第5話 花嵐

千世は、マホガニーのバーカウンターに頬杖をついて、グラスホッパーのグラスを夢見心地に見つめている。

事情を知らない者には、骨董の蓄音機から流れるアリアに、うっとり聞き惚れていると映るだろう。


対照的に澪は、シンガポールスリングを前に、強引に押しつけられた秘密の対処に頭を悩ませていた。


何だかとても疲れた。


彼と出会ってから、時間がジェットコースターのように流れて、目を回しているうちに、肝心のかんざしを返してもらうことすら忘れている。


──そうだ、かんざし、どうしよう……。


電話番号を知っただけでも千世に申し訳ないのに、かけるなど滅相も無い。いっそ千世に伝えてしまおうか。でも、秘密だと口止めされているのに、勝手に教えたら彼も気分が悪いだろう。それに千世のことだから、相手の都合などお構いなしに電話攻勢に走るのは目に見えている。


──残念だけどかんざしは諦めるしかない。着歴は、消してしまおう……。


一緒に記憶からも消去したい。


「ええ男やったなぁ、ヴェローナの王子様……」


澪の気も知らず、千世は桃色のため息を吐いた。


背後の棚に様々な色のボトルがきれいに整列したカウンターの中で、鰹縞小紋に黒の半幅帯のマスター、もといママが、金髪のマッシュショートの横髪を色っぽく耳にかけ直しながら、またはじまったかと少々呆れた色を浮かべている。

離れ気味の円な目、ぽってりと幅の広い真っ赤な唇、顔の横幅が広いので、何顔と問われたらナマズだろうか。


「何やの? その何たら王子って?」


客は澪たちだけ。カウンターの隅で、黒ベストより白衣の方が似合いそうなメガネの理系美青年が、ピカピカのグラスをさらに一点の曇りも逃すまじと、真剣な目つきで磨きあげていた。


「ヴェローナの王子様! さっきまで里でな、めっちゃイケメンリッチなニューヨーカーと食事しててんよ。あんなきれいな男のひと、初めて生で見たわぁ」


ママはとたんに瞳を輝かせ、食いつくように身を乗り出した。


「そんなに美しいの? シンちゃんよりも?」


美しいこと、それがママのすべての指標。

店に〝雅瑠慕〞とつけるほどのグレタ・ガルボファンで、彼のお眼鏡に適った美品のみが置かれた店内には、アンティークランプのオレンジ色の明かりの下、往年の彼女のピンナップが至る所に飾られている。

自らも美しくありたいと、エステにアンチエイジング、美容には女性以上の金と時間と気を遣っているけれど、いかんせんごつい骨格と野太い声が悲しい。


「シンちゃんなんかよってへんよ、カッパ顔やし」


ママの長年の推しを知っているのに、言い方が容赦ない。

案の定、相手はご機嫌を大いに損ね、


「まぁ、失礼な娘ね!」


然らぬ千世はふぅと熱い吐息を漏らした。


「ほんまに、二次元のプリンスかっていうルックスなんよ。彫りの深いマスク、推定180㎝の長身にいい感じに筋肉がついたプロポーション。絶対、白の軍服とか似合うと思う」


「平たい顔族には、西洋人はみな美男美女に見えんのよ」


「そのうえスマートでスタイリッシュ。無口で冷たいところがまたそそるんよね」


「あら? おもろいひとがええんやなかった?」


「ニューヨークの高級デパートでファッション関係のバイヤーしてはって、日本には買い付けに来やはったんやて」


そうは言ってない。彼は何一つ答えなかった。千世が、出されてもいない謎解きに嬉々として取り組み、勝手にはじき出した推論だ。

それについて相手は否定も肯定もしなかったから、当たらずとも遠からずなのだとは思うけど。


「あ~あ、もういっぺん会いたいなぁ。うちともあろう者が、ケー番、ゲット仕損なうやなんて、一生の不覚やわ」


澪はぎくりとした。話を振られては困ると慌ててグラスに手を伸ばす。

それにしても、失恋のやけ酒を覚悟していたのに、千世はすっかり忘れている。それはそれで喜ばしいことだけど。


千世はいきなりキラキラした瞳を澪に振った。


「なぁ、結婚してはると思う?」


「ど、どうかな?」


「指輪はしてへんかったけど……。時計は○ネライのラジオミール、財布は○ッチ、靴は○ェラガモやった。さすがトップバイヤーやわ」


顔ばかりに見とれていたと思っていたのに、抜け目なくチェックしていたとは。


「そんな男はんなら、女の方がほおっておかへんやろねぇ」


先刻の仕返しか、ほんの一滴厭味を垂らしたママの言葉を無視して、


「澪、抜け駆けはあかんよ」


カクテルに咽せる背を、「冗談、冗談」と笑いながら叩く。


「そんな度胸があれば、とうにええ男、捕まえてるよな。この歳まで恋愛経験0なんやから」


「まさかぁ」


「そのまさかぁなんよ。何せご存じのように、人見知りの引っ込み思案、そのうえ重度のコミュ障やからね」


「まあ、勿体無い! せっかくのべっぴんさんが宝の持ち腐れやないの。うちと代わってちょうだい!」


千世は、ピーナッツを口に放り込み、


「澪は人魚姫やから、想いは相手に伝わらへんけど、ええのん?」


「そ・こ・が、澪ちゃんのええとこやないの。逆に、自信満々なでしゃばり女やったら、ネチネチと虐めてさしあげるわ。京女のいけずを思い知れって」


「それな! わかる〜」


ピスタチオの殻を剥きながら、


「東京弁の美少女なんて、女子のいじめのターゲットにされてもおかしゅうなかったのに、いっつも空気みたいに存在感を消して、不思議とスルーされてたもんなぁ。ようよう考えたら、澪はナチュラルに食えへん女なんやわ」


千世とママは感心したように頷き合う。このふたり、気が合うのか合わないのか、両方とも美形好きで肉食系であることは間違いない。


「あ〜あ、ヴェローナの王子様、もういっぺん、会いたいなぁ~」


千世の恍惚とした横顔に、澪は心の中で残念だけどと首を振った。

今夜のことは偶然が重なっただけ。偶然はしょっ中起こらない。あれば奇跡だ。


ふと、ジェイの顔が浮かんだ。

かんざしを拾い上げた指の長さ、澪を強引に誘った腕の力強さ、不思議な音色の声、甘い香り、そしてあの透き通った瞳──。


一瞬、澪の胸奥を、花嵐のような感情が吹き抜けていった。

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