第2話 春風のせい
春の陽がすっかり暮れ、鴨川の流れには対岸の店の朱色の灯りがゆらめいていた。
四条大橋から〝等間隔に並ぶカップル〞を見下ろし、八つ当たりの毒を吐く千世の声を、澪は仕方がないかと川風に流し、川のほとりに目をやった。
上流の北山で雨があったのか、川瀬の水草がいつもより速い流れに辛抱強くたなびいていた。
橋を渡りすぐ右へ折れると、
四条通と三条通のほぼ中間、青い千鳥が描かれた〈通り抜けできまへん〉の案内板が掛かった
ひと一人通るのが精一杯、元お茶屋の二階下を通した路地奥に、ぽつんと一軒、灯が点った赤い鴨川千鳥の白提灯、〝里〞と葡萄茶に染め抜かれた麻暖簾が揺れていた。
引き戸に手をかけ振り返った千世が、おやっと澪の頭の後ろを覗き込むように背中を反らせた。
「澪、かんざしは?」
澪は襟足に手をやって、眉を曇らせた。
撥型の鼈甲に胡蝶の蒔絵と螺鈿、本真珠をあしらったかんざしは、祖母の唯一の形見だ。路地裏に入るとき、巨漢の外国人とぶつかったから、弾みで落としたのかもしれない。
「ごめん、先に入ってて。探してくる」
言うが早いか踵を返し、忙しく地面に視線を這わせながら来た道を辿る。辺りは足下もおぼつかない薄暗さ。木壁のぼんぼりと、数軒の玄関灯だけが、頼りない灯りを落としていた。
やはりあのときかと、路地の先に目をやると、男性のシルエットがあった。案内板を見上げ、狭い入り口を塞ぐように立っている。
その手に見覚えのある影を発見して、澪は思わず走り寄った。
「すみません、あの……、それ……」
食い入るように見つめる目の前で、長い指先がかんざしをくるりと廻した。真珠の珠が妖しく光を返した。
「君の?」
静かな声だった。甘く低く、凛と厳粛な響きをもっている。天空から届いたのかと、澪は仰ぎ見た。
「美しい髪飾りだ」
差し出されたかんざしに手を伸ばすことも忘れて、澪はその瞳を見つめていた。
男の瞳は、吸い込まれそうに透明なアースアイ。
──きれいな瞳……。
瞳孔の周りに微かなオレンジのフレア、アイスグレー、ベビーブルーと透き通った色が溶けあうことなく美しい放射線を描いている。
人知れぬ雪の森、辺りの光を吸い込んでゆく冷たく澄んだ湖のよう。美しいけれど、その湖底には、追い求めても決して充たされることのない、哀しいほどの孤独が沈んでいる。魂の置き処を捜して、長いあいだ流離っているみたい。氷河に涙があるのなら、こんな色をしているのかもしれない。
見つめ合う頬を微かな春風が撫でた。
ほんの一瞬。──まるで時が止まったかのような一瞬だった。
『Mr.Arflex!』
白昼夢から引き戻されて、澪は吃驚した顔を声の方へ向けた。
スマートフォンを握りしめた中年男性が、通行人を器用に追い抜き走り寄って来る。
糊の効いたワイシャツ、几帳面に結ばれたネクタイ、瑕も汚れもない革靴、ピンと胸を張った自信に満ちた風体から、エリートビジネスマンに見える。それが嫌みにならないのは、太くきりっとした眉と濁りのない大きな瞳に、内面の廉潔さが滲み出ているからだ。
息せき切って駆けつけたのか、引き締まった顎先から汗が一筋伝い落ちた。
『先斗町にいるって、いったい何のために!』
ついて出た語気の荒さに己で驚いたのか、男はとたんに恐縮して、今度は冷や汗と変わった額の汗を手の甲で拭った。それから一つ息を継ぎ、抑えた声で話しかける。話しかけるというより、何か必死に懇願しているような、差し迫った雰囲気だ。
対して一方はけんもほろろという感じ。怒りも不快感もない感情を置き忘れたような無機質な声に、今さっきと同じ人物なのかと、澪は瞳だけを動かし彼をうかがった。
スラックスのポケットに片手を突っ込んで、やや顎を引いているのは相手の目線に合わせているからか。外国人の年令はわかりにくいけれど、日本人らしき男性よりはずいぶん若そうだ。
その立ち居姿に見覚えがある。巽橋で見かけたひとだ。
間近で見ると、すっきりと通った鼻筋、はっきりとした二重の目、くっきりとラインを描いた唇、完璧な黄金比率の美形で、均整のとれた肢体はカッセルのアポロン像を彷彿とさせた。
体温を持たない大理石の印象を与えるのは、最高級のダイヤモンドのような、冷たく冴えた瞳のせい。オールバックの髪は少し癖毛のオフブラックで、肌は褐色に近い。それなのに虹彩だけ色素が薄いから、よけいにミステリアスに感じる。
その瞳だけがふとこちらへ動いて、澪はとっさに目をそらした。
まるで氷柱。見つめられたら、相手どころか辺りの空気さえ一瞬で凍らせてしまいそう。
その視線をまともに受けながら、男はまだまだ食い下がっている。そのたび情動のない短い言葉で返されてしばしば絶句、目を泳がせ、ついには威圧されたように、半身になりながら半歩引き下がってしまった。
助太刀を求めるような視線を澪に送りながら。
唖然とやりとりを聞いていた、というよりその場で動けずにいた澪は、はっと目を瞬き、劣勢の彼を気の毒に感じるより、いわんや助勢しようなどと思いも及ばず、ただただ今さらながら自分の立ち位置に困惑した。
早口な英会話は理解できないけれど、雰囲気から彼を連れ戻しに来たことはわかる。道行く人が振り返り振り返り、好奇の目で盗み見しているのは、エリートサラリーマンとイケメン外国人が女を廻ってトラブルになっている──、とでも映っているのかもしれない。澪が着物姿ということがよけいに人目に立っていた。
澪は関わり合いを避けようと、じりじりと後退った。
回れ右をしようとしたその瞬間、澪の体は彼女の意志とはまったく逆方向へと引き寄せられていた。
『I'm on a date.(デート中だ)』
人質でも取るように背後から片手で澪を抱き押さえ、イケメン外国人は平然と言う。
「日本ではこう言うのだろう? ──人の恋路を邪魔する奴は、犬に喰われて死ぬがいゝ」
澪は目をパチクリさせた。何が起こったのかわからないけれど、一つだけ──。
──きれいな日本語だけど、使い方を間違っている!
『あとの処理は君に任せた』
男は澪の肩をくるりと返して、押し出すように歩きはじめた。そうして、開いた口を閉じることさえ忘れている相手へ、まるで判決を下すが如く肩越しに言った。
『1時間後に報告を』
❀ ❀ ❀
澪は茫然と歩いていた。
思考回路は完全に停止している。ただ背後からの無言の圧に押されて、否応なく足が前へと進んでいた。
「行き止まりだ」
パチンと指を鳴らされたように、澪は肩を跳ね上げた。目の前に揺れる千鳥の提灯、ちょうど〝里〞の店門だった。
「この店?」
頷きかけてギョッとした。彼はもう麻暖簾を掻き分け、格子戸を引いている。
「あ、あの……?」と、顔を向け、澪は息を詰めた。
鴨居の高さに上体を屈め、顔を振り向けたセクシーな唇が、触れる程の位置にあった。ドキドキと胸の鼓動が相手に伝わってしまいそうで、頬が熱くなる。彼の体から甘い香りがして、何だか頭がぼんやりしてしまう……。
「助けられた礼をしたい」
「いえ、助けては──」
「巻き込んだ、と言った方が正しいか」
男は一人で言ってひとりで納得している。
「あ、でも……、それは……」
「何か問題でも?」
ニコリともせずに言うから、尋問されている気分になってしまう。
──これは一種のナンパなの? それとも何か勘違いされるようなことを、わたし、した? さっき目を合わせてしまったから……? まさか? でも、相手は外人さんだし……。
男の手がエスコートするように背中に触れて、澪は声にならない小さな悲鳴を上げた。
それでも飛びかけた思考を引き戻し、頑張って背筋を突っ張り無言の抗拒を示したけれど、相手は涼しい顔をして、先を譲るようにどうぞと手のひらを前へ伸ばすのだった。
──はっきりと言葉にしないと、外人さんには伝わらない?
元から口下手で、断り下手で、日本人相手でも誤解されてしまうのだ。ここは強い姿勢で断らなければ。
澪はヨシッとあるたけの度胸を振り絞り、
「あのぉ──」
後ろを振り仰いだとたん目が合って、慌てて顔を戻した弾みで敷居を越えてしまった。
狭い間口だ。澪が動かない限り、彼は戸を閉めることができない。春とはいえ、冷たい夜風が足下に流れ込んでくる。
春風に急かされるように、澪は奥へと進んだ。
たまたま偶然、入った店が同じだった、と自分に言い聞かせて──。
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