提案

 ひな子は仕事と家の往復をこなしながら食欲は落ちていく一方であり、周囲から怪訝な視線を向けられる日々を送っていた。すでに余命宣告を受けてから1カ月が経っていたので彼女自身も限界を感じていた。しかし、治療を受けることは頭になかったので、休日になると家で寝てばかりいた。


 もう空腹も感じないので家でゴロゴロとしていた。たまに、鼻血が出て貧血からか立ち眩みもあったのだが慣れたもので気にしないことにしていた。2週間ほとんど食べないから痩せた腕を伸ばして軽いアルミ製の鍋を取り出し、お豆腐とわかめでお味噌汁を飲んだ。それだけは、なぜか喉を通り吐き気もしなかったので食べ続けていた。


 ふと体調がよくて外に出てみると、真夏の朝の蒸し暑さが一気に体に降りかかってきた。でも、その暑ささえも体にはあまり効果がないようで、ひな子は半袖の上にパーカーを着ていても問題なかった。


「久しぶりに出た気がする。」


 ひな子は少しだけ軽い足取りで静かな朝の中を歩きだした。


 煩い人の声もバイクも車もほとんど通らない静寂な空間はひな子にとっては最も好ましい場所だった。なかなか、そんな場所には巡り合えないのだが、この朝の外だけはどこへ行ってもあまり変わらない。


 早朝に外で歩くことなどほとんどないのだが、それでも会社が休みの日はなるべく歩くようにしていたことがあった。いつ起きてくるかわからない寝起きが良い和樹が出張の日はなるべくそうしていた。彼がいると朝食の準備や掃除、洗濯などの段取りが必要になるため朝早くから外に出ることは困難だったからだ。


 一人になり体調が悪い日がほとんどだが、自由な時間が多いためにこうして外で羽を伸ばせた。


「いつの間にか暑くなったんだ。」


 ジメジメした空気を感じて一人つぶやいた。

 会社まで通勤しているというのに、そんなことにも気づかない自分に驚くが、今も彼女は暑さを感じているわけではなく周囲を見て暑さを察しただけだった。


 散歩といっても10分程度歩いて帰って来ただけであり、いつものコンビニに寄った。そこで、雑誌コーナーに自然と目が行ってしまい、そのコーナーには記憶に新しい人がいた。


「おはようございます。久しぶりだね。」


 にこやかに笑って挨拶をする男性、樹は雑誌を開いたままひな子の方を見た。


「おはようございます。樹さんは朝早いですね。」


 時計はまだ5時半を回ったところだった。一瞬、時間の感覚まで鈍くなったと思ったが、コンビニの時計の針が彼女の感覚が正しいことを示してくれた。


「いや、夜勤明けだったから帰りに寄っただけだよ。」

「夜勤なんてあるんですね。」

「交代制だから頻度が多いわけじゃないんだ。」


 そうですか、とひな子は相槌をうった。

 夜勤明けなら樹も立ち話は辛いはずなのですぐに別れることになるとひな子は思ったのだが、彼の顔色は全くそんな気配がなかった。


「ところで、ひな子さんは顔色が悪いね。また、あの日から痩せた?」

「それほど変わらないです。」

「そうなんだ。散歩は良いことだけど無理はしないように。」


 医者である彼に言われると説得力が違った。


「ひな子さん、まだ気持ちは変わらない?」


 唐突にひな子の顔を伺いながら樹が尋ねた。彼なりに気になっていたのだろうが、彼女の答えは変わらなかったので大きく頷いた。


「そう。でも、僕の気が収まらないんだ。こんなに近くに住んでいるのも何かの縁だと思うから辛いことがあればいつでも来ていいから。」


 ひな子は彼の気遣いの言葉に頷きながらもそれとは反対のことを内心に浮かべた。それさえも彼にはお見通しだったようだ。


「僕が訪問してもいいんだけど、それは嫌だろう?」

「もちろんです!」


 思わず、ひな子は大きな声を出してしまった。それに、樹はクスッと小さく笑い目を細めてひな子を見た。


「それじゃあ、このメッセージで毎日連絡を入れて。」


 彼は取り出した携帯で方法を説明しだした。無理やりな提案だったが、ひな子はそれぐらいならと了承した。


 こうして、毎日報告することがひな子の日々の業務に追加された。

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