新しい分岐点

増田朋美

新しい分岐点

その日は台風が来るとか言っておきながら、杉ちゃんたちの住んでいるところは大した被害もなく、のんびりと暮らしていた。

そういうわけだから、電車なども普通に走っていて、いつもと変わらず1時間に日本程度しか走っていないローカル線であった。

杉ちゃんと影浦先生が、身延線に乗って、そろそろ富士へつくかなあとか話していたところ、

「お客様にお尋ねいたします。本日具合の悪いお客様がいらっしゃいます。皆さんの中に、お医者さんがおられましたら、至急お知らせください。」

という、車掌のアナウンスがきこえてきた。それでは、誰か体調を崩した人でもいるのだろうか。

「失礼いたします。皆さんの中にお医者さんがおられましたら教えてください。」

そう言いながら車掌が杉ちゃんたちの乗っている車両にやってきた。といってもローカル線なので、お客は5人くらいしかいなかったのであるが、

「あのすみません。精神科医の影浦千代吉と申します。もし、他に適した方がいない場合に限ってですが、お役に立てるかもしれません。」

影浦先生は、車掌にいった。

「そうですかそれならすぐにお願いします。1号車に患者さんがおられます。」

車掌にいわれて影浦先生は、すぐに1号車にいった。患者さんと呼ばれた女性は、一生懸命なにか喋ろうとしているが、どうしても言葉にはならないようであった。声は出すのだが、文章にならないのだろう。影浦先生は、その女性がヘルプマークを持っているのに気がついて、

「確か、特急富士川号は、富士駅まで止まらないのでしたよね。おそらくパニック障害の発作を起こしているのだと思います。なので近くの駅に臨時停車をして、そこから精神科の病院に搬送してもらったらどうでしょうか?」

と車掌さんに言った。車掌さんは、わかりましたといい、運転席に走って行った。そういうわけで特急富士川号は、入山瀬駅に臨時停車した。そして、車掌さんが予め呼んでいた救急車で彼女は、精神科の病院に搬送されていった。杉ちゃんと影浦先生は、また特急富士川号で富士駅に帰っていった。

それから、数日ほどだったある日。杉ちゃんたちは製鉄所でいつも通りに過ごしていたのであるが、

「失礼いたします。こちらに影浦千代吉先生はいらっしゃいますでしょうか?」

と、女性の声がしたので、杉ちゃんと影浦先生は、玄関先に行ってみた。

「すみません、一度影浦医院にお電話しました所、先生はこちらの施設にいらっしゃると言う事でしたので、こさせて頂いたんです。」

「はあ、一体どういうことかな?」

杉ちゃんがそう言うと、

「ええ、私を覚えていらっしゃいませんか?私ですよ。稲葉と申します。稲葉結。覚えていらっしゃいませんか?」

「稲葉結さん?そんなやつが今日訪問する予定はあったかな?」

杉ちゃんが言うと、

「あの、覚えていらっしゃらなければ、こちらのヘルプマークを見てください。これに見覚えはありませんか?」

女性は、そう言ってヘルプマークを見せた。確かにヘルプマークの裏側に稲葉結と書かれている。その隣には、パニック障害があり、感情のコントロールができないと書かれていた。

「ああ、わかりました。あの特急富士川号に乗っていた女性ですね。」

と影浦先生が言うと、

「ええ、その稲葉結です。」

と、稲葉結さんは、にこやかに答えた。

「今日は、影浦先生に御礼をいいたくて、こさせて頂いたんです。先生、あのときは手当してくださってありがとうございました。」

「はあ、そうなのね。それで、パニック障害は、落ち着いた?」

と、杉ちゃんが聞くと、

「ええ、まだ、完治していなくて。投薬治療はしていますが、あとは何も変わりが無いのです。」

そう稲葉結さんは答えた。

「そうですか。稲葉結さんというのは、なんだか聞いたことのあるような名前ですね。確か、テレビに出ていませんでしょうか?」

影浦先生が思わずそう言うと、

「あたしのこと、わかりますか?地方なら、まだそんなに知名度は無いと思ったのですけど。」

稲葉結さんは恥ずかしそうに言った。

「いや、最近は、インターネットもありますし、テレビを見なくてもみんな知ってますよ。確か、歌手としてご活躍されていましたね。あの、歌いまわしは独特で、なんだか、演歌どころか、オペラのアリアを歌っているようで、皆さんすごいと言っていました。」

影浦先生がそう言うと、

「そうなんですか。あたし、もうそんなに知られちゃってるんだ。一応、事務所には居るんですけど、先生がパニック障害と言ってくださったお陰で、あのあと、新聞で報道されてしまい、私は、活動を休止するように言われてしまったんです。」

稲葉結さんは言った。

「そうですか。でも、間違いなく貴女はパニック障害ですから、そこはちゃんと薬を飲むとか、カウンセリングを受けるとか、そういう事をしていただかないとね。」

と、影浦先生が言うと、

「ええ。ですが、私を見てくれるカウンセリングの先生も居なくて、私がここまで名が知られてしまっているので、とてもそういう女性のカウンセリングをする事はできないと言われてしまうんです。うちの事務所が、報道機関にでも知られてしまったら、困るから二度と来ないでくれと言われてしまいます。もう、薬もなくなってしまいますし、それではどうしたらいいんだろうって思って、それでこさせて頂いたわけでして。」

稲葉結さんは、申し訳無さそうに言った。

「なるほどねえ、有名人になっちゃうと、報道陣に知られてしまうのも困るか。それでは、治る病気も治らないか。」

杉ちゃんは腕組みをしていった。

「そういうことなら、僕らでカウンセリングの先生を紹介してあげようか?」

「そうですね。うちの病院に来ていただけるのもいいですし。カウンセリングが必要なら、盲目の方で良ければこちらで紹介いたしましょう。ちょっとお待ち下さい。」

杉ちゃんと影浦先生は顔を見合わせて、急いで手帳を取り出し、古川涼さんの名前と住所、電話番号を描いて彼女に渡した。

「あの、これはなんと読むのでしょうか?」

それを受け取った稲葉結さんは、そういったのであった。

「なんと読むのかって、ふるかわりょうさんだけど?」

杉ちゃんがそう言うと、

「ご、ごめんなさい。私、歌手デビューするときに、高校を一年で中退してしまって、学問とかそういうものは何もしてないんです。」

と、稲葉結さんは言った。

「そうなんですね。まあ確かに芸能界に入られることで学校へいけなくなってしまう方は多くいらっしゃいますが、今パニック障害では歌手活動もできないと思いますので、どうでしょう、こちらに通いながら、学校へ通ったらどうでしょうか?」

影浦先生は、にこやかに言った。

「ああ確かにそれはいいかもしれないね。どうせ膨大な時間を持て余して居るだろうから、なにか勉強するといいよ。涼さんの名前くらい読めるようにならないと。」

杉ちゃんがそう言うと、

「そうですね。でも、こんな私が、学問なんかしてもいいのでしょうか?私は、口減らしのために芸能界に入って居たようなものです。だから、とても勉強なんかしてもいいのかどうか、そんな身分なのに。」

稲葉結さんは、申し訳無さそうにそういうと、

「うーんでもねえ、あれだけの歌が歌えるんだから、頭が悪いと言うことは無いと思うし、ただ無ガッコで、学問をしていなかったから、簡単な漢字も読めないということだと思うんだよね。だからさ、パニック障害になったというのも、ちょっと歌から離れて、学問させてもらう事も、大事なのではないかな。逆に、そうなったというのは、学校へ行くチャンスかもしれないぜ。」

杉ちゃんがでかい声で言った。

「そうですが、でも、こんな人間を受け入れてくれる学校があるでしょうか?」

稲葉結さんは言った。

「こんな人間ってどんな人間かな?」

杉ちゃんはすぐにそれに突く。

「ちょっとこっちへ来てみいな。水穂さんと話をすれば、また変わるかもしれない。」

杉ちゃんは、彼女を製鉄所の建物に入れて、水穂さんのいる四畳半に連れて行った。影浦先生もそれに続いた。

「ほら、こいつはな、銘仙の着物を着て、音楽学校まで行ったんだ。そういうやつも居るんだよ。お前さんが言うこんな人間とは、そいつよりも、酷いのかな?」

一人でピアノを弾いている水穂さんを顎で示して、杉ちゃんはでかい声で言った。杉ちゃんの声を聞いて水穂さんは、

「ああ、新しい利用者さんでも来られたのですか。あれ、何度かポスターでお見かけしたような、、、。」

と、彼女、稲葉結さんに水穂さんは言った。

「そうだよ。本人だよ。稲葉結さん。なんでもパニック障害になって、演歌歌手の活動を休まなくちゃならなくなったらしい。それで、せっかく暇をもらえたんだからよ。その間に学問でもしたらって、提案してみたんだよ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「そうですか。それなら、そうすればいい。近くに通信制の高校もありますし、こちらを利用して、他の利用者さんたちと話をしながらベンk塔してもいいですよ。」

水穂さんは、にこやかに言った。

「そういうことなら、近々、望月学園を見学させて頂いたらいかがですか?あそこは通信制として有名な高校ですよ。今は、いい時代ですよね。そうやって、一度高校を中退された方であっても、学校に行けるのですから。」

と、影浦先生が、にこやかに言った。それならということで、稲葉結さんは、望月学園高校に行ってみることにした。見学には杉ちゃんが付き添うことになった。その日、二人は水穂さんが予約してくれたタクシーに乗り込んで、望月学園に行った。望月学園高校は、高校と言っても、とても小さな建物で、学校という感じではなくて、小さな貸事務所という感じの建物だった。結さんと、杉ちゃんが、正面玄関に行くと、望月学園の校長が、二人を出迎えてくれた。二人は、授業を見学させてもらうことにした。校長先生にお願いして教室に入らせてもらった。教室は、五人くらいの生徒さんが居て、一人の先生が授業をしているのは、全日制の高校と変わらないが、でも、真剣さが全日制とは全然違っていた。生徒の年齢層も、50代か60代の生徒ばかりで、中には先生より年上ではないかと思われるおばあさんの生徒も居る。そんな人達が、制服を着て、学校に来るなんて、なんだか不思議な光景ではあった。

「ああこんにちは。今日は新しく入学希望の生徒さんがお見えになりました。」

と校長先生が言うと、稲葉結さんはちょっと不安そうな顔をした。確かに、名の知られてしまっている人物なので、なにか言われるかもしれないと思ったのだろうか。でも、みんな、そんな事は何も言わなかった。

「こんにちは。新しい新入生の方ですね。よろしくお願いします。」

と、一人の男性の生徒が、そういったのだった。隣に座っていたおばあさんが、授業中よなんて笑って彼を止めたのであるが、

「いやあ、いいじゃありませんか。新しい方がこちらに入られるのは、本当に嬉しいことじゃありませんか?」

と、隣りにいたおじいさんの生徒がそういったため、皆笑いだしてしまった。その後一時間授業を見学させてもらい、校長室で、学校生活についてとか、学校の制服の説明などを受けた。

「それでは、貴女と一緒に勉強できる日が来るのを楽しみにしています。」

校長先生にそう言われて、稲葉結さんは顔をくちゃくちゃにさせて、

「ありがとうございました。本当に今日は見学させて頂いて嬉しかったです。」

と、校長先生に頭を下げた。

「入学試験は作文と面接だけですから、よろしくお願いしますね。」

「ありがとうございます!こんなにだめな人間が学校に通わせていただけるなんて、本当に嬉しいです。よろしくお願いします。」

彼女、稲葉結さんは、こんな人間という言葉を幾度も使った。きっと生徒たちが、自分の事を有名人だと思わなかったことが嬉しかったのだと思ったのだが、それだけでは無いような気がした。

「一つ疑問なんだけど。」

杉ちゃんは帰りのタクシーの中で、そう稲葉結さんに言った。

「こんな人間、こんなにだめな人間って言ってるけどさ。お前さんはそう思わなくちゃ行けない事情があるの?口減らしのために芸能界へ入ったとか言うけど、そういう事をしなければならない事情があったか?例えば、水穂さんと同じような、事情があったの?」

杉ちゃんに言われて稲葉結さんは、黙ってしまった。水穂さんと同じような事情があったというのなら、そういう事を言っても仕方ないと思われるのであるが。杉ちゃんはそれ以上、彼女に何も聞かなかったが、彼女はなんだか言っては行けない事情を持っているような気がした。

そうこうしているうちに二人は製鉄所に戻った。水穂さんが出迎えてくれた。

「おかえりなさい。学校の見学はうまくいきましたか?」

と、水穂さんが言うと、

「はい。学校の校長先生も優しくしてくれました。本当に私みたいな人間が再度教育を受けてもいいのかと思いました。なんだか私には、もったいないなと思えるような場所でした。」

稲葉結さんは答えた。

「どうして、私みたいな人間と言うのでしょう?貴女はそう思わなければならない事情があったのですか?」

水穂さんが、敢えて笑顔のままそうきくと、

「こいつな、タクシーの中でも、私みたいなってそういう言葉を言ったな。それでは、言ってはいけない事情があったんですか?」

と、杉ちゃんが言った。杉ちゃんと言う人は、余計な一言を言うことで有名だったが、今回はこれが役に立つような気がした。

「なあ、支えてること吐き出しちまえよ。水穂さんだって、身分を見せびらかすようにしか生きて行けないけど、こうしてやってるわけだからさ。」

杉ちゃんに言われて、稲葉結さんは、水穂さんを申し訳無さそうに見た。

「貴男のような方の前では私の事なんてとても言えない。」

稲葉さんは、小さな声でそういうのであった。

「はあ、それはどういうことなんかな?なんで水穂さんの前でとても言えないの?」

水穂さんが杉ちゃんにこれ以上聞くのはやめましょうと言ったのであるが、杉ちゃんは聞くのをやめなかった。杉ちゃんと言う人は、答えが出るまで質問するのをやめないのである。

「だって、私が、作り出したようなものじゃないですか。私の、家族は、水穂さんのような人を、差別しようと呼びかけてきたそういう人なんですよ。」

稲葉結さんは、小さな声でそう話し始めた。

「父も母も、教師だったんです。だから、率先して、水穂さんのような人を、差別しろと話したと思います。そういう人物でした。母も父も、そういう人で、勤めていた学校では、国立大学進学を目指す生徒しか相手をしなかったんだそうです。そういう生徒さんばかり相手にして、成績が悪い生徒さんを自殺に追い込んでしまったことがあったとか。それなのにあの二人は、そのまま教師を続けました。だから、私は、自殺に追い込まれていた生徒さんのご家族から、殺されてしまうのではないかって、ビクビクしながら暮らしてました。だから私、高校中退して、芸能界に行こうと決めました。だから私は、こういうふうに教育を受けることは、絶対に無理だって、そう思って生きてきたんですよ。」

「そうかそうか。話はわかった。それなら、たしかに、お前さんも罪悪感感じちゃって、生きていけないと思うだろうけど、でも、パニック障害になって、また勉強できる場所を与えてもらえたってことは、お前さんはまた生きられるすべをもらえるのかもしれないぜ。そう思って、生きていくしか無いだろう。それがもしかしたら、その自殺してしまった生徒さんへの償いかもしれない。そう思ってさ、生きていこうぜ。そう考えて生きていくんだよ。」

彼女の背中をたたきながら杉ちゃんはそういったのであった。

「そうですよ。それにご両親が悪事をしていたとしても、貴女は悪いわけではありません。そこを間違えないでくださいね。本当に勘違いしないでください。貴女は貴女であるわけだし、貴女の人生を歩けばいいのですよ。もし、お父様やお母様の事を許せないのであれば、二度と同じことを繰り返さないようにすると考えればそれでいいのです。」

水穂さんは、稲葉結さんにそう言って励ましてあげた。

「日本ではどうしても家族の問題は自分の問題と思ってしまうことも多いと思いますけど、外国では、そのように思う必要はまったくない国家もあるくらいですから、本当に個人として、生きていけばそれでいいのだと思います。そういうところを取り入れるのも、人生をより良く生きるヒントになるかもしれませんね。」

「水穂さんも、そういう考えで生きてくれればいいのにね。」

杉ちゃんはカラカラと笑った。

「だから、お前さんが、学問受けちゃいけないとか、そういう事は何もないの。それより、学校で、いろんな事学んでさ。それで、本格的な知識を得て、それから演歌歌手を続けるか、それとも別な人間として生きるか、どっちか選べばそれでいいんじゃない?今回は、そういうことの分岐点に立ったということでさ。つらい思いをするのは、そういうふうに考えれば悪いことでは無いのかもしれないよ。」

「でもあたし、父母が、生徒さんに散々酷いことをいったりして、精神がおかしくなったとか、自殺をしてしまったとか、そういう生徒さんをたくさん見てるから。」

稲葉結さんは泣く泣くそう言うと、

「それでもお前さんの人生だからな。生きていかなくちゃならないな。いくら酷いことする人の下に生まれたって、人間は動物だからね、生きていかないと行けないんだよね。」

杉ちゃんはでかい声で言ったのだった。

「もしかして、パニック障害を発症したことでそれに気が付かなければならないことを感じたのかもしれませんね。それならそれでもいいのではありませんか?」

水穂さんが優しくそうきくと、稲葉結さんは、

「本当にすみません。私みたいな人間をこうして相談にも乗ってくれて。」

と、床に崩れ落ちてしまったが、それが彼女にできることなのかもしれなかった。杉ちゃんが全くなというと、水穂さんが、このまま泣かせて上げてもいいのではと小さな声で言った。





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