あなたの一番が私じゃなくてよかった(完)
あの同僚の人への感謝を伝えた日、ひな子は退職届を提出した。目に見えて体調が悪化し標準の労働時間を座って過ごすことと、通勤で電車に乗ることさえ吐き気を催したことで困難になったからだ。いつ退職してもいいように引継ぎは全て資料にまとめてあったので、全く問題なく翌日には会社に行くことがなくなった。
家にいても一日中寝ているかトイレに籠っているかでひな子は食事もすでに止めていたが、樹への報告は続けていた。彼との約束だったから彼女の性格がそれを破ることを拒否したからだ。ほとんど気力だけでぼやける視界の中文字を打っていた。おかしな文面になっていることも彼女にとっては承知の上だった。
声を出すことすらも辛く、寝台の上でただ時が過ぎるのを待っていた。そうして、目が覚めて暗い見慣れた天井を見るだけで安堵した。時計も見ることができなかったが、樹からの連絡は決まった時間にやって来るので常に充電器と接続している携帯が鳴って時間というものを彼女に知らせた。それと、閉め切ったカーテンから漏れる光もまた重要なものだった。
食べず、飲まず、携帯から聞こえるバイブ音だけをひな子は聞き続けた。すでに、彼女の中で覚悟は決まっていたのと、余命宣告に対して尊敬の念すら覚えたほどだった。彼女の余命宣告された時とほぼ同時期にこんな状態になっており、それが覆されるのは映像の中だけだったと彼女の中で最後に学んだことだったかもしれない。
もう終わりが見えてくる中、騒音が近くで聞こえて来たのでひな子は瞳だけでそちらを見た。男女の話声が聞こえ、どちらも聞き覚えがあるように思えた。目は悪くなったが、耳の機能は正常に働いていたようだ。
ガチャガチャ、ガチャン
鍵が開く音がしたと思ったら扉が開かれた。調子が悪化する前はドアロックをかけていたのだが、帰宅してすぐに寝込んだことで施錠しかしていなかった。
「ひな子!」
扉が開くと同時に飛び込んできたのは樹だった。彼は駆け寄ってきてひな子の近くに座り、その後ろには女性の管理人の姿があり、彼女は驚いていて玄関先から一歩も動けないでいた。
「ひな子の意思は尊重するけれど、病院には行きましょう。もう、こんな状態で一人暮らしはできない。病院には話をつけてあるからもう大丈夫。」
樹の言っている意味が分からない。ただ、彼が自分を移動させようとしていることはわかったひな子は抵抗しようとしたが力が入らなかった。樹はひな子を布団に包んで抱え上げて管理人といくつか言葉を交わした後に車にひな子を乗せた。すでに、ひな子は気を失っていた。
目が覚めたらすぐに病院だとわかった。以前、倒れた時に運ばれた経験があったから匂いや風景や音を覚えていた。
「ひな子、大丈夫か?声が出せそうなら返事をしてほしい。無理なら首を振ってほしい。」
「大丈夫です。」
久しぶりに出した声はひどく掠れていて老婆のようだったが、樹は全く気にした様子がなかった。それどころか、返事をしたことに安堵していた。点滴は栄養剤であると説明を受け、すでに治療も間に合わないことが告げられた。その時、樹の顔は冷静に見えたが、声がわずかに震えていた。
あと、数日で終わるのだと。
ひな子はすでに覚悟をしていたからか涙すら流れず、自然と後悔がなかった。ただ、樹に対してそのあとの兄二人への連絡を任せることだけはそれに近い感情が沸き上がり、先に彼に謝罪した。すると、彼は首を横に振った。
「気にすることはないよ。これでも医者だからそういうことには慣れているんだ。」
その言葉に彼女の体は楽になった。
夜になって、病室が暗くなりドアが開く気配がした。定期的に看護師や樹がやって来るのでそれだと思ったが、足音が確実に異なっていた。まるで会社員のそれだった。電気をつけることもままならないので、明るい場所でも困難なのに、暗い室内では人の判別などできるわけがなかったし、瞳しか動かせない状態ではわかるはずもなかった。
「ひな子。」
名前を呼ばれたことに懐かしさを覚えた。
最後があんな喧嘩ような場面では後味が悪かったが、彼、和樹はすでに頭が冷えたようでひな子は安堵した。
「和樹さんがいらっしゃるとは思いませんでした。」
「そうだろうな。悠人さんたちにも伝えていないのか?」
彼は距離を取ったところから話をつづけた。病気で弱ったひな子の姿を見たくはないのだろう。元妻のことなど本当は彼が気に掛ける必要がないのだ、とひな子は考えつつ頷いた。
「そうか。いつからなんだ?」
「そんなことを知ってどうするのですか?」
「それもそうだな。」
ひな子の疑問に和樹は自嘲するような声音でつぶやいた。
「俺はお前のことを知らなさ過ぎた。あれだけの時間を共にしたのに。」
「気にすることはないです。そういえば、あの時の方と結婚するそうですね。おめでとうございます。」
「母さんか。」
ひな子は心から祝福した。和樹の推察通り彼から詰られた翌々日ぐらいに彼の母から連絡があった。”理想の嫁”ができたことをまるで自分のことのように喜んでいた。珍しく絵文字がいっぱいだったから、彼女の感情が如実に表れていた。
「ありがとう。職場でも親族からも言われた。」
「そうでしょうね。」
あの見栄が生きがいの
「患者への面会時間は過ぎていますよ。」
しばらく間があいていると、扉が開いたと思ったら樹が和樹に対して注意をした。病院はコロナ流行から面会時間への制限が厳しくなったことをひな子は思い出した。自分のせいだと謝罪しようとしたのだが、起き上がることはできず、和樹が歩く方が早かった。
「この間の。」
「はい、初めまして、彼女の主治医です。」
「私は彼女の知り合いです。見舞いに来たつもりが長居してしまいました。申し訳ございません。」
「そうですか。彼女は体力が落ちており、睡眠が何より大切ですからもうお帰りください。」
「はい。」
和樹が謝罪して帰ろうとしたのでひな子は掠れる声を精一杯出した。
「あなたの一番が私じゃなくてよかった。どうかお幸せに。」
それだけで疲れがピークに達し瞼が重くなった。和樹に届いたのかどうかわからない。彼は返事もせず、ただ扉の開閉だけが耳に届き、ひな子は安心して流れに身を任せた。
最後は樹さんが近くにいて手を握ってくれていた。見なくてもわかるほどに指の長い少しだけ男性らしい骨ばった手が自分の手を包んでくれた。
「最期にあなたが傍にいてくれてよかったです。私は恵まれていました。」
それだけ言うことが精いっぱいだった。
心臓がどんどん小さくなっていくのを感じた。目はもう真っ暗闇で何も感じなかった。
ピッ
ピッ
ピッ
ピーーーー
ひな子の心臓は完全に停止した。
あなたの一番が私じゃなくてよかった ハル @bluebard0314
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