お迎えに上がりました

@chromosome

第1話 慰霊

 近年、高齢にもかかわらず、今上天皇による戦没者慰霊の旅を多く耳にするようになった。それは、あたかも自己の命ある間に、激戦地を巡り御霊を慰めねばならぬとの強い思いからのようにも受け取れる。

 慰霊の前提には、我々の生きる世以外に死者の世を措定し、そこに霊が存在するという物語がある。そうであるならば、激戦地での慰霊の真の目的は、多数の人間が無意味に死なざるをえなかった事情にいたたまれぬ想いを抱くこの世の者が、自らの魂が揺さぶられることのないようするためということになるのだろうか。 

 真実は、幽冥の境にあるかも知れないが、人知の及ぶ限りではない。

 あるいは、都市伝説の類いかもしれないが、平成六年二月に、今上天皇が硫黄島を訪れ鎮魂と感謝の意を捧げると、その日を境に霊の動きが鎮まったという。一方、硫黄島と同様の状況にありながら慰霊が行われていなかった太平洋上の激戦地では、未だに心霊現象が絶えないとの噂があった。

 その一つがペリリュー島であるが、この島にも今上天皇による慰霊が行われた。

 硫黄島は、太平洋戦争時、日本本土との位置から、戦略上の重要拠点であったために、日米双方に多数の戦死傷者を出すに到った。この点で、硫黄島の戦いに比せられるものはない。戦いは、一九四五年二月一九日から三月二六日までの、約一か月に及び、日本軍は栗林中将以下、ほとんどの兵が戦死して果てた。

 日本軍は、それ以前の太平洋上の島々での戦訓に習い、地下三〇メートルの場所を長さ十八キロにも及ぶ地下壕で結び、直接戦闘を避け壕からの攻撃に徹した。だが、地下壕内は高温多湿の上、絶えず亜硫酸ガスが沸いていた。また井戸からくみ上げた飲料水には、塩分に加えて硫黄分が交じっていたことから、日本兵は、下痢に苦しまされることとなった。 

 米軍は当初五日間でこの島を落とせると見ていたが、硫黄島における日本軍の戦法は巧妙であり、思いの他の激戦となった。 米軍は、日本軍守備隊の二万二千七八六名に対して一一万の兵力を投入し、 二万八千六八六名の死傷者を出し、日本軍の死傷者は、それを下回る一万八千三七五名であった。太平洋での戦いで、唯一米軍の死傷者が日本軍のそれを上回った戦線であった。

 戦後、硫黄島は、アメリカに管理されていたのが一九六八年に日本に返還された。返還時、日本兵の遺骨収集は手付かずの状態であり、洞窟内では無数の日本兵の遺骨が終戦時の状態で残っていたという。

 その当時から現在に到るまで、数知れぬほどの慰霊がなされたと思われるが、残念ながら御霊が心安らぐことはなかったようである。

あるいは、「天皇」という最高コードによらなければ、霊を鎮めることができないとの共同幻想によるものかは、分からない。

今上天皇の慰霊以前の硫黄島は、夜になると霊の支配する島で、特に深夜、軍靴の音が次第に大きくなり、自衛隊兵士の宿舎に近づいてくることなどは、珍しくもなかったという。宿舎の窓の外には、体の一部が失われた兵士や黒焦げとなった兵士が集団となって立っているのが見られた。

 慰霊碑に供えられた水は、毎日取り替え、更に宿舎にもコップに水を入れて毎晩置かなければならなかった。火炎放射器で灼かれて黒焦げとなった兵士や銃弾を受けつつも戦闘し、衛生所に運び込まれてきた兵士は、「水をくれ、水をくれ」と言いながら死んでいった。水に対する執念はすさまじく、水が供えられなければ、霊が宿舎内に入って来たという。

 これは、以上のことを踏まえた一つの心象スケッチである。

最後の昭和となった六四年初めより、皇居は「死」という不思議な磁力を発する壮大な磁場空間となり、北は、ソ満国境、中国奥地、インドシナ半島、ジャワ、ボルネオ、ガダルカナル、硫黄島などから戦死した無数の兵の群れが呼び寄せられたかのように集まってきていた。

集結した彼らは、整然とはしていたが、ある者には腕がなく、また脚がなかった。腹部を大きく抉られている者の隣には頭部のない者が並んでいた。眼球が突出し、その虚ろな空洞から雑草がのぞいている者や骨と皮ばかりのおそらくは餓死した兵もいた。肩にかけた三八式歩兵銃や銃剣は、長い歳月により赤錆び、名も知れぬ貝殻が付着していた。

兵の軍帽は破れ、軍服は血と汗と泥で汚れていた。円匙は刃が欠け、水筒は大きくひしゃげていた。彼らは、ある方の死を見極め、かつ彼ら自身でその方と共に遠く冥界で眠りたかった。

彼らの遺体は、遠く異境の地に放置されたまま、その肉は野ネズミや昆虫に食い荒らされ、腐臭をはなって消滅した。骨もまた、酸性の亜熱帯の土壌では、その形を保つことができずに、エナメル質の歯牙や太い大腿骨を残すのみであった。

戦死公報が主のいない家族の元に送られていた。葬儀は済んでいるとはいえ、彼ら自身は、己の死を受け入れてはいなかった。彼らにとって、戦争は終結していなかった。その方の名により始められた戦争で、悲惨な死を遂げた彼らに、戦争終結の命令は下りてはいなかった。彼等は、大声で叫んだ。

「お迎えに参りました」

「戦闘行動を中止せよとのご下命を」

兵の声は、重なり反響して、皇居の廻に木霊のように響き渡った。  

 そのころ、皇居内では、医師団による懸命の治療が続けられていた。治療室には、軍医と衛生兵が入り込み、その方への治療を見つめていた。何としてでも生の世界に留め置こうという熱意と物々しい機器類の前で、軍医は、

「これほどの治療を将兵に与えるとは……」

と呟いたが、当然の如く聞こえることはなかった。あるいは、それほどの治療をする必要があるのかという問いの意味もあったのだろう。

昭和六四年一月七日午後、そのお方の心臓が停止した。皇居を取り巻く二百数十万の霊兵は、そのお方が彼らとともにあることを知った。そのお方は、己が進むべき途に気がつかないようであった。

大元帥「朕は、いずれに行くべきや」

霊兵「命在る者は生の世界へ、命なき者は我らの世界へ」

霊兵の言葉が、二重、三重の木霊となって響きあい、その興奮は、最高潮に達しつつあった。

 兵は陸続と到着していた。訓練の半ばで、輸送船に乗せられ、一線も交えることなく水浸く屍となった陸軍の歩兵達。南方の島で、玉砕を許されず、最後まで徹底抗戦を命じられた兵の一団は、草むす屍となった。兵だけではなかった。船員で徴用され、潜水艦からの攻撃により、無念の死を遂げた者、軍需工場に動員され、空襲を受けた者等々が列をなした。

「大元帥閣下、戦闘行動を中止せよとのご下命を」

「戦闘行動を中止せよとのご下命を賜りたい」

二百数十万人の兵が一斉に唱和した。

 そのお方は、気づかれた。我が名でなければ、この兵の戦争は終わらないのかと。

「戦闘行動を停止せよ」

その命令は、即座に伝達された。

「全ての戦闘行動を停止せよ」

それは、明治百年戦争の終結を意味していた。

 この国の民は、本来、尚武の風はあるが、好戦的ではなかった。ペリー来航以来、自国の安全を求めて、国際社会の中でもがきつつ進んだ結果が、このような事態を招いたのだった。

 命を受けた将校は、下級将校に、下級将校は兵に、戦闘停止を命じた。どよめきが起こった。うれしさがあった。哀しみがあった。その中で、最後の命令がくだった。

「各連隊、前へ進め」

 あのお方は、一団高いところに位置し、それら兵の行進を閲兵していた。兵は、あのお方の前を通り過ぎると、それまでの霊としての存在から次第に透明となり、その足下には、三八式歩兵銃などの無数の軍装品が、散らばっていき、ぼろぼろとくずれていった。生にいささかの未練ある兵も、徐々に影を薄くしつつ同様に見えなくなっていった。

 閲兵は日に夜を次いで行われた。いかほどの時間が流れたのだろうか、最後の一兵が、そのお方の前を通りすぎると、あのお方自身の姿がゆらいだ。大元帥を始めとして兵卒に到る者があの世へと旅だったのだ。

( 平成六年三月 脱稿)

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