第15話 天罰
(……危なかったなぁ)
レインは、港近くで見付けた水夫用の湯屋に入っていた。
蒸し風呂だ。
湯が張られた風呂ではなく蒸気風呂だったが、別途お湯や冷水が用意してあって体を洗うことができる。
ちょうど、混み合う時間を外したらしく、湯気が立ちこめた洗い場には三人の男がいるだけだった。
(ハグアンはもう嫌だ)
レインは石鹸をつけた垢すりで体を擦りながら、ハグアンという海トカゲとの戦いを振り返っていた。
本当に危なかった。
よく調べもせず、引き受けた討伐依頼だ。
町から三時間ほどの場所にある漁村で、海辺に干した魚を何かに盗られるから見張って欲しい……そういう依頼だった。
(簡単だと思ったんだけどなぁ)
最初は、小さなトカゲが浜辺に上がって来た。緑色の鱗皮をしたトカゲで、大きさは子犬くらい。
トカゲというより手足のある魚といった姿で、ヒレのついた足を使いヨチヨチと砂浜を這い進んで来るだけだから、石をぶつけるのは簡単だった。
しかし、何度か繰り返し追い払っていたら、小さなハグアンと一緒に、やけに大きなハグアンが海から上がって来たのだ。
水牛くらいの厳めしい体格をした大トカゲだった。鱗の色は綺麗な青色で、左目は切り割られた痕があり白く濁っていた。
大ハグアンは、石を投げても逃げなかった。
逆に、突進して来た。
おまけに、この大きなハグアンは全身から電気を放った。全身を青白く輝かせて、バチバチと放電してきた。
大ハグアンとの戦いは、一時間近くかかる長い闘いになった。
幸い大ハグアンの動きは速くない。だから、レインは、電撃が始まる予兆を感じたら走って離れ、電撃が終わりそうな頃合いを見極めて斬り込んだ。
鱗がやたらと硬く、角度よく剣が当たった時しか斬れなかったが、それでも粘り強く手傷を与え続けると徐々に大ハグアンの動きが鈍っていった。
最後の最後に、大ハグアンが、全身から放電したまま狂ったように転がり回って、危うく巻き込まれそうになったが……。
最後は、温存していた霊力で異能を使い、"折れた剣"を飛翔させて遠間から削りきった。
(もう、やりたくない)
小鬼や豚人などを問題無く退治できるようになって、少し慢心していたのかも知れない。
危うく重傷を負うところだった。
まあ、町の討伐協会が高値で買い取ってくれるらしいから、大ハグアンとの死闘も無駄ではなかった。
「ふぅ……」
煮立つように泡が立つ湯桶から湯を汲んで、冷たい水で薄めつつ顔を洗い体に浴びると、それだけで大きな息が漏れる。
蒸し風呂というのは初めてだったが、海風で冷えた体が温まるだけで有り難い。
(それにしても……占術だと、こっちなんだけどなぁ……イリアン神殿……見つからないなぁ)
ぼんやりとした
レインは、頭から湯を被って全身の石けん泡を洗い流した。
その時、
「あらぁ? 可愛い坊やがいるぅ」
不意に女の声がして、腰に白い布を巻いただけの裸の女が入って来た。真っ白な豊かな胸乳を惜しげもなく晒したまま、真っ直ぐにレインの方へ近づいて来る。
「えっ?」
レインは、驚いて周囲を見回した。
しかし、他の客は平然と座っている。若い女が入って来たことを不思議とも思っていない様子だ。
「あ、あの……?」
レインは、できるだけ女の方を見ないように声を掛けた。
「あらぁ? なぁに? 坊や、湯女を知らないのぉ?」
女がわざわざ柔らかい胸乳を押し付けてレインにじゃれついてきた。
「この町は初めてだから……こういう所なんですね」
「あははは……可愛いぃ~」
女が笑い声を立てた。
「うるせぇぞ! 騒いでないで、こっちに来て背中を擦らねぇか!」
奥の男が怒鳴り声を上げた。
「はいはい、ただいま参りますよぉ! じゃあねぇ~」
レインの頬に口づけをして、女が奥にいる男の方へと去って行った。
(……びっ、びっくりした!)
レインは、手桶を元の場所へ返すと脱衣所に出た。
(どこのお風呂もこうなの? それとも、ここだけ?)
赤らんだ顔をタオルで拭きながら溜息を吐いた。レインが育ったプーランでは考えられない事だが、この町ではこれが常識なのかもしれない。
(この後……食事だっけ)
貴族の船に招待されている。
ここから海を渡った先にある大きな島の貴族らしい。
何のつもりか、レインを巡って貴族同士が決闘騒ぎをやったようだった。
(何のつもりだろう?)
気分は良くないが、その理由が気になった。
この辺りに辿り着いたのは6日前のことだ。討伐協会に少し顔を出して旅の途中で手に入れた薬効のある草や木ノ実を売り、飲み屋を兼ねた安宿に滞在をしている。ハグアンの一件はともかく、他に目立つようなことはやっていない。
(面倒臭さそうな理由なら逃げちゃえば良い)
時間はレインの都合に合わせる、どうしても時間が合わないなら無理強いはしない……と、侍女だという女が低姿勢で言っていたので食事の誘いを受けることにした。
貴族なら、イリアン神殿について何か知っているかも知れないという期待もある。商人組合や討伐士協会で訊ねてみたが、誰もイリアン神殿を知らなかったのだ。
(イリアン神殿の方向を占っても、ぼんやりとした向きが分かるだけで……あやふやなんだよなぁ)
あまり頼りにならない占術だった。
レインは、貴族との食事に備えて、ムーナンに着いて買ったばかりの真新しい服に袖を通した。
「あん? 見かけねぇ顔だが……男娼か?」
「生っ白い尻しやがって……水夫じゃねぇな?」
湯屋の受付で談笑していた男達にじろじろと見られつつ、レインは建物の外へ出た。
<回復> の霊法は、体の傷痕まで完治させる。おかげで、レインの体には傷一つ無い。日焼けした肌も、すぐに元通りになってしまう。
(……お風呂、長く居すぎたかな?)
天幕を出ると、外はずいぶんと暗くなっていた。
火照った顔に夜気が冷たく触れて心地良い。
(うわぁ……)
陽が暮れて暗くなると、町の様相が一変していた。
湯屋から出たあたりの路上には、やたらと肌身を露出させた女達が並び、通りがかる男達を相手に甘ったるい声を出したり、罵ったり……賑やかなことになっていた。
せっかく体を洗ったのに、
そんなレインに気が付いて、からかう女がいたようだが、それに構っている余裕がない。
(いつも、こうなのか……)
つい先ほどまで、貴族同士が決闘騒ぎをやっていたはずなのに、何事も無かったかのようだった。
(苦手だ……この町)
レインは困り顔で通りを抜けたところで足を止めた。港のそこかしこの暗がりで、半裸の男女が抱き合っていた。
(なんで、わざわざこんな所で……)
レインは嘆息しながら、逃げ場を求めて視線を左右した。
辺りを見回すと、船が停泊している桟橋前の岸壁沿いは、あまり人が居ないようだ。
(まだ時間は早いけど)
招待された貴族の船に向かった方が落ち着けそうだ。
レインは、浮き桟橋に停泊している船からこぼれる明かりを拾うようにして、岸壁沿いに奥に見える大きな黒い船を目指した。
(あれが魔導船?)
なるほど、他の船とは違ってマストが付いていない。
他の船は帆柱のある帆船ばかりだが、行く手に見える真っ黒い船だけは帆柱の無い船だった。しかも、全体が金属で出来ているようだ。
浮き桟橋の
「おうっ、ちょっと待ちな」
「ここは色子が来る場所じゃねぇぞ」
男達が薄ら笑いを浮かべながらレインを囲む。見た感じ、水夫ではなく町のごろつきのようだった。
「……向こうにいる人と約束があります」
レインは無視して歩こうとした。
「待てや、こらっ!」
行く手に立ち塞がっていた男が腕を伸ばしてレインの胸ぐらを掴みにくる。レインは男の手首を掴んで捻りながら斜め前へ踏み込むと、姿勢を崩した男を腰に乗せるようにして地面に叩きつけた。
このくらいの相手なら、術技を使うまでもない。
その時だった。
ガガァァーン!
凄まじい雷鳴が
(なっ、なに? なにが……)
いきなりの事態に、レインは眩い雷光を避けて跳び
(……魔法? でも、誰が? どこから!?)
術を使う時の魔力や霊力の高まりなどは全く感じられなかった。
(これは……いったい?)
地面に、炭化した男達が転がっていた。焦げた臭いが辺りに立ちこめ、灰が海風に吹かれて舞っている。
たった一撃で、人間が炭化している。凄まじい威力だ。
続いて、
……ドドォーン!
……ドォーン!
町のあちらこちらで雷鳴が連続して轟いた。
(落雷? 雨雲もないのに?)
レインは、無数の星がきらめく夜空を振り仰いだ。
『天神の裁決を軽んじることは赦さぬ!』
唐突に、大きな声が夜空に響き渡った。張りのある女の声だった。
『シューラン共和国、ホルモス・ユマーン及び、その係累全てに裁きを下す!』
その場の全員が、ぎょっと目を見張って動きを止めていた。
(これって……アイリスさんの声?)
レインは姿勢を低くして周囲を見回した。
あちこちで悲鳴が聞こえ、雷光が明滅する。見ると、小舟の上や桟橋などで男達が雷光に撃たれて倒れていた。商館が並んだ通りの方では火の手が上がっている。
『ハイデール神殿のミオネーレ神官及び、その係累全ての加護を抹消する! 二度と加護を与えぬ!』
聞き覚えのある野太い声が夜空に響き渡る。どこにいるのか、あの家精霊の姿は見当たらない。
(これをアイリスさんが……)
レインは、呆然と立ち尽くしたまま雷光が奔り抜ける空を見回していた。
『決闘裁判は絶対である! ゆめゆめ忘れるなっ!』
ビリビリ……と、大気を震わせる大音声が響き渡ると、黒々とした雨雲が町の上空を覆い、ぽつりぽつりと雨粒が落ち始めた。
(これが"決闘裁判"……こういう決まりなのか)
レインは地面に目を向けた。レインに絡んできた男達は身だけが灰となって崩れ、着ていた衣服や短剣などはそのまま遺されていた。
雷に撃たれたということは、決闘裁判で負けた側の貴族がレインを捕らえようとして雇った男達だったのかもしれない。
眉根を寄せて考え込んだレインの後ろに人の気配が湧いた。
「レイン様でしょうか?」
名を呼ばれて振り向くと、灰色のメイド服に白い前掛けをつけた若い女が立っていた。無論、レインの知らない女だ。
「そうですけど……あなたは?」
「ルナ・ナーガ様の命により、お迎えに上がりました」
女が恭しく頭を下げた。
「えっと……その人は食事の?」
レインは周囲に視線を配った。こちらに注意を向けている気配はいくつかあるが、近寄ってくる者はいなかった。
「陽が暮れますと、この辺りは少々風紀が乱れます。余計なこととは存じましたが、お迎えにあがった次第です」
「あれは、大丈夫なんですか?」
レインは、町の方々に立ち上る火の手を見ながら訊ねた。
「外洋船には水魔法の使い手が数多くおります。延焼は防げるでしょう」
「そうですか」
案内に立った女について歩きながら、レインは港の喧噪に目を向けた。
(決闘裁判の結果を守らないと神罰が下る……この辺の人にとっては当たり前のことなのか)
男達を狙い撃ちにした雷や空に響いたアイリスの怒声を不思議がっている様子は見られない。
「レイン様をご案内したしました。御方様にお取り次ぎを!」
先に歩いていたメイド服の女が声を掛けると、大型船用の桟橋前で警備に当たっていた騎士達が背を正した。騎士の一人が走って舷梯を駆け上がる。
すぐに、甲板上に人が姿を見せた。
(女の人?)
レインが見上げる先を、黄金色の髪をした女と、すらりと背丈のある灰金髪の女が
どちらも、歳は二十代半ばくらい。びっくりするくらい綺麗な顔をした女達だった。背が高い方は、案内をしたメイドと似たような灰色の衣服を身につけている。
「レイン様ですね?」
黄金色の髪をした女が、穏やかな笑みを浮かべて声をかけてきた。
「はい……レインです」
レインは小さくお辞儀をしつつ、わずかに離れて立っている女の足運びを目で追っていた。灰色の服を着た方の女は非常に危険な感じがした。
「ルナ・ナーガと申します。我々の都合で決闘裁判などを行ったこと、気を悪くされたでしょう。配慮が足りなかったことを謝罪致します」
ルナ・ナーガと名乗ったドレス姿の女が、深々と腰を折って頭を下げた。わずかに遅れて、その場の全員がレインに向かって低頭する。
「……僕は、貴族の人に接する方法を知りません。できれば、もう少し楽に……というか、雑な扱いでお願いします」
貴族に愛想良くされると気持ちが悪い……と言いかけて口を
(今なら、貴族なんかに殺されたりしないけど……)
レインは顔に出るたちなので、あまり良い表情をしていないだろう。
「失礼しました。このような出迎えをしては、かえって失礼になりそうですね」
ルナが微笑する。
「魔導船って言うんですよね? こんな船は初めてです」
灰色服の女と騎士達のピリピリと張り詰めた視線を感じながら、レインは大きな魔導船の船縁を見上げた。
「食事は、この船の中で……と考えております。よろしいですか?」
「招いてもらって嬉しいんですが……僕は、しゃべり方とか……食事の作法なんかも知りません。それでも大丈夫ですか? 行儀が悪いからと牢屋に入れられたり、殺されるようでは困ります」
レインは、ルナの斜め後に控えている灰色服の女に視線を向けた。
「客人としてお招きしたのです。無礼があるとすれば我々の側。どうぞ、普段のまま、気を楽になさってください。私の客人に非礼を成す者は……この船にはおりません」
ルナが護衛の面々を
「……本当に良いんですか?」
レインは騎士達を見た。
「シレイン島で一番の料理人が、今か今かと待ち構えております。どうぞ、お上がり下さい」
近くに立っていた初老の騎士が笑顔で言った。
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