一章③
翌朝――
「アメリアッ! いつまで眠っているの、このグズッ!」
バン! とけたたましく開いたドアに、タオルを敷いたカゴの中からは「ピュッ!?」と
アメリアの方は動じずに身を起こす。
窓の外を見るとまだ日が
「おはようございます、お
「いい身分ね、アメリア。リンジーとキースに聞いたわよ? あなた、夜会が始まって早々にセドリック様から帰れと追い返されたんですってね。社交もろくにできないくせに、だらだらと
どうやら、昨日の夜会のことはしっかり継母の耳にも入っていると思われる。
暗い部屋で
「まさか、さっさと帰りたいがためにわざとセドリック様を
「そんなことしません」
「どうだか。社交もろくにできないのならさっさと起きて働きなさい。このリストにある薬を昼までに作ってお父さまの部屋に持って行くように! それと……、キャアッ!」
机にメモを叩きつけた継母だが――そこに置かれたカゴの中、ハンカチの
「ネズミッ!」
「リスです」
カゴごと叩き落とされかねないと思ったアメリアは、すばやく反論しておいた。
「ゆうべ
リスも自分が無害であることをアピールするかのようにハンカチから身を出した。
ぷるぷる
「リスなんか拾って……。薬品に毛でも落ちたらどうするつもりなの!」
「すみません。すぐに追い出しますから」
「そうしなさい! ああ、嫌だわ。こんな物置部屋に長居したらノミや毛が付きそう!」
継母はわざとらしくドレスの
「伯爵
「……。
つまみ出されるようなことになってもアメリアは責任を負えない。
「戻っていない……」
「戻っていませんね。残念です」
こんなすごい毒薬の調合法が発表されたら
(毒薬かどうかもわからないけど。
なんにせよ、相当セドリックに
「セドリック様。朝食なんですが……」
「ああ。俺に構わず食べに行け。ついでに俺用に何か食べるものを用意してきて欲しい」
「……すみません、ビスケットと水で構いませんか?」
「この俺にビスケットと水だと?」
むっとした様子のセドリックに構わず、アメリアは保存用のブリキ
小麦粉を練って焼いただけのビスケットを数枚皿に出す。セドリック用には小さく
リスにハーブティーや紅茶を飲ませていいものかわからないし、自分一人だけお茶を飲むのも、と思ったアメリアは自分の分の水もティーカップに注ぐ。
セドリックは意味がわからないという顔をしていた。
「なんだこれは。お前、こんな
「はい」
「ハッ! 食事を
「いえ。私は夕食の時間しか本邸に入ることを許されていませんので」
「はあ? 本邸に入ることを許されていない……?」
セドリックは
「な、なんだそれは! お前は……確か、本邸では研究がしづらいとワガママを言ってこの離れを建てさせたんだろう!?」
「そうなんですか?」
「そうなんですかってなんだ! 家族とろくに顔を合わせたがらず、部屋に引きこもってばかりで困っていると、リンジーとキースが言っていたんだ! そう、リンジーと、キースが……」
急にトーンダウンしたセドリックは、改めてアメリアの部屋を見ていた。
どうせ、質素な部屋だとでも思っているのだろう。令嬢らしい調度品の類は
手にしたビスケットまで、まじまじと見ていた。
「この、ビスケット……」
「毒は入っていませんよ」
「そんなことは疑っていない! 誰が作ったものなんだ!」
「私ですが」
「か、
「いえ。夕食だけだとお腹がすくので、時間がある時にこっそり
アメリアは少食だし、洗い物もほとんどしなくていいので効率的でもあった。
「いつからこんな暮らしをしている?」
「もう五年ほどになりますね」
「五年!? なぜ俺に言わなかった!」
「特に聞かれませんでしたので」
時間が
セドリックは頭を抱え出した。
「信じられない……こんな、こんな、粗末な……」
(粗末な食事、ってこと?)
公爵家では朝からさぞかし
ビスケットと水の食事など、公爵家では使用人以下かもしれない。
「粗末な食事ですみません。ご不満でしたら出て行っていただいて構いませんよ」
「違う! 俺が不満なのは食事内容ではなく、お前の
セドリックは勢いよく顔を上げた。
「っ、婚約者がこのような扱いを受けているなど許容できない。今すぐパーシバル伯爵に掛け合って
「はあ」
「なんだその気の
勢い込んだセドリックの
彼は今、リスの姿なのだ。正体を信じてもらえるかわからないし、元の姿に戻れるかもわからないという意味不明の状態で、どれだけの発言力があるだろう。
アメリアは軽く
「
「大丈夫なわけがあるか!」
「本邸が
離れに追いやられる前は、押し付けられる雑用や嫌がらせは今よりもずっと多かった。
気づまりな
「セドリック様、とりあえず私は義母が持ってきた仕事を片付けますのでお好きに過ごしていてください。それが終わったら、
「…………わかった」
すっかり意気消沈したらしいセドリックは、「俺を優先しろ!」と怒り出すこともなくビスケットの
*****
「こっちが痛み止めで、こっちが
作った薬をリストと照らし合わせ、アメリアは「ふう」と息をついて顔を上げた。
大きく
「わっ、セドリック様!」
「終わったのか?」
「え、ええ。終わりました」
口にしてからハッとする。今、何時!? 時計の針は午後一時を差していた。
「申し訳ありません。昼食のことをすっかり忘れておりました」
朝食の後、セドリックは周囲を
出入りができるように窓を少し開けておき、水とサンザシの薬はいつでも飲めるように匙に掬って置いてある。その後、アメリアは作業に集中していたため、昼食はおろか、セドリックの存在自体を忘れてしまっていたのだ。
「……気にしなくていい。集中していたようだったから、声を掛けなかったんだ」
「そうでしたか。すみませんでした」
慌ててビスケットを出す。
ひとかけらを口にしたセドリックに、「この後の予定は?」と尋ねられた。
「父の部屋に薬を届けに行きます。その帰りに書庫に寄るつもりです」
「本邸には夕食時以外は立ち入り禁止なんじゃなかったのか?」
「立ち入り禁止ですが、怪しげな呪術関連の本は書庫にしかないので仕方ありません。見つからないようにこっそり入れば大丈夫でしょう。この時間なら、リンジーもキースもまだアカデミーから帰ってきていませんし」
お
「そうか。それなら俺も行く」
「え」
「ついていってはいけないのか?」
行く気満々らしいセドリックにアメリアは肩を竦めた。
「構いませんが……、見つからないようにしてくださいね」
「もちろんだ。お前のポケットに俺を入れてくれ」
「……わかりました」
片側だけが不格好に重くなったので、反対のポケットにも適当に物を突っ込んでバラン
スをとった。特に使う予定のないピンクソルトの入った
離れを出て、父の
(セドリック様、この家に
正直言って、アメリアにとってセドリックはどうしても救いたい相手というわけではないため、彼に関することは日々の雑務の後回しになってしまう。公爵家の
(毒を盛られたと騒いでいたし、周囲の人のことを疑っているのかしら……)
ポケットの中で大人しくしているセドリックとは会話を
「伯爵は不在か」
「ええ。そのようです」
アメリアは
そして一方通行のポストはもう一つある。
こちらはアメリアが鍵を持っている。中に入っている
「それは?」
「
「……? パーシバル伯爵からお前への賃金ということか?」
「そういうことです」
部屋を出ると、ちょうど父が戻ってきた。
「あ、お父さま。頼まれていた薬を届けに来たところです」
「…………」
父はアメリアを
返事がないのはいつものことだ。アメリアはその場を離れ、書庫に向かう。
父がいなくなるとリスは再びポケットから顔を出した。
「お前、伯爵と喧嘩しているのか?」
「いいえ? お父さまはいつもあんな感じですよ」
「なぜ無視をされたんだ」
「一応私の方は見ましたので、無視はしていないかと思うのですが」
「……意味がわからん」
セドリックは
「なぜ伯爵はこんなに回りくどいことをする? お前を本邸に住まわせ、妹弟と同じように食事や
「……これは私の勝手な
アメリアは階段を下りながら推論を語った。
「父は継母が
「夫人の顔色も
「……まあ、アカデミーには通わせてくれましたし、根は悪い人ではないんじゃないですか?」
適当な返事をしながら書庫の扉を開ける。
パーシバル家所有の書庫はかなり広く、整然と並べられた
セドリックもその蔵書量の多さに驚いたようだ。
「これはすごいな。公爵家以上だ」
「古い
ただ、なんでもかんでも門外不出にしたがり、
アメリアは禁書の棚に近寄った。
「この
「魔女のレシピ?」
「ええ。飲んだらヒキガエルになってしまう薬とか、背中から
「『飲んだらヒキガエルになる薬』! ほら見ろ、やはり存在するんじゃないか!」
セドリックは
「
医者の家系であるセドリックからしたら
案の定、彼は
「いかにも魔女っぽいな」
「そういうおかしな薬を作ろうとしたご先祖さまがいたせいで、きっとパーシバル家は魔女の家だと渾名されるようになったんでしょうね」
こんなものを作っていたら不気味
「
年代物らしく
【この本を開きしもの、
全ては
E・F・P】
ちらりと中を見たセドリックは顔を
「なんだ、この
「さあ……。薬は用量を間違えれば毒にもなるぞ、というご先祖さまの
PはパーシバルのPだろう。
中は薬草の図録のようだった。
かなり詳しく、アメリアが聞いたことのない薬草の名前もかなりある。めくっていくと、『解毒薬』の分類に行き着いた。「うっ」と呻き声を上げたアメリアに、セドリックも本を
「どうした?」
「いえ……。セドリック様を戻すのに使えそうな薬草を
「本当か! どれだ!?」
「これです。この人魚草という薬草。強い毒消し効果がある薬草で、体内に入ってしまった毒素の
「が?」
「これを手に入れるのはほぼ不可能に近そうですね。西方の島国、しかも水の綺麗な場所にしか生えず、さらに乾燥すると効能が
「…………」
船、旅費、時間……。セドリックもアメリア同様に「うっ」と呻いた。
「し、しかし、どうしてもそれしか方法がないということになれば……」
「そうですね、その際は採取に行きましょう。費用は公爵家持ちでお願いします。ひとまず、他に代用できるものがないか調べますね」
「頼む……」
セドリックはしょんぼりと背中を丸めて落ち込んだ。
「ちなみに、毒を盛られたと思わしきワインから妙な味がしたとおっしゃっていましたが、具体的にはどんな感じだったんです?」
セドリックは
「……甘かった。そう……、酸味が
「
「ぞ、臓物?」
「ええ。臓物系なら乾燥させても苦味や
「腐った果物? お、俺はいったい、何を口にしたんだ?」
想像したらしいセドリックが「おえっ」とえずく。
かと思えば、
「くそっ、俺をこんな目に
「あいつ?」
犯人に心当たりのあるらしいセドリックはもったいぶった言い方をした。
「ああ。フレディだ。フレディ・コストナー」
「どちらさまで?」
「なぜ覚えていないんだ! 婚約してすぐにうちで開いたパーティーで
一度紹介されたことがあるらしいが、アメリアの記憶は
「そのフレディさんから恨みでも買っているのですか?」
「
「……
ぱらぱらと古い本をめくっていく。アメリアの興味なさげな態度にセドリックは怒った。
「お前……、本当に冷たい女だな! 俺がこのまま元に戻らず、家督をフレディに
「別に困りません」
「困らないわけがないだろう! 結婚する相手がいなくなるんだぞ!?」
アメリアは書物のページを目で追いながら答えた。
「私は元々
「こ、婚約破棄? 修道院?」
セドリックはなぜか落ち着かない様子で右往左往している。
「……っ、キースたちの話は噓ばっかりではないのか? 『お前が結婚に乗り気ではない』と俺に
「ああ、それは噓じゃありませんよ。『私ではセドリック様のお相手は務まりません』と、
婚約を辞退したい
「な、な、な」
セドリック側から断るならともかく、アメリア側が辞退まで申し出ていたと初めて知ったらしい。さすがにプライドが傷ついたのか、怒りでぷるぷると震え出した。
「ふざけるなよ……! 俺だってお前のような女など、願い下げで……」
「――静かに!」
アメリアは
ギィッと扉が開く音が聞こえたような気がしたのだ。
(お父さまかしら。だったら無視されるだけで済むけど、お
棚と棚の間を見回るようにして近づいてくる足音……。
顔を出したのはキースだった。
「あれ? ぼそぼそ喋り声が聞こえると思ったら姉さんじゃないか」
きょろきょろと周囲を
「誰と喋っていたの? 誰かいたよね?」
ポケットの中ではセドリックが身を固くしていた。
「誰もいないわ。私一人よ」
「あははっ、じゃあひとりごと?
「…………。キース、あなた、アカデミーは?」
「今日は学術発表会だよ。僕の出番は午前中で終わったから早く帰ってこられたんだ。それより……」
キースは目ざとくアメリアの手元を見た。
「禁書は、本邸から持ち出し禁止だから」
「…………」
「わかってる? 自分が
返して? と手を出すキースに、アメリアは大人しく本を
取り上げるように奪い取ったキースは、そのままアメリアの頭に本を振り下ろす。角がガツンと思い切り当たり、アメリアの
「っ!」
「ねえ、姉さん。
「は……?」
「今日の学術発表会で質問されちゃった。姉さんのメモだと三日目が一番いいって書いて
あったけど、もうちょっと詳しく書き込んでおいてもらえないと困るなあ」
「!」
アメリアはハッとした。
作っている
「キース、あなた、また私のレポートを
「盗む? この家の物はすべて僕のものだよ? 庭においてもらっている分際で生意気な態度をとるのはやめた方がいい」
「きゃっ!」
突き飛ばされたアメリアは転んだ。
ポケットに入っているセドリックをつぶさないように身体を
「ああ、やだやだ。
「っ……」
「ちゃーんといい子にしていたら、
アメリアは追い立てられるように書庫から
*****
「なんっっっだ、あいつは―――――ッ!!」
アメリアの部屋に戻るなり、セドリックは机の上で
ふかふかの毛は逆立ち、愛らしく丸まっていたしっぽは猫のようにぴんと直立している。
「リスって、怒るとそんなふうになるんですね」
「どうでもいいことに感心している場合か!?」
セドリックは怒り心頭といった様子で歩き回っている。
「キースめ……、あんな嫌な奴だとは知らなかった!」
セドリックはアメリアを指差して
「お前もお前だ。弟にやられっぱなしでいるなど情けない! お前が文句を言わないから、キースを図に乗らせているのではないのか!?」
「仕方ありません。弟はまだ十三歳ですから、物事がうまくいかないと
キースはパーシバル家
幼い頃から成績優秀でなんでもそつなくこなす弟が、決して天才ではないことをアメリアは知っている。周囲の期待に応えなくてはならないというプレッシャーもあるだろうし、当たり散らしやすいアメリアに
そんなことより、とアメリアはペンをとる。
「本はキースに
お喋りなんて後回しだ。
効果がありそうだと思った材料を書き出しておかないと忘れてしまう。
「ええと、
「おいっ! まだ俺の話は終わっていないぞ!」
「釜に入れる順番は……。ああ、そうだ。後でサンザシの薬も濃度を上げてみなくちゃ……」
「こんなのおかしい。おかしいぞ。なぜお前は平然としていられるんだ……!」
無心で手を動かすアメリアを見ながら、セドリックはぶつぶつと文句を言い続けていた。
(おかしいと言われても)
これがアメリアの五年も続く日常なのだ。
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