第3話 ヴェローナの王子様(1)
元は置屋だった京町屋の店は、玄関を入ると濡れ色の玄昌石が敷かれた広い土間があり、その先に1畳ほどの式台が続いている。灯りが映り込むほど磨かれた檜の玄関ホールには、信楽焼の壺に活けられた桜の枝が、客を微笑むように迎えていた。
たまたま偶然──。それなのに、草履を揃える項に視線を意識して、指先まで朱く染まっている。澪はあたふたと立ち上がり、からくり人形のように身を翻した。
藍染めの内暖簾をくぐると、細長い畳敷きの客室。奥へ伸びる掘り炬燵式カウンター席には、京風の総菜を盛り込んだ大鉢が並んでいる。
檜の無垢一枚板のテーブルは、〝おばんざい屋〞という京の家庭料理店にしては贅沢で、こじんまりとしているが、野の花を挿した花瓶や微かに薫る香から、店主の趣味の良さが感じられた。
「おこしやす」
澪は、あっと足をすくませた。
奥に荒組障子の丸窓があり、その手前にグラスを口に運びながら顔を振り向ける千世。すっかり忘れていた。背後には暖簾を分ける気配。前門の虎、後門の狼。
固まった澪に、
「見つかった?」
言い終わらぬうちに千世はビールを吹き飛ばして、
「あっ、あ、あ、あ、あ、さっきのイケメン外国人!」
子どものように指さす千世に、澪は万事休すと目を固く瞑った。
やはり〝巽橋=白馬の王子様〞だったか。どうしよう。とにかく今は何が何でも知らぬ振りの半兵衛を通すしかない。
「お、お待たせして、ごめん」と、千世の視線を避けるように足許に目を落とし、平静を装って席に着いた。つもりが緊張で声がかすれて上手くはいかない。
当然のように隣に腰を下ろす男に、せめて一席空けてくれればいいのにと、澪は肩を丸めた。これでは千世の追求から逃れられない。
恐る恐るのぞき見ると、彼女はあんぐりと口を開けたまま、まん丸になった目を男の横顔に貼り付かせていた。
「おこしやす。あら? お連れはんがおいやしたんどしたか?」
洗い場の麻暖簾を上げて、女将が温雅な笑顔を覗かせた。
薄浅葱の疋田のお召に孔雀青の名古屋帯、洗い物をしていたのか露草の襷を掛けている。筆で描いたような目とおちょぼ口の瓜実顔。衣紋の抜き加減が絶妙で、上品なのに艶っぽい。
「すぐにご用意しますよってに」
女将は襷の結びを解きながらにっこりと微笑んだ。
口元の小さなほくろ、ゆったりと落ち着いた口調、今ではもう少なくなった京言葉に、女将の前では誰でもはんなりしてしまう。
客席側の壁に掛けられた芸妓画と面差しが似ていて、〈女将がモデルやろう?〉と野暮な質問にも、あの口調でいなしてしまうのだから、やはり祇園で客商売をしているだけのことはある。
などと、油断していたら、千世は肩をぶつけるように澪に迫ってきた。
「よ~うやった!」
低く空気の漏れたような声。拳をグッと握り雌ヒョウのように目を輝やかせている。絶対にナンパされたと勘違いしている。絶対に友人のために引き入れてきたと心の中で万歳している。たまたま偶然は通用しない。
「みぃ〜お」
肩口を指先で連打。
「もったいぶらんと早よう紹介してぇな。英語、できるやろ?」
千世はクイクイッと顎先を上げて目配せをする。
澪は弱り顔で小さく首を振った。
「なんでぇ?」
いくら怖いもの知らずの千世でも、見るからに一般人とは違うオーラのひととお近づきになろうなど、無鉄砲が過ぎる。第一、知らない人だし。
「はい、本日の突き出しは、菜の花の御浸しと飯蛸の炊いたん。澪ちゃん、お飲み物はどうしはる?」
女将そっくりの糸目糸眉毛をいっそう細め、笑顔を向けるのは大将の慎一だ。
鴉天狗のようなシュッとした清潔な塩顔。板前姿も粋だけど、きっと着物も似合いそう。
彼を、〈大将〉と呼ぶのは女将くらいで、常連客からは〈ぼん〉、千世からは〈シンちゃん〉と親しみを込めて呼ばれている。
千世によれば、31歳・彼女なし。生粋の祇園っ子で、幼い頃から父親に厳しい料理指南を受け、京都の老舗料亭で修業を積み、5・6年前に父親が亡くなったのを機に店を継いだ、らしい。
「あ、ええっと、じゃあ、生ビールで」
「で……そちらさんは?」
慎一までもが遠慮がちに澪に訊ねる。
とたん、隙だらけの脇腹に肘の襲撃を受け、澪は息を詰まらせ身をよじった。そのとき、
「Good evening, Sir. Here’s a appetizer.(こんばんわ、こちら前菜です)」
澪と千世は、シンクロして欹てた目を女将へ向けた。
「Would you like something to drink?(お飲み物はいかがしますか?)」
間髪入れず、
「女将さん、英語できはるの!?」
女将は白魚の手をおちょぼ口にやって、
「そないに大層な……。これからはインバウンドがなんたらや言わはって、組合長はんの発案で、皆さんとすこうしお勉強さしてもろうてますのんえ」
「すばらしい!」
最悪だ。
通訳者を手に入れて、千世の暴走は目に見えている。つき合わされる女将の迷惑を思うと、本当に心苦しい。
それより問題なのは彼の態度。女将が一生懸命たどたどしい英語で料理の説明をするのを、カウンターに片肘ついた手に顎をのせ、涼しい顔で聞いている。
澪の視線を察したのか、男の口角がかすかに上がった。
──このひと……。
「澪ちゃんも、着物、よう似合うてるわ。都をどり、観てきたんやて? 退屈やったんと違う?」
慎一の口調に同情が含まれていたのは、ビジュアル系バンドの過激なコンサートやら、アイドル主演のミュージカルやら、人気イケメン選手の試合観戦やらと、千世の道楽に気弱な澪が付き合わされているのだと思っているからだろう。
今日は日舞の師匠からチケットをあてがわれ、花見ついでにと誘い出された。
「ハロー!」
澪はギョッとした。
千世は、上体を斜めに乗り出してあふれんばかりの笑顔を男に向けている。ばつ悪く首を回すと、彼は冷然と視線も向けない。
「ナイス・ツー・ミーチュウ。マイ・ネーム・イズ・チセ。ホワッツ・ユア・ネーム?」
リズムをつけた中学生英語を堂々と披露した千世は、答えない相手に笑顔をフリーズさせて、それから思い直したように、小声で澪をせっついた。
「ちょっと、あんたが聞いてえな。うちの英語では通じひんみたいやし」
通じない、以前の問題なのだけど。
「あのね、千世……」
千世は男への笑顔を保持したまま、苛々と足袋のつま先を踏み叩いた。
「もったいぶらんと早よ聞いてえなぁ」
「でも──」
「は・よ・う!」
「このひと、日本語できるから!」
「まじでぇ?!」
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