元夫の襲来
ひな子はここ数日、恩返しをするための準備に追われていた。
経理の仕事は会社のお金の管理にあり、会社はお金が常に動く場所なので日々業務があった。ひな子はその振り分けられた業務をこなすのだが、その一方で準備を着々と進めた。疲労は病気に蝕まれている彼女の体には毒だとわかっていたが、これが最期だと彼女は自分に言い聞かせて、休憩時間や帰宅後に家での時間、トイレに籠る以外の時間は全て使った。
そうして、やっと準備が終わったひな子は経理の全員にメールを一通送った。
”明日の出勤時に机の上には小さな包みが置いてあるはずです。皆さんへの恩返しですので、楽しみにしていてください。”
それから準備を確認して会社を出た。
翌日のことで彼女の頭の中はいっぱいであり、幸福が詰め込まれていた。
「ひな子。」
会社から駅の方面に歩いていたところに声をかけられた。久しぶりに聞いた声だったがすぐに誰か気づいたので声の方に顔を向けることはなかったものの、無視もできずに立ち止まってしまった。
「ひな子、久しぶり。こんな時間に会うなんて珍しいな。」
彼、元夫の和樹は朗らかに以前と同じ調子で言った。
和樹の職場はひな子の職場から離れており間違ってもその最寄り駅を通ることをなかったし、いつも夜中にしか帰宅していなかったのでこんなに早い時間に外に出歩いていること自体が彼女にとっては変な感じだった。
「お久しぶりです。」
・・・・・
元夫婦の間でどんな会話ができるのか、とひな子は考えてしまい、和樹も黙っていたので変な間があいてしまった。それに、通常は離婚してまだ1カ月ほどしか経っていない状態でいつも通りに声をかけられるわけがないだろう。
違和感しかない状況だからか、ひな子は冷静に頭を保つことができ、よく見ると和樹の様子がおかしいことに気づいた。彼の顔は疲労感が表に出ていて頬の部分が少しだけこけているように見えた。ほんの小さな変化なので第三者からは分からないかもしれないが、これでも数年ほど彼の近くにいたからひな子は気づいた。
「元気そうでよかった。今帰りなんだけど、ごはんでも食べないか?」
「え?」
突然の誘いにひな子は戸惑いを隠せなかった。
和樹がこんな風に誘ってくるのは初めてではないか、と思うほどだった。それも離婚した後に言われるとひな子の中には怒りではなく疑問ばかりだった。
「これから用事があるのでお断りさせていただきます。では、さようなら。」
会釈してひな子は退散しようとしたのだが、和樹が逃がさないと意思表示をするかのようにひな子の手首を強く握った。その痛みに彼女は目をつぶり眉間に力が入ってしまった。しかし、その変化でさえ彼は気づかないようで全く力は緩まず、手首がギシギシと音を立てそうだった。
「ひな子、逃げるな。お前を傷つけるのは嫌だから頼むから逃げないでくれ。」
手首に伝わる強さとは正反対に彼の声は驚くほどに弱弱しかった。ひな子は首を縦に振りようやく和樹は安心したのか力は緩めてくれた。
「お前にこんな風に接するのは間違いだとわかっているけど話だけはさせてくれないか?もう一度話をしたいんだ。」
どんな話なのか、ひな子には全く分からなかったが、彼女にとっては悪い体調を押してまでのことではないことだけは確かだった。それでも、彼の言葉には頷くほど彼女に選択の余地はなかった。なぜなら、彼の手にはひな子の手が握られていたからだった。そして、彼もそれを承知しているだろう。
「そこのお店でもいいですか?私は明日少し忙しいので。」
ひな子は最後の悪あがきとして店内がガラス張りで丸見えの喫茶店を指定し、それに和樹も頷いた。
それから、二人は喫茶店に入りひな子はホットティー、和樹はブレンドを頼み席に向かい合って座った。運ばれてきた飲み物は湯気が上がっていて熱さが滲み出ていた。この喫茶店は会社から近いこともありひな子はたまに飲み物をここで買っていたことがあった。特に紅茶は店主が自分で買い付けに行きブレンドをするこだわりがあり、香が濃いのでひな子のお気に入りだった。
「和樹さん、本当に明日は時間がないので本題に入ってください。」
ひな子は自分でもせっかちだと思ってしまうが、明日のことを思うとおちおちこんな場所でまったりとしていられないのだ。いつもマイペースでこれほど焦っている姿を見たことがなかった和樹は驚いていた。
「そんなに俺と居たくないか。」
そして、恐ろしいほどの勘違いをしていた。
確かに、ひな子も離婚して時間が経っていない二人でこんな風に向かい合ってお茶をしている姿は普通ではないと思うが、和樹と座ってお茶を飲むぐらいなら問題なかった。彼に対して嫌悪感を抱いていなかったことが大きいだろう。
「いえ、そうでは・・・。」
「わかった。お前の言う通り本題に入る。」
彼はひな子の話を途中で遮って話し始めた。
「もう一度、やりなおさないか?」
本題でもここまで直球に言うのは和樹らしくなかった。いつも、相手に言わせるために職業病のような言葉を駆使する、ひな子にとって彼は”ダンタリオン”のような男性だったから驚いた。
それから、彼は言いにくそうに視線をそらして少しずつ言葉を吐き出していた。
「確かに俺はお前を裏切った。ただ、それはお前が他の男と歩いていたのを見ていてお前にも俺と同じ思いをしてほしかったからだ。でも、それは超えてはいけない一線だった。今ならわかるはずなのに、あの時は頭に血が上っていたんだ。それに、俺の親族や友人らがお前に対して少し態度が悪いことは知っていたが、母親までがそうだとは知らなかったんだ。それも、母親が俺とあいつを結婚させようとしていたなんてことも全く気付かなかった。」
くどくどと和樹は続けた。
ひな子にとっては八つ当たりの何ものでもなかった。同僚の愚痴を聞いている気分になってしまい、遠い目をしてしまった。そもそも、和樹の話にある親族や友人らの態度の悪さは決して彼が言う程度ではなかった。遥かに悪い方だった。あのおかげで、兄夫婦に多大なる迷惑と精神的痛みを与えてしまったのでひな子は全く彼らに顔を合わせることができなかった。
ひな子は聞く気もなくなり、すでに冷めてしまった紅茶を一気に流し込んだひな子は席を立ちあがった。
「もういいです。和樹さん、私はあなたと今後関わる気はありません。その決心は今確実なものとなりました。私たちは結婚なんてするべきではなかったんです。」
ひな子は強い足取りで出入口に向かって歩いていった。途中で紅茶の分の支払いのみを済ませて。
全く反応できなかった和樹に捕まったのは喫茶店から出たところだった。
「俺はお前を離す気なんてない!お願いだから、もう一度やり直させてくれ!」
ひな子が頷くまでこのセリフを聞かせ続けるのだろう。
頭脳明晰で容姿端麗が服着て歩いている和樹は失敗という経験をしたことがなかった。だから、ひな子に対してもいつもどこか上から目線だったことを彼女はやっと自覚した。その環境が彼女にとっては居心地がよかったのだが、あの時とは違った。
「離してください。用件はもう済みましたよね?私はあなたの提案を断りました。もう一生会わない、それが私の望みですから。」
ひな子は彼の手を引き離そうと強めに腕を振った。
その勢いのおかげで彼の手が離れたのだが、弱った体には応えたようで体がよろめき、それと同時に一気に紅茶を流し込んだせいで気分が悪くなりその場に座り込んだ。
「ひな子!」
目を閉じる瞬間、ひな子の耳に届いた自分を呼ぶ声に安心した。その声は和樹のものではなかったのに。
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