離婚宣言と和樹の言い訳
ひな子が帰宅すると、平日なのに珍しく和樹の方が早く帰っていた。珍しいというか、初めてのことだった。
「ただいま帰りました。」
「お帰り、ひな子。」
和樹は玄関までやって来た。
凛々しい顔つきの彼が笑って迎えてくれた様を見てひな子も笑った。
(やっぱり、あの時の女性の方が似合うな。)
彼を近くで見るとさらに感じてしまうのは二人の落差だった。
「夜ご飯作りますからちょっと待っててください。和樹さんがそんなに早いなんて思いもしなかったので何も準備をしていませんでした。」
確かに、遅くなるとは朝に言っていなかったが早くても彼の帰宅は9時を回っていたためにその予定でいたのだからひな子は驚いていた。
「そんなに慌てなくていい。今日、お昼が遅かったから遅くても構わない。それより、久しぶりにゆっくり過ごせるからひな子と時間を過ごしたいんだけど。」
「和樹さん、私は空腹なので先に夜ごはんがいいんです。和樹さんは後で食べてもらっても構いませんから。」
和樹が伸ばしてきた手をさりげなく避けて彼の横を通ってリビングに入った。それから、彼が用意してくれた私の部屋にカバンと上着を置いてキッチンへと向かった。先ほどの小さな拒絶に和樹は気づいていないようで、あまりこちらを責める気もなくダイニングテーブルの席に着いてひな子の方をじっと見ていた。
今まで彼と一緒に平日の夜ご飯を食べた記憶があまりないうえに、食欲不振であまり食べられなかったので夜は少なめにしていた。ここで彼に気づかせるわけにはいかないので、彼には男性用の普通盛りでひな子にも普通盛りで準備した。多めにしても残れば、次の日にひな子の弁当になるので問題なかった。
夜ご飯のメニューは塩唐揚げとお味噌汁、ほうれん草のお浸しとなすの煮びたしとごはんにした。料理をしている時に立ちくらみはしたが、自然な動作で気づかれないようにカバーした。
「ひな子の料理は久しぶりだな。休日も関係なく忙しかったから。」
「そうですか。ごはんはもう一杯分はありますから足りなければ言ってください。」
「ありがとう。」
二人で夜ご飯を食べた。
ひな子にとっては夫婦の最後の晩餐にはふさわしいと思い、唐揚げも自分の得意料理だったから決めただけだ。最後の最後に不味い料理は記憶に逆に残りそうだったので嫌だった。それよりは普通の料理ですぐに忘れてしまえる料理にしたかった。何も普段と変わらないものに。
「美味しかった。」
和樹のその言葉が嬉しかった。昔、家事担当はひな子だったから、この言葉を悠人が良く言ってくれて、たまに瑛斗も言ってくれた時の思い出がなぜか彼女の頭に走馬灯のように駆け巡った。とても心が高鳴ったのを覚えていた。
「もう食べないのか?」
箸が止まっていたひな子を怪訝な顔で和樹が見てきた。それに慌てて箸を下ろしたひな子は苦笑した。
「なんだか、和樹さんの食べっぷりを見ていたらお腹いっぱいになりました。おそまつ様でした。」
「ごちそうさまでした。」
ひな子はすぐに食器を片付けて、余った料理は全て弁当箱に詰めた。明日分の弁当箱だが、明日がここで迎えられることはないと読んでのことだった。食器を洗い終わると、和樹がひな子を待ち構えていたかのようにすぐに抱きしめてきた。そのぬくもりを感じたのはもう遠い記憶の中であり、ひな子にとっては気持ち悪さしかなかった。それが、和樹のことを知ったからなのか、それとも、病気のせいかは分からないが、それでも、彼女にとっては耐え難いものであるには違いなかったので、すぐに彼の胸を強く押すと彼は手を放してくれたので助かった。
「和樹さん、お話があります。」
「なんだ、改まって。」
「とりあえず、そこに座ってください。」
ひな子が示したのは先ほどまでのテーブル席であり、先ほどの食事の時と同様の席になった。
「和樹さん、私はあなたと離婚します。」
「は?」
ひな子は座ってすぐに宣言した。これは確定事項であり、もう二人の関係性を戻すことはできないという意思表示だった。和樹は顔を歪めて馬鹿にするように笑った。
「何を言っているんだ?そんな簡単に離婚なんてできるわけがない。」
「そうでしょうか?これでも、でしょうか?」
ひな子が出したのは携帯で、例の写真だった。
男女が腕を組んで歩いてホテルの中に入っていくシーンがバッチリ映っており、それを見て和樹は驚いた顔をした。
「私もあの辺に居たんです。あなたの帰りが遅いので外食をして帰り路に偶然見つけました。そういう行為がなくてもこういう写真が残っていれば十分証拠になりうるそうです。弁護士のあなたが一番わかっているかもしれませんが。」
「そうだな。確かに、これは立派な証拠だな。それで、離婚するのか?本当に。」
「はい。私は離婚します。こちらが書類です。書いてください。」
先ほどの穏やかな食事の雰囲気などあっという間に飛んでいき、冷たい空気が部屋に充満した。
ひな子が準備した離婚届にはひな子の名前などがすでに入っており、あとは和樹の名前が入れば受理可能な状態だった。
「私が提出しますので和樹さんの手は煩わせませんから、記入をお願いします。」
ひな子はボールペンをテーブルの上に置いた。1日で準備したにしては上出来だと彼女は思った。
「俺と離婚したらひな子は住む場所がないんだ。義兄さんのところには行くのか?」
「いいえ、ホテルもありますし、どこか賃貸に住みます。あなたより稼ぎは少ないですが、十分一人で暮らしていけますからご心配には及びません。」
「ひな子、お前の稼ぎが少ないなんて思ったことはない。だが、離婚を俺の両親もお前の家族も望まない。」
「あなたの両親からは承諾されていますし、兄には説明すればわかってもらえます。」
「承諾?いつの間に。」
驚いた声で和樹は言った。
彼の前ではひな子を褒めちぎる母親がまさか裏でひな子の両親がいないことや容姿など職業と学歴を除くもの全てを貶していたとはさすがに知らないだろう。ひな子も今でも教える気はなかった。
「これがあなたのお母さんから来たメールです。」
そこには和樹の母である真紀子からの全く心のこもっていない文字の羅列が入っていた。
”離婚するならもっと早くしてほしかったわ。2年も経って子供もできない出来損ないのあなたに和樹はもったいないと思っていたの。それに、その写真の相手は和樹の相手にと思っていた弁護士であなたより気立てがよくてうちの夫も気に入っている子なの。家柄も・・・・・・。”
もう読むのに疲れるほどに相手の自慢話ばかりだった。あまりに低能な母親のメールの内容に和樹は頭を押さえた。前準備として彼の両親、それも母親のほうに離婚の連絡を入れたのは正解だった。これはひな子の作戦でもあった。彼女にとって義母を操ることなど造作もなかった。相手の望みを叶える形なのだからなおさらだった。
「これでわかっていただけましたか?記入をお願いします。」
「ひな子、俺ばかり責めるのはやめろ。お前が結婚してすぐに男とデートなどしていなかったらこんなことをしなかったんだ。」
「デート?」
和樹とデートをしたのは手で数えるほどであり、男性とのデートはそれぐらいだったから彼の言葉の意味が分からなかった。ピンと来ていないひな子に焦れて今度は和樹が携帯で画像を出してきたので見てみると、ひな子は思わずフフッと笑ってしまった。
「それ、私の二番目の兄です。」
「兄?だって、結婚式とかその前の家族紹介の時に義兄さんしか来ていなかっただろう?」
「それは悠人兄さんと決めたんです。瑛斗兄さんはあんな自分のプライドを傷つけるような場所にはいられませんから。瑛斗兄さんは見栄に命を懸ける才能がありますからね。死ぬほどの努力をそんなことの為にできる人を私は知りません。ですが、瑛斗兄さんの性格はあの場に不向きですから、悠人兄さんと瑛斗兄さんは呼ばないでおこうと決めたんです。ちょうど他県で来るのに時間がかかりますから。」
「そんな。」
和樹はもう何も言い返すことができなくなった。すでに抜け殻のようになっていても、きっちりと離婚届にサインはしてくれた。
「慰謝料を払うから連絡をくれ。」
サインした後に和樹が言った。その目には何かへの期待が見え隠れしていた。
「いいえ、慰謝料は必要ありません。今まで住居を保証してくださっただけで十分です。あなたの為に料理したのもほとんどありませんでしたから私の懐は温かいです。慰謝料の相場は調べてみたら100万円とか200万円とかだそうで、あなたはこのマンションを購入したので十分度を超えています。」
「ひな子、俺と本当に会う気がないのか?」
「もちろんです。」
ひな子は言い切った。すると、和樹は今度こそ両手を下ろして椅子の上に寄りかかった。そこにちょうど宅配業者が来て衣服などを詰めた2箱の段ボールを引き取りに来てくれたので手渡して、ひな子は手で持てる分の荷物と書類を持った。
まだ沈んだ様子の和樹を見てひな子は笑みを浮かべた。別に皮肉の意味ではなかった。
「和樹さん、あなたは私のことなど忘れるべきです。どうか、幸せになってください。あなたにはまだまだ長い時間があるんですから。」
「まるで自分にはないみたいな言い方だな。」
「いいえ、私も幸せになります。本当に今までありがとうございました。和樹さんの一番は私ではありません。あなたの一番が私じゃなくてよかったです。本当にありがとうございました。」
ひな子は最後に頭を下げて和樹の元を去った。
その足で役所に提出した後にビジネスホテルを取って部屋で休んだ。
数回吐いたり、体が痛くなったりしたが、耐えられないほどではなかった。
「あと二日ほど耐えてくれたらいいな。」
ひな子は切に願った。
兄二人への報告がきちんと済むように。
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