第2話 厄介ソウマニアその1 佐奈ミナ

「あの、コーヒー頼まないんですか」


 九段下駅の近くのスターバックスにとりあえず入ったは良いものの、机の上には俺が頼んだアイスコーヒー一つ。彼女は、「すぐ終わるので」とだけ言った。いや、マナーというか、店への配慮ってもんがないのか。


「えっと、自己紹介とか」


「要らないです」


「ええ……」


 ちなみに、振り向いて彼女の顔を見て、男の性、という言い訳で済む時代もそろそろ終わりが近づいている、あるいはもう終わっているのかもしれないけれども、一瞬桃色めいた想像をしてしまったことは白状する。当然、こんな夜も9時になってカフェで難詰の開始を予感している今となっては、そんなこと微塵も期待していないが。


「わたしから言いたいことは一つだけです」


 そう言って彼女は、俺のスマートフォンを指さして、


「あなたが保存しているその曲のデータを、今すぐ削除してください」


「え、イヤです」


 暫く沈黙。絶妙に調子の外れた南米っぽい店内BGMが、俺の耳にも、彼女の耳にも入り込むことなく、ただその辺を漂っている。


「消してください」


「なんでですか」


 そう尋ねると彼女は押し黙った。少し考え込むような仕草をしてから、


「消してください」


「いや理由は」


 何か説明を考えてたんじゃないのかよ。

 暫くその調子で押し問答をしていると、急に彼女は身を乗り出して、スマホを取ろうと手を伸ばしてきた。当然身を引いてかわす。反対の角度から伸びてくる。かわす。


「……」

「……」


 かわす。


「いやいやいや、ダメですよ。全然ダメ。勝手に人のスマホ取って、データ削除するなんて真似、許されるわけないでしょ」

「じゃあ同意してください。それならいいでしょう?」

「だからダメだって! なんで消さなきゃいけないんだって!」


 一体何を言っているんだこの女は。しぶしぶ席に再び腰掛けるそいつは、もうすっかり俺の中で奇人変人の類にタグ付けされていた。正直、身体を近づけられたときに少し甘い匂いがしたときにはドキッとしたけれど。金木犀の香りか?


 突然話しかけてきて、カフェまで連行して、俺のスマホのデータを消してほしい? どういうことだ。 これが、俺が彼女を盗撮していて、その写真を消せと言われているのだったらまだ分かる。しかし彼女は明確に「曲」といった。「夕焼け」のことを指しているのは間違いない。おおかた、俺の画面を覗き見か何かしてその存在に気づいたのだろうが、しかしそれなら尚更受け入れがたい。こんな素晴らしく、そして今や貴重となったデータを、何故消さなきゃいけないんだ。


 断固とした態度を示そうと口を開こうとした、が、それよりも先に彼女は言った。


「――投稿者が配布に同意していない、不法なダウンロードデータですよね? 消して然るべきじゃないですか」


 俺は固まった。そうだ。この女の容姿に浮かされ、突拍子もない言動に困惑させられ、すっかり見落としていた。つまり、この女は「夕焼け」の存在を、それがどういう曲であるのかを知っているのだ。あり得なくはない話だ。だって俺が最初に動画を見つけたとき、再生数は3回だった。たった3回、ではあるが、しかし裏を返せば3回は俺以外の誰かが確実に再生したということになる。

 すると、この女はその3回のうち、少なくとも一回の再生を担ったと、そういうことなのだろうか。


「この曲を、知ってるんですか?」


 俺は、声が震えるのを我慢しながら尋ねた。彼女はふっと息を吐いて、


「だから言ってるんです。分かってますよ。あなたがあの動画を何度も見ていたことも、そのデータをいかがわしい方法を使って保存したことも。でも、今消したなら許して――「マジで、知ってるんですか?」」


 気がつけば今度は俺が身を乗り出していた。


「念のため聞きますけれど、あなた、ソウマニアですよね!?」


 ちなみにソウマニアというのはソウマの熱心なファンのことだ。


「……そうだけれど」


「じゃあ、あの動画が、あれが、あいつの歌声だって、分かりますよね!?」


 半分顔をひきつらせていた彼女は、それでも「分かるに決まってるでしょ、というか」と言った。何か言いかけていたようだったが、分かると言ってくれた、それだけで十分だった。俺の口は気がつけば勝手に動き出していた。


「これ、マジでやばくないですか!? 俺、歌聞いただけで泣いちゃったの初めてですよ。何なんですかこの名曲は。ちょっと語彙力が、ああ、もっと感動が俺の中にはあるのに、ありきたりな言葉しか出てこない、こう、なんだろうな、郷愁と、儚さと、でも美しくて、力強くて、ああしかもあいつ、ギターも弾けたなんて! 配信で一度も言ったことむぁっ」

「ちょっと!」


 張り手のような勢いで彼女が俺の口に紙ナプキンを押し当ててきやがった。


「何しやがる!」

「こっちのセリフ! 何考えてんですか、こんな公衆の面前でペラペラと! この話がソウマニアに聞かれて、あの動画の存在がバレたら、彼の活動にどんな影響が出るのか、分かってるんですか!?」


 上唇に張り付いた紙ナプキンを剥がして、


「ソウマニアが素面でスターバックスに来るわけないだろ! ソウマニアが入れる喫茶店なんて、せいぜいドトールかベローチェが関の山なんだから」

「……それは、確かに」


 そう、ソウマニアはスタバやその新作に並ぶ女子供を馬鹿にして、その口で二郎系や家系ラーメンを1時間近く並んだ挙げ句啜る、そんな連中なのだ。わざわざ夜9時にスタバに入ったりなんてしないし、ライブ終わりですらそのままラーメン屋や牛丼屋に行く確率が95%を超える、そんな連中ばかりなのだ。

 俺の逆ギレが功を奏したのか、彼女は周囲を見て、誰もこちらの話に耳を傾けていないのを確かめて一旦は気持ちを落ち着けたようだ。俺も、砕けかけた口調の襟元を正して、


「だから、好きなだけあの曲の感動を語って良いんですよ。ああ、ようやく誰かと感動を共有できる。あなたなら分かるでしょう? だって俺以外であの曲を知ってるってことは、つまり俺よりも先にあの動画に辿り着いていたわけなんだから! あなたも、SNSで言ったりするのを我慢してたってことですよね、お互いよく耐えましたよ!」


 やばい、興奮が止まらない。半分夢見心地な気分の俺に対し、彼女はすんと、


「いや、我慢とか、そういうのは別にないです」


「ええ……めっちゃ冷めてる」


 びっくりするくらい彼女は冷静だった。嘘でしょ。俺はてっきり、あの曲には全人類に普遍の感動を与える、時代も世代も何もかも超えた人類文明が誇るべき芸術作品であるということを疑う余地は一切ないと思っていたのだが。それとも、彼女は味覚音痴みたいなもので、まったく音楽というものの芸術性を理解しないようなタイプなのだろうか。たまに居るよねそういう人。まあ俺も価値がわかんないものはたくさんあるけど。ジェットコースターとか。あとパクチー。


「マジですか。あの曲を聞いたら、絶対そういう葛藤があると思ってたのに」


「だってわたし、聞いてないですから」


「へ?」


 彼女は、まるで自慢するかのように少し顎を引きながら、


「動画を再生して最初に声が聞こえた瞬間、あ、これ、そういうことだな、って分かったんです。だからそこで再生を止めました。それきり、一度も開いてません」


「そういうことだなっていうのは、つまり、前世だって気づいたってこと?」


「ソウマに前世とか無いですから。何言ってるんですか?」


「ごめん」


 これは俺が悪い。いや、文脈によっては悪くないこともあり得るだろうが、今はダメだ。今の彼女の言葉で俺の推測は100%の確信になりつつある。こいつは、かなり厄介なタイプのソウマニアだ。


「あれをまともに聞いてしまったら、彼への解釈が確実に揺らいでしまう。わたしたちとソウマとの関係性が、これまで築き上げてきたものが、完全に崩れ去ってしまう。わたしはそう確信しました。その時からです。わたしはあの動画を非公開の再生リストに登録し、監視を始めました」


「監視って一体」


「あの動画を、他の第三者が発見して掘り起こしてしまうことが無いよう、その再生数に変化がないかをチェックし続けました」


 あんぐりと口を開ける、って表現があるけれど、まさに今の俺はその状態だった。これはつまり、「はあ!?」という呆れ声をあげようとして、しかしその声がうまく出なかったときに生まれる口の形なのだということを、俺は今知った。


 なんだそりゃ。まるで古代の大量破壊兵器が悪の手に渡ったり不用意に拡散したりしないよう、その封印が解かれぬよう守り続ける、失われた文明のAIかロボットみたいな、そんな話だ。しかし、あの曲の与えるインパクトの絶対値が計り知れないという点では俺も同意だ。もっとも俺は、ポジティブな可能性をそこに見ているが。


「そして監視を初めて1年たった頃」


「健気すぎだろ」


「それまで、再生数3から一切変動がなかったその動画の再生数が一気に増え始めました。ちょうど2週間前のことです」


「俺だ」


 それは寸分違わず、俺が「夕焼け」と出会った日だった。


「本当に焦りましたよ。目を離した隙に、どこかにこの存在が露呈してしまった。痛烈な責任感を感じました。必死になって、SNSやら掲示板やら、とにかくそういうのが話題になってそうなところでパブサしまくりました」


「それは、心労察するけれど」


 確かにそれだけ責任感を持って職務に当たっていたのなら、いざそのような自体が起きてしまったとき、そりゃ自分を責めてしまうだろう。「余計なお世話」そのものである行為であるが。


「幸い、それが不特定多数の衆目の目に晒されているという状況は起こっていないようでした。最悪の事態は回避されたようであるものの、関心は、じゃあ一体何者が、どんな目的でこんなにも大量に再生しているのか、という視点に移りました」


「俺が、好きで再生してたんだよ!」


「一番最悪の可能性は、その発見者が、ソウマ本人を脅迫したりすることを考えるような場合でした」


 聞いちゃいねえ。


 しかし、彼女の不安は確かに、彼女の視点からみれば分からなくもない。あの動画を知って、しかしそれを周囲には広めない。その動画が、一般に前世がないとして知られているVtuberの、その前世の情報だとしたら。「俺の言う通りにすれば、この動画については忘れたことにする。しかしもし言うことを聞かなければ……」といった手立てに使うには、然るべき時までその情報がどこにも漏れないようにする必要がある。じゃないと脅しとしての効果が失われてしまうからだ。


「わたしはそこでようやく、まず根本的な問題を解決することを思いつきました。あの、ソウマ本人だって残すことを本意には思っていないはずの動画が、残り続けている事自体がよくないのだと」


「ん?」


「なのでわたしは、あの動画を著作権侵害で報告しました」


「何やってくれてんだこの野郎!!!!」


 ちょっと前まで「店入ったらコーヒー一杯頼むのがマナー」とかこいていた俺は完全に消え去った。叫んでめっちゃ唾が飛んだし、周囲は胡乱げな視線を向けてくるが、そんなものは気にならなかった。しかしこの女は、周囲はもちろん俺のその叫びすら気にかけていないようで、


「報告後、無事動画が削除されたことを確認できたので、次に容疑者探しに動くことにしました。そのために今日一日中、この会場を張ってたんです。もしソウマを脅迫するような目的なんだとしたら、ソウマ本人が来るこの場所、この瞬間こそ、容疑者が来るに相応しい。わたしは武道館の入り口で、怪しい人間を探していました」


 さらりと一日中張ってたって言っているが、このクソ暑い中、外でずっと見張ってたんだろうか。


「そしてついに見つけました。削除されたはずのあの曲のデータをスマホに表示してニヤニヤしながら、周囲から離れて一人ノロノロ歩いている、とんでもなく怪しい風体の男を」


 マジかよ。夏の夜の公園を切なくエモーショナルな色に染め上げていたあの時間は、第三者の目からはそんなふうに見えてたの?


「そうして、今あなたを現行犯逮捕しているというわけです」


「任意同行ですらないのかよ」


 全く、飛んだ名探偵に捕まった。俺は疲れ果てた気持ちで、ぬるくなったアイスコーヒーをゴクリと飲んだ。


 これがこの厄介ソウマニアその1、佐奈ミナとの出会いだった。

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