第4話 Keep it a secret.
「おおきに、お気をつけてお帰りやす」
小夜更けて花冷えしている。
路地裏を出た澪は、ほおっと息を吐いた。
見上げると、両側の建物が覆い被さって来るような狭い空間に、エナメル色の空がのぞき、遠く高く真珠のような月が笑っていた。
「あれ?」
ほんのわずか目を離しただけなのに、人通りにもう千世の姿が消えている。一本道だから迷うことはないけれど、今の彼女には彼しか眼中にないらしい。
けれど、どんなに千世が熱を上げても、今回は無理だろう。外見の美しさだけではなく、食事の仕方もスマートで、一つ一つの所作に育ちの良さがあらわれていた。あまりにミスマッチな存在に、店を間違えたかと客が引き返しそうになったくらいだ。
たぶんとても遠いひと──、住む世界も、考え方も、価値観も、澪たち一般人とは決して交わらない。
それに、あの瞳の奥の暗さは、きっと人を傷つける。
もし千世が彼とのっぴきならない関係になったら、彼の闇に天真爛漫な明るさが浸食されてしまいかねない。
──まだ何もはじまってないのに。
澪は石橋を叩いても渡らない心配性だと、千世は笑う。
〈渡る前からあーだらこーだら考えててもしゃーないやん。あんたが橋のたもとでぐずぐずするさかい、うちが渡らしたんのに、みぃんなうちを悪もんみたいに言うて、割に合わんわ〉
千世に他意があるわけがないのに、ここでもいらぬ厄介をかけている。
人様に迷惑をかけない。決して前へ出ず片隅でひっそりと、口を閉じて笑みを浮かべていれば、誰を傷つけることも、疎まれることもない。
それなのに、なぜか望まない波紋が起こる。だからよけいに慎重になって、それがさらなる悪循環を生む。
〈あれは疫病神だ。あいつの存在がまわりを苦しめる〉
呪いの声から逃げるように歩きかけて、澪はつと足を止めた。
このまま追いつかない方が千世は歓ぶかもしれない。次に行く店は決まっているし、彼を三条大橋まで道案内したら、彼女もすぐに向かうはずだ。
何より、狭い道幅いっぱいに盛り上がりながら練り歩く観光客を、追い抜く勇気が澪にはない。
どこかで呼び出し音が鳴っている。
自分のバックからだとあたふたして、千世だろうと確かめもせず受けた電話から、聞こえてきたのは──、
〈前を見て〉
意表をつく男の声に、澪は命じられるまま顔を向け、人垣の間から届く視線に、どきりとした。
無粋な大きな赤提灯の前で、スマホを手にしたジェイが足を止めこちらを振り返り見ていた。
「ど、どうして番号を?」
里を出る前、千世から強引に渡されたメモを、彼はすぐさまテーブルの下で澪の手に押し付けた。信用金庫窓口業務の千世は、仕事中は電話を受けられないからと、澪の電話番号まで書き添えていたのは打ち見ていたけれど、それにしても、あのほんの一瞬で記憶したのだろうか。
〈This is my cell phone number,Keep it a secret.〉
引き返してきた千世に気づいたからか、英語で告げて言下に切られた電話に、澪はこわばった顔でいやいやをした。
秘密って、それは困る。いまこの瞬間にも、千世にバレたらとビクビクしているのに。
澪は慌てて後を追った。といって、着物では思うに任せない。裾を抑え履き慣れない草履に引っかかりそうになりながら、這々の体でふたりに追いついたときにはもう、明々とした街灯りに包まれた三条通りの賑わいが目前だった。
眼下の鴨川の川原から歓声がわき起こった。月明かりの下、酔った学生たちがお祭り騒ぎを始めている。すでに上半身裸のお調子者もいるから、そのうちにまだ冷たい水へ駆け入るだろう。
「澪! こっち! こっち!」
じれったくも弾んだ声で千世が呼ぶ。彼女の背後では、先刻の男性が、黒塗り車のドアに手を掛けて待機していた。
ジェイはこちらに背中を見せている。すれ違った人たちが絹糸を引くように振り返ってゆくのは、彼が放つ圧倒的なオーラのせいだ。彼の周りだけ金色の月光が静かに降り注いで、さながら厳かな輿に迎えられる殿上人のよう。
──こんな雲居の方があんなところに何しにいらしたのかしら? 仕事を抜け出してまで、食事がしたかったわけでもなさそうだったし、何か大切な用事があったのではないかしら?
ふっと彼が振り返った。目が合ったとたん、心臓がバクバク音を立てた。
幸い千世の視線は運転手付の高級車に釘付けになっている。恋のダイナモメーターは一気に最高値を振り切って、彼女は畏れ多くも、スターに群がる熱烈ファンの如く、何振り構わず殿上人の手を両手で握りしめた。
「今夜はとっても楽しかったです。ごちそうさまでした!」
一方的で固い握手を離すことなく、熱い眼差しでお言葉を待っている。
ジェイは無言で、空いている方の人差し指を千世の眉間に近づけた。きょとんとした彼女が、指の動きにつられて顔を横向ける。その隙に、彼は易々と縛から逃れていた。
──あっち向いてホイ?
澪は吹き出しそうになった。
たいした機転だけれど、ノーブルな雰囲気のうえに固く冷たいポーカーフェイスだから、心理学に精通しているのかただの悪ふざけなのか、皆目見当がつかない。
その美しいアンドロイドのような顔をいきなり向けられて、今度は澪がきょとんとした。
互いに見合うこと数秒。
彼の目の動きにつられて目線を下げた澪は、流れのままお辞儀して、しまったと気づいた。欧米の挨拶は基本握手。男女の場合、女性の方から手を差し出さなければならないと聞いたことがある。今のはあからさまに拒否したととられたかもしれない。
慌てて手を伸ばした先は空。相手の姿はすでに車中にあった。
風が一陣興った。
いつまでも子どものように両手を振る千世の隣で、澪はあっけに取られたような、大きな置き土産を背負わされたような思いで、車影が河原町通へ消えるのを見送っていた。
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