会社でのこと

 会社では普通に仕事をしていた。

 ただ、以前よりも立ちくらみはもちろんだが、座っていても目の前が眩むことが多くなった。それでも、その日にやるべきことはきちんと終わらせることができたので、まだ働けることにひな子は安堵した。今後の生活にかかる費用は自分で稼げそうだからだ。余命宣告を受けたとしてもどれだけ生きるかわからないので、貯金以外の保険は必要だろう。


 金曜日ということもあり、新入社員たちは定時で帰社しひな子もまた定時で仕事が片付いたので帰り支度をしていたのだが、そこで課長である浅川に呼ばれた。50歳の浅川は本当ならもっと上の役職まで行けるほどに頭の切れる人だったが、昇進に興味がなくそれよりは早く帰れる場所で十分というタイプだったため、昇進を断り続けた強者つわものだった。


「秋川くん。ちょっと別室で話したいことがあるんだけど大丈夫かな?」


 いつもの優しい調子で話しかけてきた。いつも笑顔で優しい声の彼は周囲から”頼れるお父さん”なんて呼ばれていた。本当に二児の父親で二人ともすでに社会人で、優しくて堂々としている彼の姿に憧れを持っている人は少なくない。


「何でしょうか?浅川課長。」


 そして、その憧れを持ったのはひな子も同じだった。

 ひな子は時間があるので頷くと、二人で別室に移って向かい合わせに座ったのだが珍しく浅川は全く口を開かなかった。彼にしては珍しく何かを掴もうとしているようにひな子には見えた。


「秋川くん、以前精密検査を受けに行ったよね?」


 浅川の言葉にひな子の心臓が跳ねた。それを見逃すほど彼は甘くなかった。


「検査結果を報告していなかったから妙だと思ったんだ。何かあったのか?もしかして、結果が相当悪かったんじゃないのか?」

「いえ、どう言っていいかわかりませんが・・・・申し訳ございません!浅川課長、私はこの仕事を最期まで続けたいので気付かなかったことにしてくださいませんか?」


 浅川にはどんなにうまい嘘を吐いても見破られることは2年の付き合いだが嫌と言うほどわかっているうえに、ひな子は周囲から嘘下手と認定されるほどだったので勝ち目は皆無だった。それがわかったから、もう彼に土下座してでも頼むしかなかった。その願いがひな子の本心だったから。


 ひな子は必死に座っていた椅子から滑りこむように土下座をして浅川に頼み、彼は慌てて彼女の両肩を掴んで立たせようとした。その時、


 ポタポタ


 床に赤い斑点がつき始めていることがわかり、慌てて常備しているポケットティッシュを取り出して床を拭くのと同時に鼻を押さえた。浅川も慌てて部屋の外から箱ティッシュを持ってきてひな子を椅子に座らせた。

 鼻血が止まったところで彼が用意してくれた水を一口含んだ。


「大丈夫かい?」

「はい、大丈夫です。」


 少し目が眩むが倒れるほど大げさなものではなかったので、浅川の手助けを手を挙げて断った。彼は元の場所に戻り落ち着いた声音で重く言葉を告げた。


「こんな風に秋川くんを呼んだのは業務をいつも通りにこなしてくれているけれど、どこか辛そうだからだよ。体調が悪いなら帰ることを勧めたいが、君にしかできない業務もあったからね。人材不足に頭が痛いところだし辛そうな君には申し訳ないと謝罪したかったのと、辛そうにしている原因を聞きたかったんだ。その原因が何か思い当たることがあったから聞いてみたんだけど、どうやら私の感は当たってしまったようだ。」

「余命2カ月、だそうです。」


 ひな子は病名を言わずに医者に言われたことだけを伝えた。よほどインパクトがあったのか、浅川は言葉を無くした。


「2カ月なんて信じられないですよね。私の体はまだ普通の人とそんなに大差ないのに、こんなに短期だなんて。確かに、最近は貧血のような症状や吐き気や食欲不振なんかはありますけど、通勤にも業務にも問題ありませんし。」

「秋川くん、私にはそれを会社に黙っているわけにはいかない。君はまだ若いし、治療に専念して完治したらまた戻ってくる選択肢だってあるはずだよ。」

「いいえ、私は治療は決して受ける気はありません。もう決めているんです。それに、浅川課長、こう言ったら、あなたに呆れられてしまうかもしれませんけど、私はもう後悔は一つもないんです。甥も姪もいて、好きな人と結婚までできた。これ以上に幸福なことってないと思うんです。」

「秋川くん・・・・。」


 浅川課長は言葉が続かないようだった。ひな子は苦笑して言葉をつづけた。


「さすがに業務継続が無理だと思ったら会社を辞職しますが、それまでは続けます。生活には必要ですし。」

「いや、旦那さんが生活を支えてくれるだろう。」

「夫とは離婚しますから。」


 まさに寝耳に水だったのだろう。浅川は呆然と立ち尽くした。彼の態度を見る限り和樹に対して怒っているように見えたので、その怒りを鎮めようとした。ひな子は和樹を面倒に巻き込みたくはなかったから。


「別に夫に問題があるわけではありません。病気になりましたし、それに、元々彼の家とは仲が良くなかったんです。向こうの義母は特に私を嫌っていましたから。それらを考えたら、もういいかなって思えたんです。結婚できただけで私は幸運でしたから。」

「秋川くん。」

「浅川課長、これで十分ですか?会社には伝えていただいて構いませんが、どうか、私の意思だけは伝えてください。」

「わかった。会社には私から伝えておくけど、これから無理はしないようにね。」

「ありがとうございます。」


 浅川には感謝してもしきれないぐらいの恩がひな子にできてしまった。最後に彼に残せるものを考えることが増え、ひな子はまだまだ元気にいないといけないと思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る