ありがとう、素敵な仲間たち
目を覚ましたひな子は天井が知っているものではないことに驚き、慌てて起き上がる。
「目を覚ましたね、良かった。」
声をかけられて驚きそちらを振り向くと、そこには白衣を着た樹が立っていた。ひな子は状況がわからずに目を躍らせていると、彼は苦笑しベッドの近くの丸椅子に腰かけた。
「ここは病院で、ひな子、君は倒れたんだよ。精神的に追い詰められていたんだよ。病気のせいもあるけれど。」
「そうですか。」
「君の元夫は連れて来ていないから安心して大丈夫。」
ひな子が一瞬扉の方を見ただけで和樹なりに察したらしく、そして、それが的を射ているので彼女は目の前の彼が読心術の使い手のような気がして腰を引いた。しかし、彼の言葉に安心したのも彼女の本心だった。
「倒れたのは覚えている?」
「ぼんやりと。名前を呼んだのはあなただったんですね、樹さん。」
彼の声が覚えている声と重なってやっと合点がいった。樹は頷いて微笑みを浮かべた。
「あの時はちょうど近くにいたんだよ。父さんに飲みに誘われていたからね。この年齢になっても父さんは息子と飲みたいらしく、結構誘ってくるんだ。困ったものだけど、今回は感謝しているよ。おかげで、倒れた君を早く病院に運ぶことができた。地面に寝かせるなんてできないからね。」
彼があの場に居合わせた理由を知ってひな子は申し訳なく思った。
「すみません、親子の機会を失わせてしまって。私から今度謝罪を改めてしようと思います。」
「必要ないよ。ちょうど、父も来る途中で君が倒れたのと元夫がオロオロとうろたえているのも見ていたんだ。なんだったら、”医者なんだから人命を最優先にしなさい”って激励を受けたほどだからね。君から謝罪された方が父は戸惑うと思うよ。それよりは感謝を伝えてほしいな。」
「わかりました。」
謝罪をし過ぎて相手を不快にさせることはひな子にとってはよくあることだった。その際の解決法を彼女にはなかったのでたいていはそのまま疎遠になることが通例だったが、樹に言われて初めて回避方法を得たのだ。
『謝罪よりは感謝を』
ひな子の心の中に響いた言葉であり、名言だった。
「私、家に帰れますか?」
「もちろんだよ。ふらつきがないのであればね。」
「よかったです。明日のこともありますし。」
「明日?」
部屋の壁掛け時計をチラッと見てホッとしたひな子がこぼした言葉に樹が反応した。彼が会社関係者ではないことが救いであり、話しても父親に言うことはないとひな子は腹を括った。
「そんな大それたことはしないんですけど、同じ経理の人たちに仕事で迷惑をかけているので感謝を気持ちを伝えようとメッセージ入りクッキーを送ろうと思って帰宅してから作るんです。」
「とてもいいことだし、十分すごいよ。クッキーを作れるんだね。」
「簡単なものなら。最近は全く料理をしなくもていい体になってしまって腕が落ちているかもしれませんが頑張ります。それに生地はすでにできていて後は焼くだけなんです。」
「それなら大丈夫かな。睡眠を削るのはあまり良くない。特に君のような病人には。」
「はい、分かっています。」
まるで、母親のような口調で樹が言うのでひな子はおかしくなったが、それでも心に留め置いた。
「会計をして帰ります。」
「送っていくよ。まだ飲酒前だから問題ないし、病院に車を置いて帰らなくて済んだからね。」
「あの、」
「気にしないで。行くよ。」
樹の懇意を断ろうとしたひな子の言葉は遮られ、彼に手を握られてそのまま病室を出た。和樹とは違う全く痛みを感じない包み込んでくれているような温かさが心地良く感じた。手を引っ張られている間にわずかに見えた手首に残る赤い痕にひな子は一瞬驚いたが見て見ぬふりをした。長袖の季節なので人から見られることはないのだから。
「自宅で大丈夫?」
「はい、大丈夫です。」
「何も買わなくて平気?」
「私が住んでいる下がコンビニなので問題ないです。」
「そうだったね。」
車を走らせながら樹とたわいもない話をした。穏やかで平和な時間だった。こんな時間があとどれだけあるだろうか、とひな子は夜の風景と満月を見ながら思った。
それから、ひな子は帰宅してクッキー作りに邁進した。だいぶ、帰宅時間が予想よりもオーバーしていたので色々と慌てていたが、生地まで作っておいたのは正解だったと過去の自分を褒めていた。
「うん。こんなもの。」
ひな子は出来上がったラッピングとクッキーを見て満足した。
”ありがとう、経理の仲間たち”
クッキーに入れた文字だった。
一人一人に配るのに変わった文字だったが、でも、これしかひな子には思い浮かばなかった。なんといっても学校での美術系統の表は全ての評価で一番悪く5段階の2だったから。自分なりに上手に入れられただけで奇跡だった。
翌日の会社の昼休みに、社員がいなくなったことを見計らって配り終えてから、ひな子は何げない顔で昼休みも仕事をしていた。体調不良の波がいつ襲ってくるかわからないので仕事ができる時に彼女はしていたのだ。
昼食を終えた社員たちは帰って来てクッキーを見つけると笑っていた。
「美味しそうなクッキー。」
「本当だ。しかも、文字入り。」
みんなが喜んでくれた顔を見れただけでひな子は嬉しかった。そして、まだ、ここで働きたいと思うようになったのだが、刻一刻と彼女の体が弱っているのは自覚があった。
余命宣告で告げられた期間まであと10日
ひな子はそろそろ自分の行く道を決めないといけなくなった。
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