第5話 流刑者


『起きろ、レイン。小舟が来たぞ』


「えっ!?」


 ワーグ司祭に言われて、レインは急いで起き上がった。

 レインは、島の東側にある洞窟の中で暮らしていた。元は大きな蛇が巣にしていた洞窟らしい。大昔に、ワーグ司祭が他の仲間達と一緒に退治をしたそうだ。

 その時に剥ぎ取った蛇皮や牙などがあり、水を汲む袋や蛇の腱を編んで作ったというロープなども残っていた。

 

 ワーグ司祭に師事をして2年、レインはドリュス島で健やかに生きていた。

 十一歳になり、背が少し伸びて、細身だが筋肉質で引き締まった体つきになった。黒髪は伸び放題に伸びて、背に届くほどになっている。

 ワーグ司祭の指導で風呂を造り、毎日湯で体を洗っているため、孤島で暮らしているわりに身綺麗だった。

 

『小さな舟だ。罪人を乗せた舟だな』

 

「罪人……」

 

 レインは、急いで洞窟を出た。

 

『南の砂利じゃり浜だ』

 

「人が?」

 

『一人乗っておる』

 

「一人で舟を漕いでるんですか?」

 

 この島の周りは風が強く、潮流が激しく流れている。岸近くの白く波頭が上がっている辺りには無数の岩が海中から突き出していて、大型の船は寄りつけない。小舟でも、ぎりぎりすり抜けられるかどうか……。

 

『島の入り江に流れ込む潮流に小舟を乗せた後、大きな帆船は去って行った。流刑なのだろうが……しかし、いつも不思議に思うのだが、危険な海を渡ってまで罪人を連れて来るのは何故かな?』

 

「海って、そんなに危ないんですか?」

 

 レインは船に乗ったことが無い。

 

『船が沈めば終いだからな。難所ではなくても、横波に煽られてひっくり返ることもあれば、嵐に巻き込まれて風と荒波で船が裂けることもある。そもそも、海には大型船を呑み込むような魔物がおるのだ。罪人を運ぶために、わざわざ危険を冒す理由が分からん』

 

 ワーグ司祭の幽体が首を捻っている。

 

「……そうなんですね」

 

『この近くの国か? まあ、儂の生きていた頃とは違う国になっているのかもしれんが……最寄りの港からでも順風で航行して三ヶ月かかったぞ? このところ海はいつも荒れているから、ただ航行してくるだけでも半年はかかるはずだ。たった一人の罪人を連れて来るために、そこまでする必要があるか? 地下牢に繋いでおくか……島流しをしたことにして、処刑してしまえば良かろう?』

 

 ぶつぶつと呟いているワーグ司祭の幽霊をそのままに、レインは海を見渡せる丘へ向かった。

 

「舟はどこです?」

 

 外海は、白波がノコギリの歯のように立っていたが、入り江の中はそこまで荒れていない。ただ、海面から突き出した尖った岩が無数にあって、すり抜ける潮の流れを複雑にしていた。

 

『離岸する潮流に押されて外海に戻ってしもうたか?』

 

「ええっ!?」

 

『……いや、ひっくり返った舟の底が見える。乗せられていた罪人はどこだ?』

 

 ワーグ司祭が指さした。

 

(あぁ……)

 

 岸からかなり離れた海面に小舟の底が見え隠れしていた。

 

「あっ!?」

 

 小舟から少し離れた海面を人が泳いでいた。岸に向けて泳ごうとしているが、沖へ向かって流れ出る潮が速くて流されているようだった。

 

 レインは、海上に目を凝らした。

 

『どうやって助ける?』

 

「泳ぎます」

 

『あれは、岸を離れる流れに乗っておる。行っても共に溺れるだけじゃぞ?』

 

「……でも、助けます!」

 

『ふむ。意気込みは立派だが、それだけではいかん。本当に助けたいなら、きちんと算段をせねば……海蛇の腱で作ったロープと水袋、あれを使うといい』

 

 ワーグ司祭の幽霊が言った。

 

「水袋とロープを?」

 

 レインは、洞窟めがけて駆け戻りながら訊き返した。

 

ロープを岸辺の岩に巻き、片側をおまえの腰に結んで泳いで行けば、縄の長さ以上は流されることは無い。今のレインなら、あの者が溺れる前に追いつけるだろう。その後は水袋に空気を入れて浮き袋にしろ。沈まぬように耐えれば、岸を離れようとする潮流から抜け出せる。どうだ? 理解できたか?』

 

「……はいっ! 分かりました!」

 

 レインは力強く頷いた。

 洞窟の壁に吊るしてあったロープと袋を掴むと、レインは全速力でゴロタ石の浜辺まで駆け下り、大きな岩を見付けてロープを巻いて固定した。

 それから、ロープの片側を自分の腰に結ぶと、水袋を持って海中へ駆け込んだ。

 

 元々、泳ぎは得意だったが、離岸する潮流に乗ったおかげか、自分でも驚くくらいに速く泳げた。相手もレインに気づいたらしく、何とか泳ごうとしている。

 

(女?)

 

 燃えるような紅髪に紅玉のような瞳をした、凄みすら感じる美貌の持ち主だった。 

 レインは掻く手、蹴る足に力を込めて一気に距離を詰めた。

 

「助けます! 暴れないで!」

 

 大きな声を出しながら、レインは手に持っていた袋を水から持ち上げる。袋を振って空気を入れて口を結ぶと、一抱えほどもある浮き袋になった。

 

「僕に掴まって!」

 

 必死の形相で泳いでいる女に声を掛け、レインは浮き袋を手に女に近付いた。

 途端、女が凄い力でしがみついてきた。怖いくらいの強さで首を絞められる。

 

「くっ、首を掴まないで! 肩を……」

 

「……すまん!」

 

 意外なほど冷静な声がして、女が後ろからレインの胴体に手を回した。

 レインは浮き袋を掴んで立ち泳ぎをしている。首さえ絞められなければ背から女に抱きつかれていても、余裕を持って浮かぶことができた。

 

(ぎりぎり、間に合った)

 

 ほっと息を吐いた。岸に結んだロープがレインの腰に食い込み、大岩との間でピンッと張り始めた。体に力を入れて耐えていると、沖に向かって流されていた体が、岸の大岩に引かれて離岸流の中に留まった。どうやら、ロープの強度も十分にあるらしい。

 

 どちらかへ移動して、岸を離れる潮の流れから抜け出ないといけない。

 

「あっちに……」

 

 レインは水を蹴って、潮流を斜めに横切り始めた。

 レインの意図を理解したのか、後ろからしがみついている女も、協力して足で水を蹴り始めた。

 岸に結んだロープの長さ以上は沖に流されず、手にした浮き袋のおかげで浮いていられる。

 もどかしいくらい岸との距離は縮まらなかったが、焦らずにじわりじわりと進んでいると、不意に重たい潮流から抜けて、一気に抵抗が軽くなった。離岸流を抜けたらしい。

 

「このまま岸へ向かいます!」

 

「分かった!」

 

 レインの声に、女が遅れずに答える。

 先ほどから風が強くなり、海面を飛沫が舞って顔に吹き付けてくるようになっていた。

 

「なかなか進まないな……少年」

 

 れたのか、女が話し掛けてきた。

 

「進むだけマシです。さっきまで、何をしても沖へ流されていたでしょう?」

 

「ああ、自分の非力さを呪っていたところだ」

 

「でも、そろそろ、足が届くかもしれません」

 

「そうなのか? ああ、本当だ。爪先が何かに当たる。ここは遠浅なのだな」

 

 女の声に安堵が混じった。

 

「僕は、まだ届きません」

 

 そう言いながら、レインは浮き袋の口を解いて空気を抜いた。

 

「あと少しですから、泳いじゃいましょう」

 

「分かった」

 

 レインの提案に女が頷き、二人別れて岸めがけて泳いだ。

 先ほどとは逆に、岸へ寄る流れがあり楽に泳ぎ切ることができた。女は途中から泳がずに歩いたようだ。

 

(……ドレス? 罪人なのに?)

 

 女は貴族が着るようなヒダのある真っ赤なドレス姿だった。さすがに宝石の類は身につけていないようだったが、島に流されるような罪人が着る衣服ではない。

 

『とんでもない美人だが……訳ありだな』

 

 耳元でワーグ司祭の声がした。振り返ったが、どこにも姿は見当たらない。

 

『姿は消しておるよ。幽霊なんぞ見たら大騒ぎになるだろうからな』

 

(分かりました)

 

 レインは小さく頷いた。

 

『しかし、色々と面倒になるぞ。覚悟しろ』

 

(どうしてですか?)

 

『高貴な家のお嬢様が、干したミミズを食べるのか? 貝や魚ですら口にするかどうか。普段、一流の料理人が食事の世話をしておるのだぞ?』

 

(……あぁ)

 

 レインは小さく呻いた。助けることに夢中で、助けた後のことまでは考えていなかった。

 

(あの人だけ丘の神殿に住んで貰うってわけには……)

 

『あそこは扉が封じられて、煙突からしか出入りができんだろう? それに、今しばらくは大丈夫だが……いずれ、あの不死者サドゥーラがちょっかいを出してくるぞ?』

 

(……そうですね)

 

 だから、神殿から離れた場所にある洞窟で暮らしているのだ。

 

「少年……感謝する。君のおかげで命を繋ぐことができた」

 

 女がドレスの裾を摘まみながら、ゴロタ石の上を近付いてきた。呆れたことに、踵の高い華奢な靴を手に持っていた。まるで舞踏会から抜け出して来たかのような格好である。

 

「僕は、レイン。この島に着いて2年になります」

 

 レインは、女に向かって軽く頭を下げた。

 

「妾は……私はロンディーヌ。追放されたから家名はない。命を救われた恩に報いたいのだが……困ったことに、この身の他は何も持ち合わせておらん」

 

 ロンディーヌと名乗った女が軽く両手を広げて見せた。レインには年齢の見当がつかないが、豊かな胸と細い腰、すらりと長い脚をした美しい肢体の持ち主だった。

 

『大人びておるが、まだ十七か、十八歳といったところだろう。ふむ……この女傑殿は、魔術の心得があるぞ。いびつな封じられ方をしておるが……わずかに使える魔力で体を強化して泳いでおったのだな』

 

 耳元で声がする。

 

「ロンディーヌさんは、魔術を使えるんですか?」

 

 レインは訊いてみた。

 

「分かるのか? 呪術で封じられてしまったが……私は、炎の魔術を得意としていた。少しばかり護身の術も心得ているぞ。おかげで、下卑た船乗り共に辱められずに済んだ」

 

 ロンディーヌが、わずかに双眸を細めながら頷いた。

 

「そうですか。この島には他に人間はいませんが、毒のある虫や植物があって、うっかり触ると危ないので気をつけて下さい」

 

 ワーク司祭の見立て通り、どうやらただ者ではない。自分の身は自分で守れそうだ。

 

「君は、ここで生きる知識を持っているのだな?」

 

「2年分の知識があります」

 

 レインは大蛇の腱で作ったロープを輪にして束ね、肩に担ぎ上げた。

 その様子をじっと見つめ、

 

「……色々と慣れなければいけないのだろうな」

 

 ロンディーヌが濡れた赤髪を掻き揚げながら海岸近くの林に目を向けた。

 

「取り急ぎ、土を掘って用を足すところから慣れて下さい。この島に便所の世話をしてくれる人はいませんよ」

 

 レインは、雨が降りそうな空を気にしながら伝えた。

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