第8話 別れ
『そろそろ、お迎えが来そうだ』
ワーグ司祭の幽霊がちらと上方を見上げた。
サドゥーラを討伐後、レインは神殿の中にある神像の前に来ていた。そうするようにと、ワーグ司祭に言われたからだ。
「ワーグ師匠……」
レインは、神殿の床に膝をついたままワーグ司祭の幽霊を見つめていた。
『おっと、そうだ……安心しろ。あの
「……ロンディーヌさん?」
すっかり忘れていたが、どうやら無事に船に乗り込んだらしい。
『あの娘、なかなかの玉だ。目を引く美貌をしとる上に、乳も態度もでかかった。生きて大陸に辿り着くことができても平穏な生き方はできんだろう。レインよ、女をつかまえるなら、もうちょっと
ワーグ司祭が冗談めかして言った。
「師匠……」
レインは小さく溜息を吐いた。ワーグ司祭との別れが近づいている。ロンディーヌのことは気になるが、レインにとってはワーグ司祭と過ごす時間の方が大切だった。
『わはは、そう暗い顔をするな。やっと鬱陶しい骨から解放されて天へ召されるのだぞ? 天上の世界で美しい女神様にお仕えするのが、儂の若い頃からの夢だったのだ。やっと念願が叶う……長かった……長かったぞ』
「……もう、お別れですか? もう、会えませんか?」
レインは俯いた。
『おまえには、退魔の基礎しか教えてやれなかったが……なに、基礎の術技を磨けば、どんな奴が相手でも簡単にはやられはせん。しぶとく生きていれば、必ず勝ち筋を見付けることができる。そのための修練はしっかりやらせたつもりだ』
ワーグ司祭が笑顔で言った。
「……はい」
『霊力を練り上げる訓練は休まず続けろ。微量ずつだが霊格の上昇にも寄与する……必ず、おまえのためになる』
「はい」
『おまえは魔力が少ない。霊力を使う霊法には適性がある。魔術はほどほどにして、聖法術や祈祷術を
「はい」
『それから……ミマリの半狐面だが……霊格が上がったなら異能が使えるかもしれん。あの黒い半狐面を被って、霊力を練り上げながら呼びかけてみろ。もし、まだ無理であっても、焦らずに霊格を上げてゆけば、いつかはミマリが遺した術技を継承できる時がくる』
「はい」
レインは、膝頭を手で掴んだまま頷いた。
『それから……ああ、もっと色々なことを教えてやりたかったが……亡者の身で、これ以上は望み過ぎのようだな』
そこに何が見えているのか、ワーグ司祭が上方を見上げて溜息を吐いた。
「……師匠」
『サドゥーラが島にかけていた呪いは消えた。奴が封じていた神殿地下の隠し通路が開いただろう。その先には転移の魔法陣が刻まれた台座がある。休眠して久しいが、毎日少しずつ魔力を注いでやれば……転移陣として息を吹き返すはずだ。飛ぶ先は……大昔に世話になったアトール大陸にある寺院だな。ちと厄介なのが
「……はい」
『くどいようだが、霊力を操る力は
「はい」
『おまえが無事に島を出ることができて、もし……いつか、イリアン神殿へ行くことがあれば……もし、まだあの神殿が残っていたのなら……』
「イリアン神殿ですか?」
レインは首を捻った。
『神殿の墓地に、ロコナ・ラファンという者の墓があるかもしれん。もし……見かけたら、花を供えてやってくれんか? 彼女は、イーリンの紅い花が好きだった』
「ロコナ・ラファン……ですね?」
『うむ。まあ、なんだ……ちょっとした知り合いでな。あいつとは、良い分かれ方ができなかった。最後まで面倒を押しつけるようで申し訳ないが……』
ワーグ司祭が視線を落とした。
「分かりました。必ず、イリアン神殿に行きます」
レインは大きく頷いた。
『すまん。あぁ……そろそろだな』
「師匠!?」
『レイン……儂の最後の弟子よ。おまえと過ごした日々は楽しかった。おまえのおかげで心安らぐ日々を思い出すことができた。おぉ……偉大なる裁神よ……麗しき天秤の女神よ、どうか我が弟子に祝福を……我が弟子の行く末に光をお与えください』
大きな声で祈るワーグ司祭の体が光に包まれてゆく。
「師匠……待って!」
レインは、涙を滲ませながら引き止めようとした。
直後、眩い光が視界を覆った。
「……師匠?」
白光に視界を奪われたまま、レインは呼び掛けた。
「師匠? ワーグ師匠?」
不安に駆られて、レインが大きな声を上げた時、視界を塗りつぶしていた白光が消えていった。
「師匠っ!?」
気配が消えている。頭では分かっている。もう居なくなったのだと……。ワーグ司祭は旅立ったのだと分かっている。
だが……。
「師匠っ! 師匠っ! ワーグ師匠っ!」
理屈ではなかった。名を呼ばずにはいられなかった。
「……ううぅぅぅ」
呻き声を漏らして、レインは蹲った。乾いた床に爪を立て、掻きむしるようにして引っ掻き、拳を握って床を叩いた。
「うあぁぁぁ……」
レインの口から堰を切ったように叫び声が吐き出された。そのまま、大粒の涙を流し、身を揉むようにして叫び始めた。
レインは、我慢していた全てを吐き出すように叫び、床に突っ伏して泣き喚いた。
ワーグ司祭との別れが、未熟な心を揺さぶり、胸奥に押し込めていたものが一気に溢れ出してしまった。
レインは、泣いて、泣いて、泣き叫んで、そのまま動かなくなった。
(……師匠……)
日が暮れて、月の光が神殿を照らす頃になって、レインはようやく眼を覚ました。
(師匠……ちゃんと女神様のところへ行けた?)
手足を投げ出すようにして倒れたまま、レインは虚ろな眼差しで女神像を見上げた。
(また、一人になった)
レインは冷たい床の上に身を起こし、月光が差し込む神殿の中を見回した。
静まり返った神殿には清涼な空気に満ちている。レインは胸いっぱいに空気吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
好きになった人との別れには慣れる気がしない。悲しみと喪失感が、胸の奥を抉って大きな穴を開けてしまう。二度と味わいたくない辛い痛みだった。
(……師匠、元気でね)
レインは、じっと天秤の女神像を見つめてから、小さく息を吐いて神殿の大扉から外へ出た。
また、一人きりだ。
これから、どうやって生きるのか、何もかも自分で考えないといけない。
誰にも相談できない。誰も教えてくれない。誰も助けてくれない。
レインは、月が青白く染める下草を踏んで東の洞窟に戻った。洞窟には、干し魚や乾燥ミミズなどが作り貯めてある。木組みの寝台もあった。
少し奥へ行くと、岩床のあちこちに練習で彫った文字が残っている。利き手を失ったレインが、左手でも文字を書けるようにと、ワーグ司祭やロンディーヌが練習に付き合ってくれた。
(師匠……)
レインは、岩床の文字を手でなぞりながら背を震わせ始めた。
(うぅ……)
大粒の涙を滴らせながら、レインは声を押し殺して泣いた。
(……ありがとう、師匠)
レインは、手の平で床の文字を撫でながら静かに泣き続けた。
いつか、会えるだろうか。
天に召されたら、ワーグ司祭に会うことができるだろうか。
(そうしたら……お祖母ちゃんにも会える?)
レインは、暗闇の中で岩床の文字を見つめた。
これからどうすれば良いのだろう。
一人で生きて……頑張って生きて……それでどうなるのだろう。
大好きな人は、みんな居なくなってしまった。
レインは、一人ぼっちだ。
(僕は……)
レインは、昏く沈んだ眼差しで、静まり返った洞窟の闇を見回した。
(……あれは?)
壁に立て掛けてある木組みの衣装掛けに、目にも鮮やかな赤い布が結んであった。
(ロンディーヌさんの?)
ドレスの裾でも千切ったのだろうか。真っ赤な布切れだった。
解いてみると、炭を使ったのだろう、紅色の布切れに躍るような力強い文字が書かれていた。
******
レイン、世話になった。
先に島を出る。帝都で会おう。
待っている。
******
(……ロンディーヌさん)
赤い布切れを見つめるレインの顔が歪んだ。
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