第3話 布教

「それじゃあ、あなたに脅迫の意志は?」


「ない、これっぽっちも」


 必死の主張により、ようやく彼女の誤解は解けたようだった。といっても、「ソウマに対して脅迫を企てていない」という最低限のラインまでしか解決できておらず、未だに曲のデータを持っている俺を怪しんでいるような風もあるが。


 しかしそれでも、改めて自己紹介をしようという機運が出る程度には空気は和らいだ。彼女は「佐奈ミナです」と名乗った。


「で、あなたは?」


「あ、クリオネです」


 黙りこくるミナ。なんだその「滑ってんなあ」みたいな顔は。俺はクリオネだ。この名前で何年もやってきてるんだ。


「本名じゃないですよもちろん。ハンネですよハンネ」


「そこは別に疑ってないけど……なんでクリオネ?」


「小学校のときに水族館で見て、かわいいなって思って……だから小学生でオンラインゲーム初めて以来、20年近くクリオネですよ、俺は」


 改めて考えると本名に匹敵するくらい長いこと、この名を使っていることになるわけで、感慨深くもなる。


 ミナは暫く固まったあと、ふっと鼻から息を漏らしながら、


「全然クリオネって風じゃないですけどね」


「めっちゃバカにされててワロタ。あなた失礼ですねえ、最初っからそうだけれど」


「喉乾いたし飲み物買ってきます」


「マイペースにも程があるし」


 レジにスタスタと向かっていくその後姿を見て、しかし思い込みの一念のみでひたすら一つの動画を監視したり、こんなクソ暑い中武道館で張り込みをするような奴なのだから(まさかライブ自体は見ていない、なんてこと、ないよな?)、色々とネジが外れていて当然か、という思いもしてくる。むしろ、脅迫の犯人ではという疑いを言葉の説明だけで取り下げてくれたのも奇跡かも……いや、それは流石に譲歩し過ぎか。


 数分後、ミナはクリームがアホみたいに乗った泥のような液体が大量に入ったカップを持ってきて、その粘度の高そうな流体を太い緑のストローで啜っている。だいぶ肺活量が必要そうだ、もうスプーンで食えよ。


「まさかだけど、張り込みのためにライブ自体は見てない、とかはないですよね?」


 気になっていたことを聞いてみると、彼女は「はあ?」と言ったふうに眉を潜め、口の中のものを飲み下し、


「そんなわけないじゃないですか。ソウマの一世一代の晴れ舞台、しかと目に焼き付けましたよ」


 流石にそこまでイカれてはなかったみたいだ。それなら、と話を差し向けてみる。


「いや、しかし凄かったですね、だってあのソウマが、あんなに大きく……」


「……正直、わたしも信じられないですよ」


 きっとお腹が空いていたのだろう、大きなカップに入ったカロリー満点であろう液体のもう7割くらいを飲み干して、彼女は語り始めた。糖分が身体に入って、少し気を緩めてくれたのかもしれない。


「だってわたしが初めて出会った頃、まだソウマってリスナー300人くらいしか居なかったんですよ。それで平日の昼間の、他にだれも配信してないような時間に配信始めて、いや高校生が平日昼間に配信って設定としておかしいだろって思ったんだけど本人はひょうひょうと『いや学校とかズル休みしたわ』とかってニヤニヤ言うんですよ。それ聞いた途端、昔同じように学校ずる休みして、エアコン効いた暗い部屋でNHKの教育テレビとか昼ドラ見たりしながらポケモンやってた日のこと急に思い出して凄く切なくなって。で、ずっとゲームの話ししてアニメの話して、そのキャラがどうこうとか性癖がどうこうとか延々話してるんですよ。仕事の休み時間とかに聞くそれが、なんか、すごくよかったんですよね。元々、もっとアイドルっぽい配信者とかの推しをしてけれど、その頃はそれに疲れちゃって。何千、何万っていうリスナーの中からこっち見てもらおうって思って、スパチャ投げたりグッズ買って握手会行ったりして少し喋って、でもだんだんそれじゃ満たされなくなって、満たされなくなって惨めになってる自分も嫌いだし満たしてくれない推しも嫌いだしってなってもうヤバいってなってたころに、ソウマに出会ったんです。最初は、リスナーが少ないショタっぽい配信者だから都合よくこっちを見てくれるかなとかって思ってたんですけど、全然真逆だったんです。ソウマはこっちになんて目もくれず、もうずっと、ひたすらに自分が好きなことについて語りまくって、妄想を膨らませて、お人形遊びを繰り広げて、そうやって自分が面白いと思うことをただただ語ってるだけだったんです。それがなんだか凄く刺さって。こっちは見てくれない。けれどこの人は、わたしと同じ方向を見てくれているんじゃないかって気がしたんです。いや、そうなっていないんだとしても、振り向かせるんじゃなくて、この人と同じ方向をわたしが向きたい、そう思ったんです。ソウマがゲームのキャラの些細な発言に、日常の風景で出会うちょっとした出来事に、物凄い感傷を感じたりしているのを聞いて感動したんです。高校生とか大学生のころ、文学ってよばれるような類の小説をめっちゃ読んでたんですけれど、最近はそういうのにも遠ざかってました。けれどソウマを見て、それを読んで新鮮に感動してた頃の気持ちが蘇ったんです。文学なんですよソウマは。ソウマの配信のどれか一つに芥川賞を与えるべきだと思ってますわたしは。

リスナー数がどんどん増えて、コラボするようになっていって、どんどん最初の頃に見てたソウマの配信から形は変わっていったけれども、それでもわたしも気持ちは変わらなくて、自分で言うのもなんですが、凄くいい好きのなりかたが出来たな、って思うんです。その意味では、今日は本当に象徴的でした。文字通り、ソウマと同じ景色を、あんなに凄い光景を自分の眼で目の当たりにすることが出来たんですから。信じられない、けれども信じてきてよかった、そんな気持ちで一杯です」


 普通ならここでドン引きでもするし、俺も他のジャンルのことでこんなに語られたらちょっとキモく感じてしまうだろうが、しかしソウマのことだったので、俺はそこまで引いてなかった。……いや、流石に他人のクソデカ感情に生で触れると、ちょっとそのオーラみたいなものに圧倒はされるが。


「リスナー300くらいって、マジでデビューしたての頃じゃないですか。ちょうど、攻めた発言で炎上してたりしてた頃ですよね」


「そうです!」


「あの頃は大概攻めてましたもんね。他の箱の配信者に喧嘩凸しに行ったり、オタクの失敗談を集めて、それをラノベ風に仕立てて電撃大賞に応募するみたいな企画して、ガチで怒られたりしてたやつとかめっちゃ好きでした」


「わたしも好きでしたそれ! ほんと馬鹿だなって思いつつ、なんでこんなアホなこと幾つも思いつくんだろうって感心もしてましたよ」


 そう少しうわずった声でミナは頷きながら、


「ああ、クリオネさんも本当に見てたんですね」


 と感嘆した。


「そりゃ、会場に居たから分かるでしょう……その段階から疑ってたんですか?」


「疑っているというより、信じきれなかったというか……だってあんな陰のオタク高校生のファンで、しかもわざわざ武道館にまで見にくるような熱心な人が、この国に一万人も居るなんて、外見(そとみ)だけ見たって到底信じられないじゃないですか。でもなんだか、こうやって実際に話してみて、ようやく実感が湧いてきたというか。同じようにソウマを見てきた人たちが、こんなに沢山いるんだな、って」


 その言葉に、俺は思わず反論したくなった。「本当に、同じように見てるかはわかりませんけどね」、と。しかしそんな水差しをして折角軌道に乗ってきたコミュニケーションを捨て去るような愚かな真似はしない。俺は頷いて、


「あいつはやっぱすごい奴ですよ」


 と、自分のことのように誇らしそうに言った。


「……でも、じゃあ」


 ドロリとした液体の残りをこくこくと飲み干してから、ミナが尋ねてきた。


「そこまでソウマのことを分かってるクリオネさんが、どうしてあの動画をダウンロードするような、そんな危なっかしいことをしたんですか?」


 それは俺にしてみれば愚問にも程がある問いだったが、彼女がそう聞く理由も分かる。


「この曲を聴いたら、分かりますよ」


 スマホに表示した「夕焼け」の再生画面を見せつけると、彼女は目を瞑った。


「見ないし、聞きません」


「佐奈さん。一つだけ断言させてください。この曲は、絶対にソウマへのこれまでの思いなどを壊すものじゃありません。むしろそれを一層強く、高めてくれるものです。ただ、これまでの想いについてはそう保証できますが、これからの想いについては分かりません」


「……どういうことですか」


「この曲は、あまりにも凄すぎる。俺は今日、どこかで、この曲がコンサートの一番最後で披露されるものだと、完全に信じていました。公式に発表するから、この未発表データを削除したんじゃないか、そんな都合のいい想像をして。そしてもしそうなったとき、ソウマだけじゃない、この世界が全て丸ごと変わってしまうだろうなんて、陰謀論めいた想像すらしてたくらいです。それだけ、この曲は凄い……結局それは叶わなかったけれども」


 彼女の問いの答えを考えながら、俺は自分の考えを、心中に渦巻いていたモヤモヤを言語化しようと試みる。


「つまり、俺は、どうしてソウマがこんな凄まじい曲を残しておきながら、それを隠してしまったのか、それが気になっているんです。そして、もしそれが解決できるような問題なんだとしたら、解決して、この曲を世界に解き放ちたい。それが本人のもし個人的な気持ちなんだとしたら、本当は、それを尊重するのが筋かもしれない。けれど、我慢出来ないんです」


 そう言いながら、ああ、俺はこんなことを考えていたんだな、と腑に落ちた。俺はすっかりこの曲にハマっている、なんて思っていたけれども、そんな生優しい状態にはもうなく、世界にこの曲を知らしめたい、狂信者の伝道師のような気持ちを持っているらしい。


 お前のその声で、その少しもたつく癖で、その神々しさすらある切実なギターでの音色で奏でるその歌は、この世界で、人類の歴史の中において最も壮麗で完璧な楽曲なんだよ。バッハよりも、ビートルズよりも、カニエ・ウエストよりもお前は天才だ。ローリングストーンズ誌とかタイムズとか、ユーチューバーとか批評家とか音楽オタクとか、そんなのもどうだっていい。別に権威も理論も何もない俺かもしれないけれど、このことだけは俺の命を懸けて保証したっていい。そんな史上最高の曲を、お前はそのまま墓まで持っていくつもりなのか。正直これに関して、お前の個人的な心情とか、背景とか、そういうことを思いやってやりたい気持ちはやまやまだし、今まで寄り添ってくれたお前に対してそうしてやれないことは恩をあだで返すような真似だってことは分かってるけれども、それでも、お前がその曲をこの世界から抹消したこと、そうしつづけるというその決断は、はっきり言って人類という種族に対する罪だと思う。もちろんこれは主語をあまりにも大きくしているけれども、俺の中のやるせなさ、怒り、くやしさ、そういったものは、こんなに大きい主語ですらまだ十分には言い尽くせてない。宇宙に対する罪、存在という概念に対する罪とすら言ってもいいかもしれないと思ってるくらいだ。 


「本当に、一度だけ。もしそれを聞いた上で、佐奈さんがなんとも思わないって感想だったとしたら、俺はもう完全に布教を諦めます」


 そんなことを言われれば、彼女はどのような結果だったとしてももちろん無反応や無関心を装うだろう。まさしくそのように考えたのか、彼女はワイヤレスイヤホンをポケットから取り出した。彼女のイヤホンを俺のスマホとペアリングさせながら考える。

 ーーしかしもしこの歌が、俺が考えているような力を持っているんだとしたら。そんな企みを簡単に破壊してくれるに違いない、と


「ペアリングできました? じゃあ、流します」


 そう言って俺は再生ボタンを押し、彼女の表情に注目した。数秒後、イントロの場面になって彼女が驚きに目を見張る、が、仕事中にあくびを噛み殺すときのような、そんな取り繕い方をしてすぐ真顔に戻る。乗り越えた、そのように思ったはずだ。だがそれは違う。

 AメロからBメロに入り、曲が転調がする。それと同時にソウマの歌声は一段階ギアが上がる。壊れるじゃないかというほどジャカジャカとなるギター。もはや秒数を見ただけで、俺は今何が彼女の耳を、鼓膜を、脳を揺らしているのか分かる境地となっていた。一文字に結ばれていたミナの唇が、くすぐったそうに緩み始めた。そして。


「こっからサビです」


 そう言ったが、彼女には聞こえていないだろう。ソウマの声が切実な雄叫びに変わり心を横に揺らし、ギターの音色が体を縦に揺らす。引き裂かれ、ぐちゃぐちゃにかき回されながら海の奔流に流されていくような、終わっていくことへの寂寞感と巨大な力への畏怖。いや、もしかしすると彼女の頭の中には今、また別の世界が見えているのかもしれない。だが、彼女が目をぎゅっと瞑り、その世界に浸っている、あるいは沈み込んでいることだけはハッキリと分かった。やがて、ぽろりと涙が一つ、彼女の目からこぼれ始めた。


 最後まで聴き終わり、イヤホンを外して放心状態となった彼女に向かって、あるいは自分自身に言い聞かせるように、俺は言った。


「この曲を世界に解き放つまで、俺は諦めないですよ」


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