第11話 終わりの始まりの終わり

(一体……何が起きているというのですか……?)


 クラリネットは異常な光景を未だに理解しきれずにいた。突然学校中が黒い何かに包まれ、周囲にいた教員や生徒が一斉に倒れ込んだのだ。


 状況からしてこの黒い何かに触れたせいだと思われるが、だとしたら何故、自分だけが無事なのかが理解できなかった。


 よく観察してみると黒い何かは自分には全く触れていないことに気付く。恐らくそのおかげで自分には被害がないのだと思い至ったが、それはまるでクラリネットを探すために学校中を包囲して、クラリネットの居場所を明確に示しているようだった。


(恨みを買うようなことは……してきたかもしれません。ですがここまで大っぴらに事を起こす者となると……相当、頭がおかしい人間かもしれませんね)


 自分一人を害すために関係の無い人間を巻き込むような奴だ。決してろくな奴では無いだろう。そう思ったクラリネットは、実行犯を見つけたら容赦はしないと決めた。


 この事態に陥ってから数分後、静まり返っているはずの学校内のどこからか、微かな音が聞こえる。


(これは……鈴の音色?)


 シャン、シャンと等間隔で鳴り響くそれは、経過時間に比例して音量が大きくなっていった。間違いなく近付いて来ている。そう感じたクラリネットは、不気味な音の正体を迎え討つために、自身に割り振られた実習室へ移動する。



———————————————————————



(ここであれば……ある程度強力な歌法を用いても建物に影響はないでしょう)




 歌法の訓練が可能なその部屋は外部の音を遮断できるような構造になっており、耐久性も高いため敵と交戦するには丁度いい場所だと判断した。


 冷静に物事を判断したクラリネットだが、やはり動揺しているのか重要な見落としをしていることに気付かない。外部の音を遮断する部屋に入ってもなお、鈴の音は変わらない音量で聞こえてくるということに。


 呼吸を整えて歌法をいつでも発動できる状態を保つクラリネット。鈴の音は直ぐ側まで近づいている。


 いよいよ敵のお出ましかと思ったとことで、今まで一定間隔で鳴り響いていた鈴の音の間隔が早まる。それはクラリネットの異常に早い動悸とリンクしているようだった。


(不気味な音ですね……早く来なさい!)


 直後、実習室のドアが開かれる。ドアが開かれた時には既に鈴の音は消えていた。


 その代わり、別の音が耳に届く。太く何重にも重なって聞こえる低い男の声だ。歌法は天才といわれるクラリネットでさえ、何の歌なのか、どういう歌法なのか、それに……何の言語なのかさえわからない未知の声だった。



観自在菩薩かんじざいぼさつ 行深般若波羅蜜多時ぎょうじんはんにゃはらみったじ 照見五蘊皆空しょうけんごうんかいくう


 声がすると同時に敵の姿を捉えた。その姿にクラリネットは驚愕する。敵が身に付けているのは響学校の制服だった。


 ということは、目の前にいるのは響学校の生徒だ。一体誰が……と思い顔を注視すると、一人の男子生徒が思い浮かぶ。


 写真で見た姿は好青年という印象を受けたが、今は何かに取り憑かれているかのようなおぞましい表情をしている。それでも間違えることはなかった。


「ルド・シスハーレ。何かに取り憑かれているですか?」


 敵は、クラリネット自身が目をかけている9つ子の兄だった。


 彼自身に響力はない。恐らくミュートかそれ関連の何かに取り憑かれている。全く世話をかける出来損ないだ。


 そう思い、なるべく手荒にはせず正気に戻してやろうと歌法を唱える。


「かっはっ……あ!?」


 だが、歌法を唱えることが出来なかった。


(声が出ない!? どうして!)


 歌法を使えなければ、あれに対処する術はない。クラリネットは焦りの表情を浮かべる。無情にも、ルドは一歩、また一歩と何かを唱えながら近づいて来ていた。


(不気味な歌です。一人から何人もの声が聞こえ、意味不明な言葉並べて——)


 そう感じたところで、クラリネットに異常が起き始めた。


 ルドが発する歌が理解できるのだ。正確には言葉がわかるわけではない。その言葉に乗せられた意味が伝わってくる。



度一切苦厄全て俺が悪いんだ 舎利子色不異空あのときみんなを残して 空不異色色即是空家を出て行った俺が悪い 空即是色俺はなんて愚かなのだろうか 受想行識亦復如是お前もそう思うだろう 舎利子是諸法空相大事なものは妹だけなのに


 脳内に響くその言葉達により、クラリネットは急激な吐き気をもよおす。


(何ですかこれは……脳内に声が……気持ち悪いっ)


 ふと、ルドと目が合った。ルドの目からは赤い血の涙が流れ、その瞳孔は丸では無い異様な形をしている。恐ろしい。これまでに感じたことがない程の恐怖を感じた。


 そして次の瞬間、ルドの姿がブレたと思ったら一瞬の後に目の前にその姿を現した。動揺していて反応できないクラリネットは、そのまま頭をルドの右手で鷲掴みにされ、5センチも間隔がない至近距離で目を覗き込まれる。


「あっがっ!?」


 こめかみに異常な痛みを感じるが、それどころではない。見られている目から脳内を覗かれているという意味不明な感覚に包まれる。


不生不滅不垢不浄せめてお前がしてきたことを知り 不増不減是故空中同じ痛みを受けることにしよう 無色無受想行識それでもまだ足りないから 無限耳鼻舌身意俺とお前の命でもって償おう 無色声香味触法それでもまだ足りないならば——


 クラリネットは、強制的に記憶を呼び起こされる。それは9つ子が初めて自分に反抗して来た時の記憶。才能の無いキュウカを棒で叩いている光景が脳裏に浮かぶ。異常なことに、記憶の中の自分がキュウカを殴るたびに。殴っている箇所に痛みを感じた。強烈で鈍い痛みだ。


「あがっ、やめっ、やべてっ」


無眼界乃至無意識界足りない足りない足りない 無無明亦無無明尽俺達の罪はこれでは償えない


 場面が切り替わり、今度はミスをしたジーコの代わりにキュウカを鞭で叩いている場面だ。キュウカの服は所々切り裂かれるように裂け、切り傷のようなものも見える。


「がはっ! やめ! しぅ!」


 背中が焼けるように熱い。刃物で切られているような感覚だ。これは罰なのだろうか。だが、何故ルドからも同じように血が流れているのか。


 狂っている。いや、狂いそうだ。いや、狂ってしまった? もう今の感情でさえも表現できないほど恐怖と狂気に心を支配され始めるクラリネット。


「ごべ、ごべんなさ——」


乃至無老死亦無老死尽謝罪などいらない 無苦集滅道無智亦無得俺もお前も謝罪などでは済まされない罪を背負った 以無所得故菩提薩埵直ぐに死んで楽になることなど許されない 依般若波羅蜜多故共に苦しんで死んでもまだ足りない


 クラリネットの心が壊れる音がした。


 この状況下で助けなど来るはずがない。自分以外の人たちは全員倒れている。そんな絶望的な状況でこの拷問。耐え切れるはずがなかった。


「あぁ……ああああ……ああああああああああ」


 もはやクラリネットに、生気は残っていない。



 ***************



「ここです!」


「実習室! ビンゴだね!」


「兄さん……!」


 クラリネットの実習室のドアを開けて中に入るイクス、ジーコ、ウド。三人が見た光景は、最悪の状況を思わせるものだった。


 ルドがクラリネットの頭を鷲掴みにし、何かの歌を歌い続けている。何故か二人の体には無数の切り傷があり血が流れている。クラリネットは狂ったように言葉を発しているだけだった。


「兄貴! やめろ!」


「兄上!」

 

 イクスとウドがルドに近づき、クラリネットを鷲掴んでいる右手を引き剥がそうとする。だが、硬く握られているその腕はびくともしなかった。


「なんだこの力! 全然はがせねぇ!!」


「諦めてはなりません! 兄上! どうか正気に戻ってください!!」


 二人の姿を見て、自分も手を貸さなければと思ったジーコはふと、ルドが左手に持っているものが目に入った。


(あれは……!!)


 ルドの左手に握られているもの。ルドがこの七年間心が挫けそうな時にいつも手にしていたものだ。


(あたしが作った……花冠)


 それはルドと妹達が離れ離れになる一ヶ月前に、ジーコがルドに送ったものだった。花は既に枯れているようにも見えるが、上手く加工しているのか原型はとどめている。


 ジーコはルドが自分に言った、ある言葉を思い出す。



(——ありがとう。一生大事にするね)



 今はっきりとわかった。ルドはこの七年間ずっと妹達のことを思ってくれていたということに。


 一生大事にすると言ってくれた言葉に嘘はなかった。


 こんな状況になっても持ち歩くほど、大事なものとして扱ってくれていた。


 ジーコは急激に感情が溢れ出した。


 ルドに言ってしまったひどい言葉を悔やみ、そんなダサいものを後生大事に持っているセンスのない兄を愛おしく思い、こんなに悲しませてはいけないと思ってしまった。




「ジーコ! 突っ立ってないで手伝ってくれ!」


「くっ!! 血を流しすぎている……!」


 イクスとウドの言葉には反応せず、ジーコは両の手を胸の前で組んで、歌を歌い出した。





 ♪〔愛しき君よ どうか泣かないで 私はいつもそばにいるから〕

 ♪〔数えきれない夜を超えた先で また会えたらその手を離さないから〕




 戦争に赴く恋人に送ったといわれる恋愛歌。何故か今それが歌いたくなった。


 すると、ルドの様子に変化が見えた。


 今までクラリネットの目を逸らさずに睨みつけていた目が、ゆっくりとジーコに向けられたのだ。



「……ジー…コ?」


「そうよ。あんたの妹よ。ほら、何泣いてんの? 早く帰りましょ。お願いだから……それ以上自分を傷つけないで——お兄様」


 ジーコもゆっくりとルドに近づき、ルドの頬を両手で包み込むように触れる。そして赤い涙を拭ってあげた。



「あぁ……ごめん……ごめんよ」



 ルドはそれだけを言い残すと、意識が途切れたようにジーコに向かって倒れ込んだ。

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