第2話 幽界の骸骨

 水の中をレインが沈んでいく。

 左手を上に差し伸ばし、ゆっくりと水底へ向かって沈んでいた。

 黒髪が水中に拡がり、紫色の瞳は呆けたように遙かな水面の明かりを映している。

 そのまま、息が絶えそうに見えたが……。

 

(……ん?)

 

 レインの瞳に意思の光が蘇った。

 

(ここは?)

 

 レインは大きく目を見開くと同時に呼吸困難に陥り、慌てて手足をバタつかせて水面へ浮かび上がった。

 意識を失っていた間、ほとんど水を飲んでいなかったらしい。水面に顔を出して、噎せ返りながら、レインは周囲を見回した。

 

 暗闇を落ちていたところまでは覚えているのだが、どうして水の中にいたのだろう?

 

(ここって……池?)

 

 どうやら夜らしく、空は黒雲に覆われて、雲間に稲光がちらついていた。時折雲間を奔る雷光を便りに、周囲の様子に目を配る。

 

(ひどい雨……)

 

 見上げる顔に、大粒の雨が叩きつけるようにして降ってくる。

 

(どうして、こんな所に?)

 

 頭の中にかすみがかかったようで、はっきりと物を考えられなかった。

 

(僕は……刑場で……)

 

 脳裏に、王冠をかぶった骸骨の姿が浮かんだ。

 あの時、骸骨が何かをして、レインは闇の中に落ちた。

 

(それで……この池に? そういえば、どこかに送るって言ってた)

 

 酷く痛み始めた頭を手で押さえながら、レインは池の縁まで泳ぐとかやのような草を掴んで岸辺に体をずり上げようとした。

 

(か、体が重たい。水で手が滑って……)

 

 震える左手で草を掴み、口で草に噛みついてズリ落ちる体を支え、足掻きながら懸命に這い上がった。

 

 何度もせ、荒く息を吐くと、その度に激痛で体が痙攣する。

 頭だけでなく、体中が痛かった。

 

(……ここが、廃墟……学び舎?)

 

 王冠をかぶった骸骨が言っていたことが脳裏に浮かぶ。命を賭けて何かを手に入れろと、そんなことを言っていた気がする。

 

(痛いのは……我慢できる)

 

 顔をしかめたまま、レインは大きく息を吸い込んだ。失った右腕は、切断面から肩まで黒く染まっていたが、痛みは少し和らいだようだった。

 

(犬が……)

 

 どこかで犬が吠えているようだった。

 

(とにかく、どこか……安全なところに)

 

 レインは、大きく息を吐きながら、苦痛に耐えて立ち上がると雨に濡れた草間に隠れるようにして辺りを見回そうとした。

 

 その時、

 

『……ほう? 人の子が紛れ込みおったか』

 

 不意に、どこからか声が聞こえてきた。

 

(えっ!?)

 

 ぎょっと眼を見開いた。

 いつの間にか、目の前にボロを纏った骸骨人スケルトンが立っていた。刑場で出会った骸骨とは違う。目の前の骸骨は、王冠をかぶっていなかった。

 

『幼い人の子供が、どうやってここへ紛れ込んだ? 微かに……呪の香りがするようだが、何かに呪われて……ふむ、何の因果に導かれたのだ?』

 

 骸骨が身を屈めて、レインの顔を覗き込んできた。

 空洞になった眼窩の奥で、黒々としたものが渦巻いているのが見える。

 

『……だが、つまらぬ。実につまらぬ魂だ。命力も……脆弱で少なすぎる。しかし、われ瘴毒しょうどくを浴びて命を保っておるだと? どういうことだ? 神々の加護は受けておらぬようだが……』

 

 骸骨が骨だけになった手を伸ばしてレインの顎を掴み、左右に首をねじ曲げて観察する。

 

「やっ、やめて……」

 

『生まれつき、瘴毒に耐性があるということか? だが……そのようなことがあり得るのか? ふうむ……素体としては哀れなほどに貧弱……このような生き物が、どうやって我が荘園に紛れ込んだ? どこぞに界の歪みでも生じているのか?』

 

 骸骨が唸るように呟いて立ち上がった。

 

『だが、瘴毒に少しばかり耐える程度では……我が呪法の検体としては物足りぬ。荘園の死霊どもの滋養となるが良い』

 

 立ったまま何かを呟いていた骸骨が、興味を失ったように踵を返して去って行った。

 

(……助かった?)

 

 レインは、呆然と座り込んだまま、ボロを纏った骸骨が去った方向を見ていた。

 

(ここ……庭?)

 

 眼が暗闇に慣れたのか、辺りの様子がはっきりと見えるようになった。

 荒れ果てて草木が伸び放題に茂っていたが、古びた石館の広々とした中庭だった。レインが沈んでいた池は、石館の回廊に囲まれた中庭の真ん中にある。

 

(……お屋敷の池)

 

 池の中を覗き込んでみたが、強い雨粒が水面を叩いていて底までは見えなかった。

 

(僕の顔……なんか、白くなった?)

 

 ぼんやりと水面に映っている顔の輪郭は、儚いほどに小さく、今にも消えて無くなりそうに見えた。

 

(とにかく、どこかに……)

 

 落ち着ける場所に行こうと思うのだが、レインがいる中庭は、古びた石館の回廊に囲まれている。どこかへ行くためには、回廊を渡って石館に入らなければならないようだ。

 

(……白いものがいる)

 

 中庭には入ってこないようだが、回廊の石柱の周りを白い靄のような何かが漂っていた。

 よく見えなかったが、回廊沿いにある小部屋では、赤い小さな光が灯って、ゆっくりと動いている。

 

(あの骸骨も、館のどこかに?)

 

 そう考えるだけで足が竦む。心の奥底が恐怖で縮こまり、歯の根が合わなくなるほど体が震えてきた。

 

 王冠の骸骨とは違う。先ほどのボロを纏った骸骨は、ひどく禍々しい気配を漂わせていた。

 

(でも、館に入らないと、どこにも行けない)

 

 息を潜めて周囲の様子を覗ってから、レインは雨の飛沫に覆われた古びた回廊へ近付いてみた。

 

(何もいない……よね?)

 

 怯えた眼で回廊の天井を見回し、石の破片が転がった回廊の床を覗う。

 

(……行ってみよう)

 

 隠れているばかりではどうにもならない。

 レインは、中庭から回廊へ上がると、足音を忍ばせて壁際を進んだ。妖しげな光や靄がいない部屋を探して、そろそろと足音を忍ばせて戸口に近づいてみる。朽ちた扉の木片を踏まないように気をつけつつ周囲に何もいないことを確かめた。

 

(誰かの部屋?)

 

 レインは、戸口からそっと中を覗き見た。

 埃が積もった床の上に、机や書棚の残骸が散らばっている。奥の方には木箱らしき物もあった。

 

(本か、道具を手に入れたら……って、王冠の骸骨が言ってた)

 

 レインは、息を殺して、そろそろと部屋の中に入った。

 床に落ちている分厚い本を開いてみる。

 

(……日記?)

 

 数行ずつ、日々の出来事を綴った手記だった。

 祖母が教えてくれた大昔に流行ったという文字で書かれている。所々読めない文字はあったが、おおよその文意を読み取ることはできた。

 

(こっちは……)

 

 別の本を開くと、奇怪な形の杖や指輪の絵と、それについての説明文が書かれていた。

 他に、円筒形の物や石、金属について記したものもあった。筆跡からして、全て同じ人物が書いたものらしい。

 

(武器を作る人だったのかな?)

 

 この部屋に居た人は、石や金属から色々な武器を作っていたらしい。成功した道具、失敗した道具……沢山の記録を書き残していた。

 

(こっちの箱は?)

 

 部屋の奥にある木箱は、木が腐って崩れ、錆びた金属の枠が上に乗っていた。

 木片をどけてみると、下から黒い仮面が出てきた。

 

(動物? 狼かな?)

 

 狼のお面のようだった。三角の耳があり、尖った鼻が前に突き出ていた。顔の上半分くらいを覆う半面で、口元は隠れない形をしている。耳のところと、口がある辺りを縁取るように金色の模様が描かれていた。

 

(……こんなところに、お面? でも……)

 

 拾ってみると、つるりとした磁器のような手触りで裏側にはびっしりと模様が刻まれている。ただ、お面にしては、目の部分に穴が開いていない。実際に被ることのない飾り面なのだろうか?

 

(この部屋の人の……仮面?)

 

 レインには少し大きかったが、大人が着ける面にしては小さい気がした。

 他に何か無いかと見回すが、朽ちた棚や寝台があるだけで価値がある物は無さそうだった。

 

(こんなお面がすごい物なの?)

 

 王冠を被った骸骨は、すごい物があるようなことを言っていたが……。

 レインは、お面を抱えたまま周囲を見回した。

 

(ぅ……)

 

 背後に何かの気配を感じた。

 慌てて振り返ると、部屋の中央に、淡く光る人影らしきものが揺らぎ立っていた。ぼんやりとした霞のような希薄さで容姿などは分からないが、なんとなく女のように見えた。

 

(……ひっ!?)

 

 レインは、悲鳴を呑み込むのが精一杯で、凍り付いたように動けなくなった。

 

(えっ?)

 

 怯えるレインの前で、淡く光る人影がゆっくりと手を動かして壁の辺りを指した。

 

(壁……しかないけど?)

 

 光る人影を横目で見ながら、崩れた本棚の近くへ行くと、床の一部が淡く光り始めた。

 

(ここ?)

 

 人影を振り返りつつ、レインは光っている床板に触れた。

 

 途端、指で触れた床板が光を放ち、

 

 

 ……カチンッ!

 

 

 どこかで小さな金属音がした。

 

(ぅ……わぁ)

 

 ぎょっと身を強張らせたレインの目の前で、壁の一部が引き戸のように横へ移動していった。

 そこに、身を屈めれば入れそうな狭い入り口が現れた。

 中は真っ暗でよく見えないが、大人が入れそうな広さがあった。

 

(何もない……みたいだけど?)

 

 じっと闇に目をらしていたレインだったが、ふと物音に気づいて背後を振り返った。

 

 淡く光る人影も、レインと同じように部屋の外を振り返っていた。

 

(外から……何かが来る)

 

 回廊側から、チャッチャッ……と硬い音が床を掻きながら近づいてくる。

 光る人影がレインに向き直って、狭い入り口を指さした。

 

(……行くしかない)

 

 レインは、壁面に現れた入り口に入った。隠れる場所は他に無かった。

 わずかな間を置いて、壁面が元通りに閉じた。

 

(ここ、どうなって……)

 

 レインは左手を伸ばして、暗闇の中を探った。

 

(えっ……)

 

 不意に、足下が明るくなった。

 慌てて見下ろした床面に、白い模様が無数に浮かび上がり、淡い光を放ちながら移動してレインを中心に円を形作った。

 

(こ、これって……)

 

 慌てたレインが逃げ場を求めて後ろの壁面を振り返った。

 瞬間、眩い光の円柱がレインを飲み込んだ。

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