第1話 京の桜(2)


何か言わねばと思うのだけど、糸口がつかめない。

通夜帰りのように黙りこくったまま歩くふたりの頭上に、やがてみごとな桜のトンネルが現れた。白川筋とは打って変わってパリを思わせるビルの谷間に、満開のソメイヨシノの並木道が続いている。


「すごいなぁ……」


たわわに花咲いた枝の間から、すみれ色の空が覗いていた。花房の輪郭を濃くして、いっそう白く清浄に咲く桜。誰もがみな自然と足を止め、一葉の絵はがきのような天蓋をうっとりと仰ぎ見ている。


「この間、義姉さんがお弁当を作ってくれはってなぁ」


見上げたまま千世は言う。話題が飛ぶのはいつものことだ。


「あのひと、自分が壊滅的な料理下手ってことに気づいてないんちゃうやろか?」


と、ちょと首を捻ると、気にするほどでもない帯揚げの乱れに眉間を顰め、帯の間に親指をぎゆぅっと力一杯押し入れて、唇をへの字に曲げて歩き出した。


「だいたい、お兄ちゃんが悪いんよ。えづきそう(吐きそう)になってるくせに、無理して食べてあげはるさかい。なかなかパンチの効いた味やとか、台所だいどこくらいはおかあはんに任せといたらええんやで、とか言うたかて、滋賀の人には通じんのよ。そやから、はっきり言うたったん。うちらの口には合わへんって。そしたらな、おかあはんにえらい叱られてしもうたわ」


千世の母は見た目通りおっとりと穏やかで、彼女からお小言さえ聞いたことがないらしい。けれど、怒るとあのほわほわした口調で目だけが笑っていないから、心底恐ろしいのだと言っていた。


「そやけど義姉さんたらめげんのよ。今日は千世ちゃんのお口に合うよう気張って作ったー、なんて笑顔で言われたら、持ってかへんわけにいかんやろ? 案の定、開けたとたん、彩りは個性的やしえらい臭いやし、吃驚して咽せたわ! しゃーないし屋上で食べよう思うて行ったらな──」


──食べるんだ。


言いたいことは言うけれど、相手の思いやりや気遣いも素直に受け止められる。そんな千世の屈託のなさが、澪には好ましいし羨ましい。


「いつもの合コンメンバーらがいはってな、ホワイトデーの夜に、1月の合コンに誘ったうちの後輩とカレが、麩屋町の和食フレンチに仲良う腕組んで入って行くの見たって話してたんよ。藤川にバレたらえらいこっちゃって。本人、耳ダンボで聞いてるっちゅうの」


ハハハと渇いた笑い声を上げるから、どうリアクションすればいいのか澪は困じてしまった。


会ったことはないけれど、確か名前は、タカスギさん(それは前の彼氏だっけ?)。俳優の何とかに似ていて、自然にレディーファーストができるスマートなひとだと、天にも昇る調子で初デートの報告があったのは二月ふたつきほど前のこと。バレンタインデーには金沢旅行に行ったと土産ももらった。


「そやしな、帰りに呼び出した」


千世が仁王立ちに立ちはだかる、迫力ある映像が目に浮かぶ。決して高慢でも勝ち気でもないけれど、腹に溜めては置けない質だ。


「そしたら──」


赤い和傘のガーデンパラソルの下で足を止め、両指を絡めて科を作り、澪に向かって上目遣いに目をぱちぱち、舌っ足らずのアニメ声で、


「でもぉ、次の合コンで偶然彼と再会してぇ、元々本命は私やったって言うからぁ。うふっ」


そのまま笑顔がフリーズし、不気味な一拍のあと頬肉がぶるっと震えた。


「カノジョがいるのに合コンに行くか!」


──そっち?


小石でも蹴るように歩き出した千世の上前が返って、鮮やかな柿色の八掛が、マタドールのムレータ(布)のように翻った。


「それにあいつな、ホワイトデーの日は出張やて、嘘ついてたんよ。嘘つきは泥棒のはじまりや。あの店かてうちが紹介したったのに、他の女連れて行くやなんて最低! あんなかっこつけ、あざとかわいこぶりっ子にくれてやったわ」


澪は白い足袋の爪先に遠慮がちな息を吐いた。


千世の恋の終わりはいつもあっさりしていて、エレガントがキザに、博識が知ったかぶりに、話し上手がチャラいに代わった挙句、〈何か思うてたのと違う〉。

そして決まって最後にこう宣言する。〈次こそ、運命の赤い糸を見つけたる〉。

起き上がり小法師のようなたくましさ。


だけど今回はさすがにきつい。横恋慕した後輩と毎日顔を合わせなければならないなんて。

それでも逃げ出さない千世は、意地だとしてもやはり心臓が強い。ましてや、後輩の方は居づらくないのだろうか? 恋の勝者になっても、そこは女子、よくない陰口が立つのは必至だ。




──どうしてみんな、そんなに恋愛がしたいの?


澪にはわからない。

誰かを慕う気持ちはわかる。慈しむ気持ちもわかる。けれど、わざわざ恋愛という戦場へ赴き、他者を傷つけ、己も苦しみ、それでも想いを成就させたいと願う彼女たちの気持ちが、理解できない。


この世に不変なものなどない。桜の花が散るように、生き物は息絶え、建造物は朽ち果て、星さえも燃えつきる。人の心も移ろうのに、幻想にも似た一過性のときめきに浮かされ、周りが見えなくなることの方が澪にはおそろしい。

人は、傷つけたことは忘れても、傷つけられた憾みは忘れないものだから。


それなのに千世は恋をする。失敗しても、裏切られても、傷つけられても、何度でも何度でもまた恋をする──。


こういうとき、どんな言葉をかければよいのか……。ありきたりの励ましや慰めでは、かえって傷口を深めてしまいそうで、言葉を探しては相手の捉え方を考えて迷っているうちに、結局いつも何も言えなくなってしまう。



「よっしゃ! 今日は呑むえ~」


たくましい二の腕が覗くのも構わず、千世はやけくそ気味に拳を頭上へ突き上げた。


つられて顔を上げた澪の瞳のなかで、桜のドームがさわっと震え、ひとひら、ふたひら、零れ桜が蛍のように夜空へ舞った。

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