新生活と遭遇

 新しい住居はコンビニが下にあるとても便利なマンションの一室だった。ひな子は入居してすぐの休日に冷凍庫がついていない冷蔵庫と洗濯機のみを購入した。すでにあまり食べられないために調理器具は必要ないと考えた。彼女の予想は見事に当たり、本当に会社でコンビニの惣菜パンをかじる程度になった。そんな生活なので体のふらつきがあるのは当たり前だったのだが、座って仕事をしている分にはまだ何も支障がなかった。


 それから次の休日に入り、休日はほとんど家から出ないようにしているのだが、金曜日に休日用のパンを購入するのを失念していたひな子は外出を余儀なくされた。一応、空腹の感覚があるためお腹に何か入れないわけにはいかなかったからだ。しかし、その感覚こそがひな子を慰めるものだった。


 コンビニに入ると、数人の学生らしき人達が漫画コーナーで笑い合っているのが目に映り、大学生の頃にそうやって和樹と立ち読みをした光景が思い浮かび懐かしい気持ちになった。本当に彼女にとっては遠い記憶で心が温かくなる思い出となっていた。恨む気持ちなどみじんも沸いてこなかった。


「秋川さん?」


 昔に浸っていると名前を呼ばれて現実に戻された。ただ、その名前が昔のままになっているので、いつも会っている誰かとは違うことはひな子にはわかったが、声の主を見ても誰か分からず戸惑ってしまった。

 同年代ぐらいの男性で和樹と同じぐらいの高身長であり、どこか浅川と似た雰囲気のある男性だった。向こうはひな子の心境を察してか、自然とヒントを出してくれた。


「覚えていなくても仕方ないですよ。一度しかお会いしていませんから、病院で。」


 それだけでひな子は理解した。

 彼がひな子に余命宣告をした医師だということに。


「お久しぶりです、先生。」


 慌ててひな子は挨拶をした。あの時は頭が混乱しており、相手の顔など覚える余裕がなかった。彼女なりに落ち着いていたつもりであっても、実際には十分混乱していたことを今になって思い知らされた。


「外では”先生”呼びはちょっと。だから、浅川と呼んでください。」

「浅川医師ですか?」

「いえ、普通に呼んでください。浅川樹ですから、下の名前で呼んでもらってもいいです。下の名前で呼んでください。僕はその方が慣れていますから。」

「それじゃあ、樹さんと呼ばせていただきます。私はひな子です。」

「では、僕はひな子さんと呼びますね。」


 空気を読んでひな子は口から流れるように自分の名前を伝えると、彼は自然と名前呼びにした。海外にいた経験でもあるのか、と疑うほどだったのだが、部長の浅川が次男が研究者として渡米したと飲み会の時に言っていたことを唐突に思い出した。

 彼の名前呼びに、ひな子は彼とは反対に自分の体温が上がって行くのを感じた。それに彼の苗字に緊張が走ってもいた。ここを逃したらいつ聞けるかわからず、それまで緊張するのは嫌だった彼女は逃すわけにはいかなかった。


「失礼なことを聞きますが、樹さんは親戚にI商社にお勤めの方がいたりしますか?」

「父が勤めています。確か経理とか。」


 やっぱりか、とひな子は愕然とした。

 部長の浅川が言っていた”次男”が彼だということでひな子の頭ではつながった。


「どうしましたか?」


 ひな子の様子を気にした樹が近づいてきたので、その分だけひな子も下がり、両手を彼の前にかざして静止を意図した。


「えっと、大丈夫です。少し自分の鈍感さに情けなくなっただけですから。」


 ひな子の説明に樹は首を傾げた。

 自分の父親がひな子の上司とは彼も考えないだろう。


「ひな子さんとこんな場所で会うのは初めてですね。」

「この上のマンションに借りたので。」

「そうですか。それはとても便利ですね。僕は向かいのマンションなんです。このコンビニはよく利用します。」

「そうなんですね。便利ですよね。私も最近はここを利用します。」


 ひな子はにこやかに話しかけてくる樹に苦笑いで応えた。


「ひな子さんはこれからお昼ですか?」


 樹からの質問が急に近い時間のことになると、ひな子の中で黄色信号が鳴りだしたのだが、彼女は気づかないふりをした。


「そうですね。家に帰って食べようと思います。」

「そうなんですね。僕も買うので近くの公園で一緒に食べませんか?って、旦那さんがいるからそんなことをしたらまずいですね。」


 樹が申し訳なさそうに言うので、ひな子は手を振って彼の誤解を解いた。解く必要などなかったのだが、ここで彼女の真面目な性格が出てしまった。


「いいえ、先日離婚したので問題ないのですが、食事は一人でゆっくりしたいタイプなんです。」


 ひな子が言うと、彼は驚いた顔をするとすぐに顔をしかめた。


「ひな子さんは今一人なんですか?」

「そうですね。」

「だから、そんなに痩せたんですね。とりあえず、僕と一緒に食べましょう。僕の家で構いませんから。医者と患者としてですから、警戒しなくても大丈夫ですよ。」


 彼は少し強引にひな子の腕を引っ張り、昼食を買うのに彼が二人分の支払いをした。止めようとしたのだが、ひな子が口を開けるような場面ではなかった。


 樹に引っ張られるようにして彼の家に行くと、モデルルームのように片付いていた。彼が住むマンションとひな子が住むマンションでは賃貸料は倍以上異なっており、その分広さが違っていた。

 広々とした室内にひな子は目を白黒させたものの、ダイニングテーブルの席に着いたひな子の前に樹が買ってきたコンビニのごはんを並べ前に座った。


「食べられるものだけ食べてください。無理をする必要はありませんが、食べられるうちに食べないといけませんから。気分が悪くなったらトイレに行って構いません。」


 樹が白血病の専門医だと感心した気遣いにひな子は逃亡を諦め、惣菜パンに手を伸ばした。ミニクロワッサンは油がきついので、サラダが挟まったロールパンがひな子の中で今の人気パンだった。


「おいしいですか?」

「はい。」

「それはよかった。」


 樹は安堵したように笑った。

 そんなにも心配をかけていたことにひな子は狼狽して不思議に思い、こんなに近所に住んでいることを知ってもうすでに引っ越しを考えたい気分になった。しかし、今の体調ではそんな行動を実行できないことは彼女自身が一番わかっていた。


「それで、ひな子さん、体調はどうですか?」


 昼食が終わると、樹からの問診尋問が始まった。


 素直に全て吐き出したひな子に樹はため息を吐いた。


「今後調子が悪くなったら連絡をください。家族に迷惑をかけたくないなら、移植の申請を出して順番待ちですが可能性はありますから。」

「いえ、特に治療は望んでいません。」


 頑なにひな子は樹からの提案を断った。


「どうしてそんなに頑ななのですか?」

「私は自分の人生を決めているだけです。自由ですよね?治療は。」

「それはそうですが。あなたはどうしてそんなに治療を受けたくないんですか?」

「死ぬ時ぐらいは安らかでいたいんです。誰にも迷惑をかけず。それに、治療は辛いじゃないですか。それよりはこういう街で少しの苦しみだけを受けて逝きたいんです。」


 ひな子はカーテンから差し込む光を見つめた。その光に毎朝起こされることが多いが、窓が反対なのでこの部屋は昼に差し込むことが不思議だった。


「ひな子さんは夢ってありますか?」


 唐突に樹が問いかけた。その言葉は本当に唐突ですでに時間が区切られている相手には不誠実だととらえられても仕方なかったが、ひな子にとっては普通の人のようで嬉しかった。


「夢ですか。昔は世界中をカバン一つで歩いてたくさんの食材を知ることでしたよ。こう見えて好きだったんです、料理。」

「素敵ですね。僕も世界中の人の病気を治す医者になることなんです。みんなには理想論だと嗤われますが、僕は絶対に叶えたいんです。」


 ひな子はすでに夢が過去になってしまったが、樹は今も歩いている最中なんだとわかった。その違いは言葉では小さな違いに聞こえるが天と地の差だった。


「だから、僕はあなたの病気だって治したいんです。」

「私には関わらないでください。その夢は私以外で叶えてください。」

「いいえ、僕は誰も見捨てたくありません。」

「あなたは見捨てたのではなく、私が拒否したんです。つまりはノーカウントです。」

「そんなことはありません。」


 平行に続く質問と返答の応酬に切りはなく、結局ひな子が立ち上がるまで続いた。


「本当に私には必要ありませんから!」


 ひな子は言うやいなやダッシュで自分の家まで帰った。足を動かしたもののここ1カ月ほどで急激に落ちた体重と比例してパワーや体力は失われたのでスピードはほとんど出ていなかっただろう。しかし、それでも樹が追ってくることはなかった。


「本当に放っておいて。もう十分なんだから。」


 ひな子はベッドの上に体を投げ出し、顔だけ上げるとベッドの横にある小さなテーブルに立ててある一枚の写真が目に映り安心して眠った。


「お父さん、お母さん。」


 両親が生きていて悠人と瑛斗が笑っていてひな子自身も笑っている最後の写真だった。人気テーマパークに行った時の写真で家族で撮ったのはこれが最期だった。


「私は二人の一番じゃなかったらよかったのに。」


 寝言でひな子は呟き、それと同時に彼女の目から涙が流れていた。

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