第3話 ヴェローナの王子様(2)


あっと、澪は口を押さえた。

女将はビールサーバーのレバーに手をやったまま、慎一は大皿に菜箸を伸ばしたまま、驚いたように澪を見つめている。

ただ一人、当人だけが、無表情を変えなかった。


「あんた、何ですぐ言わへんの? いけずやなぁ」


何て間の悪い口だろう。見ず知らずの無関係を押し通すつもりが、中途半端に挫折。これでは女将に恥をかかせただけ。意地が悪いと誹りを受けても仕方がない。


「ごめんなさい……」


項垂れた耳元で、(やれやれ)と小さなため息を聞いたような気がした。


「誤解です」


彼は言った。


「先ほど、troubleにあっていたところを彼女に助けられ、ちょうどこちらで食事をすると聞いてご一緒させていただきました。思いがけず美しい女将に会えて、luckyでした」


彼はちっとも心のこもっていない声ですらすら言って、女将にきれいな瞳を向けた。女将が赤らめた頬を少女のように両手で挟むのを見て、慎一があきれ顔をした。


「お世辞に決まってるやないか、ええトシこいて」


澪はあきれるより感心してしまった。よくそう巧言が繰り出せるものだ。


「彼女とは短く言葉を交わしただけでしたし、あなたの発音が美しかったので、言い出すtimingをなくしてしまったのでしょう。悪意はありません。そうだね?」


流暢に同意を求められ、澪は呆気にとられた。

ぎりぎり嘘は吐いていない。確かに言い出すタイミングを逸していた。

だからって、そんな風に庇われたらかえって誤解を招くし、それにまるで自分には非がないみたい。こちらが言い出せないのをからかっているようにも感じたのに。


「こちらの方こそ早合点してしもうて、ほんますんまへんどした」

「そうそう。ええ勉強さしてもろうて、よかったなぁ、女将さん」


いいひとたちだ。感謝と同じ重さで、小狡く難儀から逃げていた自分がいじましい。


「ほんまや。澪のせいで遠回りしてしもたけど、一件落着と言うことで、ほな、乾杯しましょか?」


何が一件落着したのかわからないけれど、千世が斜め45度に首を傾げるのを見て、澪はああっと天を仰いだ。

彼女の戦闘開始の合図だ。こうなるともう手がつけられない。南国の鳥の求愛行動のような、見ている方が恥ずかしくなる情熱的なアプローチが始まる。


さっそく千世は、最上級の笑顔を彼に向けて、そして半オクターブは高い声で、


「改めまして、ち・せ、で~す。よろしくね♡」


礼儀知らずなのか、名乗る気がないのか、男は冷たい顔で見向きもしない。


微妙な空気が流れた。


けれどそんなことでめげる千世ではない。周囲の懸念などものともせず、出陣式の乾杯が如く、澪の顔の前で彼に向かってグラスを掲げた。


いきなり袖の襲撃を受け、澪は面食らって仰け反った。あっと思ったときには手後れだった。着物に制約された動きは緩慢で、尻を支点に重力に引っ張られるように倒れてゆく。とっさに目の前の袖をつかもうとしたとき、ふっと、体が浮いた。


──え?


男の腕がさり気に背中を支えている。目が合って、澪は酸欠の金魚のように口をぱくつかせた。


当の加害者は、澪の上に被さるようにますます男に顔を近づけて、


「お名前は?」


男は、茹で蛸のように赤面している澪に視線を置いたまま、言った。


「……J」


「ジェイ!」


親切に上体を戻されて、澪は恥ずかしさに顔を覆った。お礼を言わなければとわかっていても、声が喉の奥に引っ込んで出てこない。


そんな澪の大混乱などまったく意に介さず、千世は、名前を聞き出せればこちらのもの、うふふと、勝算ありげに微笑むのだった。



❀ ❀ ❀



それからは完全に千世のペースだった。


「さっき祇園白川でお会いしたの、覚えてはりますぅ?」

「どちらの国の方ですか? アメリカ? フランス?」

「きれいな瞳ですね。グレー? 少し水色もかかってるみたい。黒髪に薄い色の瞳って、不思議やわぁ」

「お箸の使い方もめっちゃお上手。あ、もしかしてハーフとか? 日本に住んではったりして?」


上体を乗り出すどころか、すでにすっかり澪の前に体を被せて、機関銃のように質問攻めにする。


彼は眉一つ動かさず、無機質な横顔を向けたまま食事を続けている。

それでも諦めない千世の根性も凄いけど、まったく動じない彼もたいがい図太い。千世の無遠慮なしつこさに、いつ席を立ってしまうか、まわりがハラハラしているのに。


「千世ちゃん、飲みもののお替わりお入れしまひょか?」


こういうときはやはり女将。さりげなく無理なく助け舟を出してくれる。

閉じることのなかった千世の口がはたと止まった。


「ようよう而今じこんの斗瓶取りが入りましたんえ。呑みたい言うてはりましたやろ?」


「WAO! もちろん、オフコース」


なぜか欧米口調で、一旦は食い付いた千世が、何やら妙案を思いついたと言う風に手を叩いた。


「でもやっぱここはシャンパンかワインでしょ。シンちゃん、ええのん見繕うてぇな」


これにはさすがの慎一も眉間にしわを寄せた。


「うちみたいな店にはワインセラーもなければソムリエもおらんよ」


彼の背後の棚には、20種類以上のこだわりの日本酒が整然と並べられている。ここはの店だ。


千世は耳も貸さず、「今夜お会いできたことに感謝させてくださ〜い」と、ジェイへ秋波を送っている。


さすがに窘めようと澪が口を開く前に、「そや」と思い立ったように奥に引っ込んだ女将が、すぐに黒いボトルを捧げ持って戻ってきた。


「酒屋が試しに置いてかはったのがあって……。これでよろしおすやろか?」


申し訳なさそうに差し出されたボトルに、無表情の片眉が微かに上がったように見えた。


《Amarone della Valpolicella Classico.》


ネイティブな巻き舌の発音。


「すっごぉい! ワイン、お詳しいんですねぇ。これは? ボルドー? ブルゴーニュ?」


予想どおりしかとする彼に、女将がすかさずフォローして、


「イタリアのワインなんどすて。ヴェローナの王様 呼ばれているのやて言うてはりましたえ。そやけど、これに合うたグラスが……」


これでどうだとばかりに、慎一が棚から慎重に取り出したのは薄玻璃の脚付きタンブラー。先代から譲り受けたと聞く秘蔵の逸品だ。

いつも穏やかな細い目の奥に小波が立って見えて、澪は申し訳ないと目で詫びた。


ジェイは慣れない手つきの女将からソムリエナイフを引き受け、巧みにキャップシールを外している。

美しく流れるような所作で抜栓する姿に、千世は月下のピアニストでも見つめるかのようにうっとりと呟いた。


「ヴェローナの王子様……」


ロマンチックという最後のカードまでそろえてしまって、千世の妄想に拍車をかけるだけなのに、お気の毒だけどどうすることもできないと、澪は注がれたガーネットの波紋にため息をつくのだった。





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