桜ふたたび
美里 好春
第一章 京都
Ⅰ.京の桜
第1話 京の桜(1)
「きれいやなぁ」
ほころびかけた澪の唇より先に、
京都祇園白川、対岸のお茶屋のすだれから行灯の灯りがこぼれる夕まぐれ、辰巳大明神の朱塗りの玉垣の上に、桜の帳が匂やかに懸かっている。ライトアップの光が薄紅色の花びらに淡く溶け込んで、花木が宝珠を抱いて玲瓏と輝いているようだ。
敷居の高かった京都屈指の花街も、今では超人気の観光スポット。殊にこの季節には、古い町屋が連なる石畳の路に、枝垂れ柳と満開の桜という、インスタ映え目当ての外国人で賑わしい。
人々は古都の風情を求めて来京するらしいけれど、これでは本末転倒ではないかしらと澪は思う。
澪とて、千世に引っ張って来られなければ、京都の桜狩りの混雑など敬遠していた。そのうえ慣れない着物だから、裾捌きひとつギクシャクして何だか落ち着かない。
うら若き女性はもちろんのこと、カップルやかなり太めの外国人まで、着物で京の街を散策する姿など珍しくもないけれど、細い首となで肩に、手描き京友禅の華麗な桜散らしがよく映えて、色白で切り揃えた前髪が〈日本人形みたいに上品や〉と、千世の父も太鼓判を押してくれた。
むろん、後から後から湧いて出るそこいらのレンタルショップとはモノが違うと、老舗呉服問屋の矜持があるのだろう。
「なぁ、澪」
声をかけておきながら、千世は仰向きスマホを横にしたり縦にしたり、構図を取ることに夢中になっている。せっかく小一時間もかけてああでもないこうでもないとこだわったサイドバングから、立派なエラが露わになっているのに構わずに。
「桜の下には屍体が埋まってるって、あれ、ほんまやろかぁ?」
明日の天気でも聞くように、不気味なことをさらりと尋ねるものだから、すぐには理解できず、澪は小首を傾げた。
「あまり美しいと、この世のものとは思えなくて、かえって禍々しさを感じるってことかな?」
「ふ~ん、やっぱ澪は発想が芸術的やわ。でもなぁ、桜が毎ねん毎ねんきれいに花を咲かすんは、死んだ人の業や欲を養分にしてんやて、お祖母ちゃんが言うてたえ」
「それは……こわいね」
「そやから京都には、立派な桜が多いんよ」
うふふっと、自虐と得意が混じった笑みを浮かべ、千世はスマホを帯の間に挟み込みながら歩き出した。
山吹色の結城にお洒落心のある縞の博多帯、萌葱の半襟を差し色にした大胆なコーディネートを、大柄な彼女ならではモダンにすっきりと着こなして、茶道・華道・日舞と和装の機会も多いから、さすがに所作も熟れている。
千世とは中学・高校の同級生で、社交家で友人も多い彼女と、特に親しくしていたわけではなかった。ただ、転校生というよそ者に最初に声をかけてくれたのが彼女で、一人でいることが多かった澪を何かと輪の中に引っ張ってくれた。
卒業して付き合いは途絶えていたけれど、3年前に同窓会があり、幹事の千世に半ば強制的に出席させられてからは、たびたびこうして誘われるようになった。
(本人曰く)家にいると退屈で死にそうな千世にとって、恋人もなく遊び仲間もなく、趣味や特技すらもたない澪は、声をかけやすいのだろう。
春風がさやいで、澪の回りに惜しげもなく花を降らせた。
そっと手のひらを差し伸べると、捕らえたと思った花びらは、蝶のようにふわりと巻いて、石畳へ逃げていった。
桜はただ季節の理に従って生きているだけなのに、人びとは今が盛りの花に心躍らせながら、その終焉を思い浮かべている。散るからこそなお美しいと。
澪は小さな息を吐いた。
黒髪を編み込みアップにした項に、凛と張った清楚さを感じさせるのに、きれいな二重の黒目が勝った明眸の奥には、花の寂しさが映し込まれていた。
ふと、誰かに見られているような気がして、澪は睫を静かに瞬かせ目を上げた。
白川の清流に架かる小さな橋、巽橋の向こうから真っ直ぐにこちらへ向けられた視線がある。
花を愛でている風でもなく、人待ちしている様子でもない。外国人だろう、でも、カシミアグレーのビジネススーツは観光客ではなさそうだ。
不思議なことに、靄んだ暮色の小路は溢れんばかりの花人たちで騒がしいのに、彼のまわりの風景だけがはっきりと、そして静寂にみえる。無造作に髪を掻き上げたその肩から、名残惜しげに離れていく一片の花びらまで、スローモーションのように流れていった。
──何を見ているんだろう?
視線の先をたどって背後に首を回しかけたとき、
「澪!」
弾かれたように澪は顔を向けた。千世がこっちこっちと高く手招いている。一際華やかな枝垂れ桜の枝下で、絶好の撮影ポイントを陣取って甜としているから、迷惑顔の集中砲火を浴びていた。
「ごめん」と小走りに駆け寄って、澪は首を傾けた。千世の視線は澪の肩越しに止まっている。瞳孔が開き、唇が薄く開いている。振り返ってみても、特に目を引くものは見当らない。
千世は熱視線を憚ることなく、
「めっちゃイケメンのガイジンさんがいてはる!」
早くどけとばかりに次々とたかれるフラッシュに、申し訳なく頭を下げながら、澪は興奮気味の千世の腕を引っぱった。
弾みで歩き出した千世は、それでも首を後ろに向けたまま、今にも足を止めそう。
「そないに引っぱらんといてぇなぁ。あのひとずうっとうちのこと見てはったし、声かけようとしてはるんやないかな?」
やれやれと呆れたような苦笑で受け流され、
「ほんまやて!」
言いながら勢いよく澪の手を振り払い、回れ右をすると、
「ほら、こっちに向かって来はる。ああ、邪魔や邪魔! 見えへんやないの!」
罪のない通行人たちにシッシと追い払うような仕草をして、
「どないしよ、これって運命の出会いやんな?」
期待に頬を上気させ、そわそわと襟合わせを整えはじめる始末。
これまで何度運命の出会いを迎えたことだろう。
澪は思いこみの激しい千世を説くことは早々に諦めて、白川のせせらぎに目を移した。畔から腕を伸ばした桜がしんしんと花びらを降り注ぎ、終わりのない花筏を流していった。
「あああっ‼」
辺りに響く声に、澪が跳び上がって驚いたのと同時に、川辺に休む番の鴨が騒がしい声を上げ、小波が立って花の浮き橋が散り散りになってしまった。
「見うしのうてしもた〜」
千世は地団駄を踏んで、それから眉をルの字に歪め、本当に無念そうに長息する。
澪は、半ば同情、半ば安堵の笑顔で、再び千世を促して歩き始めた。
千世はなおも未練がましく何度も何度も前屈みになったりのけぞったりして振り返り、ついには、
「ちょっと戻ってみようかな? あそこの切り通しに入らはったかもしれへんし」
澪は焦った。この調子だと本気で後を追いかけそうだ。
25歳を過ぎてもまだ〝白馬の王子様との運命の赤い糸〞を信じてやまないロマンチック症候群にとって、このシチュエーションでの出会いはドラマティックな恋の幕開け。きっと今、千世の頭の中では、キューピットがラッパを吹き鳴らしている。これが少女マンガなら、瞳のなかにキラキラとハートマークを飛ばせていることだろう。
「彼氏に悪いよ?」
「あんなん、別れたわ」
「え?」と、向けた顔に、さほど驚きはない。
惚れっぽい千世は熱が冷めるのもまた早い。あっという間に恋に落ち、好きになったら猪突猛進、盲目的な分、些細なことで(本人にとっては重大事らしいけれど……)夢から覚めたように関心を失ってしまう。
その恋愛体質は中学時代から変わっておらず、好きなひとを追いかけている自分自身に恋をしているのではないかとさえ澪は思ってしまう。
「あいつな、二股掛けててん」
「ええっ?」
とたん、腕を引き寄せられた。危うく配達中のバイクに轢かれるところだった。
「あ、ありがと……」
千世は口と鼻とを袂で覆い、今にも噛みつきそうな目つきで、花びらを舞い上げて遠ざかる狼藉者を睨みつけている。
正確にはこの石畳は車道で交通の邪魔はこちらの方だから、と思っていても、口には出せない澪だった。
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