、嫁ぐ約束になっていたらしい。それが、夫になる人からの強い要望だったそうだ。
父親に嫁ぎ先のことを聴かされた時には、結婚がどういう物なのか理解ができていなかったが、家の為になることだと教えられて安堵していた。自分が嫁ぐことが父の役に立つと言うのだから、それだけで嬉しかった。
挙式の事は、とても眩しかったぐらいにしか覚えていない。
大勢の見知らぬ大人達から挨拶をされ、教えられたとおりに笑顔でお礼を言い続けた。
その後は、頭の中が白くなった感じがして、何処をどう歩いていたのかさえ覚えていなかった。
ぼんやりしている内に式が終わっていた。気が付くと、夫になった人に連れられて、控えの間に入っていた。外套らしいものが沢山吊るされている、誰も居ない静かな部屋だった。
疲れていたのだろう。ほっと溜息をついてしまい酷く慌てた。不躾な娘だと思われたに違いないと、恥じ入りながら男の表情を見ようとした。
その時、いきなり強い力で腕を掴まれた。
そのまま、引きずるように抱き寄せられた。
ロンディーヌは、本能的に恐怖を覚え、逃れようとして手を突っ張った。しかし、男の力には敵わなかった。
怖くて声も出せなかった。怯える紅色の瞳を睨み付け、眼を血走らせた男が顔を寄せてきた。荒々しく吹きかかる息が生臭く、ロンディーヌは思わず顔を背けた。
途端、頬を平手打ちが襲った。
弾けるように仰け反ったロンディーヌに、もう一度、二度……。男が獣のように唸りながら、激しく殴打の手を振り上げた。
「おれは、きさまの夫だぞっ! 何を嫌がるんだ!」
そう怒鳴って、男がまた殴った。
ロンディーヌは、何も分からなくなっていた。壊れた人形のように、男の暴力に身を任せていた。半ば意識が無かったのだろう。
お父様が助けてくれたことも覚えていなかった。
「ロンディーヌ! しっかりしろっ!」
気がついた時、背中を温かい力で抱かれていた。目の前に、懸命な表情をしたお父様の顔があった。
訳もわからず、ただ安心させたくて微笑もうとしたことを覚えている。
「済まなかった! 許してくれっ!」
お父様が涙を流していた。
立ち上がろうとすると、お父様が抱き起こしてくれた。
どこかで、あの男の甲高い叫び声が聞こえていたが、もう怖くはない。だって、お父様が一緒に居てくれるのだから……。
お父様が、白い綺麗なハンカチで、顔を優しく拭いてくれた。
どうして拭いてくださるのか分からなかったが、なんだか小さな子供に戻れた気がして、つい甘えて抱きついてしまった。
いつもは、とても厳しくて、こんな事は許してくれないのだけど、今だけは別……。お父様はしっかりと私を抱きしめて背中をさすってくれた。
大きな安堵が、震えている心を包み込んでくれる。壊れそうな十二歳の儚い心に、愛情が優しく伝わってきた。
私は、胸奥からこみ上げる衝動のまま、お父様に抱きついて泣いていた。
声を放って泣いていた。
どうして泣いてしまったのか分からなかった。
悲しいのか嬉しいのか、とにかく激しい感情に押しつぶされるように、頭の中が真っ白になってしまって、童女のように泣いてしまった。
頭の中が熱かった。
体が熱かった。
そして、それは起こった。
「ロッ……ロンディーヌ!?」
お父様の苦しそうな声が聞こえた。
不意に、私の手の中で、お父様が小さく縮み始めた。
恐怖が背筋を震わせた。
「い、嫌っ……嫌ぁぁぁ!」
ロンディーヌは、絶叫を放っていた。
悲痛な叫びが、夜の
「お父様っ!?」
跳ね起きて、すぐにいつもの悪夢だったことに気が付いた。
(またか……)
夜着が嫌な汗で濡れて肌にへばりついている。
ロンディーヌは、目元を手で覆い、溜息を吐きながら、立てた膝を抱えるようにして顔を埋めた。
その時、
(……あっ!?)
恐怖で体が強張った。
すぐ近くに、何者かの気配があった。
「……えっ?」
恐怖で強張る視線を向けた先に、見覚えのある少年が横たわっていた。
艶やかな黒髪をした少年が、先ほどまでロンディーヌが横たわっていた寝台の上で眠っている。
「む……ん」
黒髪の少年が微かに目を開き、ぽりぽりと頬を掻いてから再び目を閉じる。
「まさか……レイン?」
怖々と名を呼んで、ロンディーヌはそっと手を伸ばしてレインの肩に触れようとした。
途端、目を見開いたレインがロンディーヌの腕を掴んで引き倒し、逆手に握った"折れた剣"を振り下ろす。
「ぁ……」
ロンディーヌには為す術が無かった。死を覚悟したロンディーヌだったが……。
寸前で、レインが動きを止めていた。
「あれ? ロンディーヌさん?」
レインの双眸が大きく見開かれた。
「レイン……本当に、レイン……なのか?」
ロンディーヌは、レインに組み敷かれたまま体の力を抜いた。
「……ここは?」
レインが
「
ロンディーヌは小さく笑った。
「寝所?」
レインが、薄暗い部屋の中を見回した。
木箱が一つ、木樽が一つ、簡素な寝台が置いてあるだけの部屋だった。
「まあ、少しばかり
ロンディーヌは、自分を組み敷いているレインを見つめた。
ほんの微かだが、霊力の動きがある。何かの術技を使っているらしかった。今のロンディーヌが集中して観察しないと気が付かないほど、見事に隠蔽された霊力の動きだった。
「広い廊下……でも、扉が
レインが呟いた。
「分かるのか?」
ロンディーヌは仰向けに押さえつけられたまま、レインを見上げた。
記憶にあるレインより、ずいぶんと身体が大きくなっているように感じる。
「そういう術技です」
レインがロンディーヌを解放して、壁際へ歩いて行った。
やはり、ドリュス島で共に生活をしていた時よりも、すらりと背丈が伸びている。
(あれから……2年……いや、3年?)
ドリュス島で着ていた神官服と"折れた剣"を未だに使っている。背には、見覚えの無い革鞄を背負っていた。
「便利な術があるのだな」
ロンディーヌは、ゆっくりと身を起こすと、床に落ちていた紺色の長衣を拾った。地の薄い夜着の上から長衣を羽織って腰を紐で絞ると、軽く頭を振って燃えるような真っ赤な髪を舞わせる。
「近くには、誰も居ませんね」
出入り口の見当たらない部屋の中を見回して、レインが呟いた。
「この城には、身寄りの無い麗しの美姫が一人で暮らしている。静かで良いが……少しばかりカビ臭いのが難点だな」
ロンディーヌは魔術を使って宙空に
「……レインは、どうやってここへ? ここは、化け物しか住んでいない呪われた地だぞ?」
「また……転移で飛ばされたみたいです。なんか、いつもこんな感じなんですよね」
窓の抜け落ちた枠から外を眺めながら、レインが答える。
「転移だと?」
ロンディーヌは、まじまじと黒髪の少年を見つめた。
"転移"そのものは、広く知られた事象だ。不思議な泉であったり、姿鏡であったり、門であったり……太古の魔法文明が遺した"転移を行う装置"がいくつも現存している。ただし、転移先が固定されていて、行き先を選べるようなものではない。
「どうして、ここに飛ばされたのかは分かりません。気が付いたら、ここだったんですから」
レインが振り返って笑う。
どこか諦めたような苦笑だった。
「……遺物に頼らず、転移を行う術が存在するのか?」
日焼けを知らないレインの端正な顔を見つめながら、ロンディーヌは何から訊ねようかと思案を巡らせた。
「でも……どうせ、ロンディーヌさんを捜すつもりだったから良かった」
レインが言った。
「私を?」
「帝都に行くつもりだったんですけど、ここって……帝都じゃないですよね?」
何を見ているのか、少し遠い眼差しをしたレインが首を傾げている。
「まあ……帝都ではないな」
ロンディーヌは小さく首を振った。
「賭けには勝ったんですか? 負けたんですか?」
「……一つは勝った。もう一つは……まあ……惨敗だな」
ロンディーヌは苦く笑った。
無遠慮な問いだが、不思議と全く腹が立たない。むしろ、心地良くさえある。
「それで、ここに?」
「私には、少しばかり面倒な異能が宿っているらしくてな、神殿の連中が鬼の形相で追い回してくる。町という町に、賞金付きの人相書きが出回ってしまった。魔物より人間の方が怖くなって、逃げ隠れしているところだ」
ロンディーヌは、自嘲気味に笑った。
「異能?」
「ドリュス島へ流された時は、魔力ごと封印されていたのだが……封印が解けてしまった。魔力が戻ると同時に、忌まわしい異能も……戻ってしまったらしい」
神殿による異能封じの儀式は不調に終わった。
手に負えないと判断するや、神殿はロンディーヌを捕らえて監獄へ連れて行こうとした。だが、護送をしていた兵士、神官達が、意図せず発現したロンディーヌの異能によって亡くなってしまった。
「ふうん?」
軽く鼻を鳴らしたレインが、じっとロンディーヌを見つめてくる。
「なにか見えるか?」
「その黒い蛇みたいなのが、異能なんですか? 変なのが浮かんでいますけど?」
レインが、ロンディーヌの肩の辺りを指差した。
「……む?」
「精霊というか……悪霊の
「いったい、何を言って……」
ロンディーヌの柳眉がひそめられる。
「とりあえず、
"折れた剣"を手にしたレインの全身が、眩い聖光に包まれた。
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