Ⅱ.イエスかノーか

第6話 水に映る月

京は、艶やかな薄紅色から、瑞々しい青葉の季節へと移っていた。寺社や民家の石塀に可憐な躑躅があふれ咲き、庭の花水木が街に彩りを添えている。


季節が移ろおうと、澪の一日は変わらない。何事もなかったかのように、日常が流れていく。


平穏──。それが、澪にとっては最良だった。


ときおり、このまま漫然と年を重ね、無為に死んでゆくことを考えると虚しくはなる。けれど、何かの才に恵まれているわけでもないし、社会に貢献できそうな信念もない。

母が言うとおり、自己主張も自尊心も何の取り柄も持たない役立たずは、おそらくこのままおひとり様で生きてゆくだろうから、ひとり暮らしにはカツカツの収入でも、健康で、定職があるだけでありがたいと思っている。


澪は、人との距離が近くなると不安になる。どこまで踏み込んでいいのか、接し方の境界がわからないのだ。


自分の存在が目障りになっていないか、自分の言動が相手の気分を損なわないかと、周囲に気を遣うことに疲れてしまい、結局いつも一歩も動けず、かえって相手を煩わせ苛立たせてしまう。

反省して後悔して自己嫌悪。そんな自分がますます嫌になって、だからつい人交わりを避けてしまう。


孤独を感じることもある。心細いこともある。

だけど、家族とさえ心を通わせられず、ただ居場所が欲しくて自分を殺してきたことを思えば、ひとりの方が楽だ。


それでも、こんな澪にも友人がいる。


親友と呼ぶのはおこがましい。特に千世にとっては、あまたいる友人の一員に過ぎないだろう。けれど、いちいち相手の言葉の裏の裏を考え悩む澪にとっては、京都人には珍しく思ったことは素直に口にして、表情は子どものように正直で、何事も己にポジティブに解釈できる彼女は、とても楽な存在なのだ。


そしてもうひとり──。



❀ ❀ ❀



晩春の夜の気配が、優雅な紫の羽を広げて静かに街に降り始めた頃、トリコロールの大旗が目印の小さな店先で、澪と菜都なつは行き合った。


「やっぱりね」


待ち合わせ時間より10分早い。予想通りと、菜都はにぃっと口端を上に引っ張った。


澪より小柄で、シャープな輪郭によく似合う黒のショートボブ。猫の目のように目尻が上向きのアーモンドアイ。目力が強いせいか、少しとっつきにくい雰囲気がある。


菜都とは、以前勤めていた会社で知り合った。彼女の方は妊娠を機に1年もせず辞めてしまったけれど、その後も季節ごとに近況報告するつきあいが続いていた。

目端が効いて肝が太い彼女は、1児の母ということを差し引いても、一つ年上の澪よりずっと足が地に着いている。


「こんばんわ、芽衣ちゃん」


「こん・ばん・わ、みーたん」


ママと揃いのアメカジファッションにリボンを結んだポニーテール。もう幼稚園児だというのだから、子どもの成長は本当に早い。しばらく見ないうちにいっそう賢くなって、輪郭もはっきりしてきた。


子リスのようにつぶらな瞳で見上げる少女に、嬉しさと愛おしさと、同時に胸に詰まるような痛みを感じて、微笑みが少し陰った。悟られまいと、澪は店内に顔を向けた。


店は、テラコッタを基調とした明るく気さくな雰囲気で、窓のカフェカーテンと黄色いマーガレット柄のテーブルクロスが、南仏のビストロを思わせる。

京野菜を使った料理が手頃なプリフィクスで愉しめると、女性に人気の店らしく、大通りから外れた住宅街にありながら、今夜もテーブルのほとんどが、賑やかな会話で埋まっていた。


「お見舞いに来てくれて、おおきに。お母さん、喜んでた」


声のトーンが低く落ち着いた口調は、あがり症の澪を安心させる。


「おかげさまで来週には退院できそうやわ」


キッズチェアに娘を抱き上げる唇に、嬉しさが滲んでいた。


菜都の母が乳ガンの手術を受けたのは、2週間前のこと。

〈右のお乳ごと取ってしもうたから、何やバランスが悪うてね〉と、病室のベッドで彼女は寂しそうに微笑んだ。


今でも綺麗なスタイルなのは、若い頃プロバレリーナだったからだと、菜都には珍しく自慢気に教えてくれたことがある。肉体の芸術家であった彼女にとって、乳房の摘出は辛い選択だったと澪は思う。

ちなみに、菜都の姿勢がいいのはバレエではなく、父親の影響で通っていた空手道場での鍛錬の賜物らしい。それも中学2年の夏にやめてしまったと言っていた。


「澪さんは? 何か変わったことあった?」


「相変わらず何も……」


ふと、脳裏に不思議な色の瞳が過ぎった。


あれから何度か千世から電話があり、そのたびヴェローナの王子様について熱弁を聞かされたけれど、澪は千世が言う〝ドラマのような奇跡〞を信じてはいない。通りすがりの旅人と、再び逢うことはないだろう。


ただ、あの日、自分を包み込んだ甘い香りに出会すと、なぜだか胸が締めつけられるように切なくなった。

その感情を何と呼ぶのか、澪は識らない。


「ん? 何かあった顔やね」


菜都は人の悪い笑みを浮かべた。

言葉足らずの澪の言いたいことを、いつも察してくれる気の置けない存在だけど、先回りしすぎて逆に澪の方がはてなと考え込むことがある。


「好きなひとができた?」


「まさか!」


自分の声の大きさに驚く澪に、菜都はお冷を口に、しれっと言う。


「恋をすると瞳がおしゃべりになるって、あれ、ほんまやわ」


「ほ、ほんとにそんなんじゃないの。この間、ちょっと……、外人さんと、食事したなぁ……と思って」


「外人? 誰かの知り合い?」


「え、えっと、それは……」


目を泳がす澪に、菜都はつと怪訝な目を向けた。


「男?」


ちょうど料理が運ばれてきた。

菜都は、キッズプレートに喜ぶ芽衣に微笑みを向けながら、


「つまりナンパされたんや? 外国人に?」


「と、友だちも一緒だったしね」


聞いていないのか、からかっているのか、菜都は食いつき気味に、


「で? どんなひと?」


「どんな? ……アメリカに住んでいて、仕事で日本に来たらしいけど」


「日本語は?」


「日本人より上手なくらい。それなのに、喋れないふりしたりして、悪趣味なのよ」 


「へぇ~、悪趣味なんや。それで?」


「それでって?」


「顔とか、性格」


性格と言われても、一度会っただけだし、印象に残っているのは、アースアイと、それから──。

にわかに甘い香りに包まれたようで、赤面した顔を隠そうと、澪は蛤と京筍のオードブルにナイフを進めながら言った。


「ちょ、ちょっと変わった不思議なひと。ものすごくクールで、マイペースで、強引で、何を考えているのかわからないし、それにずいぶん自信家みたい」


「は〜あ? それって典型的な俺様やない」


「あ、でも、悪いひとじゃないの。ただ、わたしたちとは住む世界が違いすぎて、近寄りがたいだけ。それに、とてもきれいな瞳をしていてね、きっと寂しいひとなのかなって」


菜都は目玉が飛び出しそうな顔をして、それから安堵したように相好を崩した。


「澪さん、それは恋の初期症状やわ」


澪はあきれた。

飛躍し過ぎだ。一目惚れしたのは千世で、自分は刺身のつまのようなものなのに。


「澪さんが他人のことを話すのなんて初めてやないの。柚木さんのときかて──」


とたんに澪の表情が固まり、瞳が翳った。

思い出したくなくて、でも決して忘れてはいけない名前。菜都も澪の前では二度と口にしなかったのに。


「もう5年も経つんよ? ほんまに、いい加減、新しい恋をはじめような」


澪は心許なく首を振った。


菜都も千世同様、恋こそが女の歓びと思っているのだろうか。恋人のいない女は、それだけで寂しく惨めに映るのだろうか。

千世の言う〝夢のように甘く切なく幸せな気持ち〞が恋心なら、澪には初恋の記憶すらない。


古今東西、男も女も、老いも若きも、リッチもプアも、極悪人もお坊さんだって、みな恋を求めて生きている。だから、噂話も、流行りの歌も、小説もドラマも、世の中の話題の中心は恋愛なのだ、と千世は言う。


ならば、澪は、どこか心の大事な部分が欠けてしまっているのかもしれない。




足許のバスケットからブーブーと震える音がした。

ごめんと菜都に断りを入れ、バックから取り出したスマホ画面に、澪は首を捻った。

もともと電話帳の登録数は両手で数えられる程しかないのだけれど、表示された番号にはまったく覚えがない。間違い電話だろうか? おそるおそる、


「はい……佐倉です」


〈Hello.J speaking.〉


しばらく状況が飲み込めなかった。ちょうど話題のひとが、二度と交わることがないと思っていたひとが、なぜ? ──突飛すぎて頭がついていかない。


〈澪?〉


「は? はい! ……あ、あ、せ、先日はごちそうさまでした」


見えない相手に向かって、馬鹿丁寧に頭を下げる澪に、菜都は横を向いて肩を震わせている。


〈あれは、謝礼だ。私もいい時間つぶしになった〉


嫌味なのか、正直なのか、それとも日本語のニュアンスが間違っているのか。いやたぶん冗談を言ったのだから、気の利いた返しをしなければ──。と、焦れば焦るほど、言葉が思いつかない。


〈明日、髪飾りを返したい〉


考える間もなく「はい」と受けてしまってから、己の迂闊さに後悔した。取り消そうとしても遅かった。


〈8a.mに、京都駅の中央コンコースで会おう〉


「あ、では、千世の都合を──」


〈君一人で〉


静かだけど威圧する声だった。


「ひとりで?」


菜都が澪の表情を盗もうとうかがっている。「か・れ?」と、声のない問いかけに、澪は当惑の顔を微かに横に振り、電話に向かって「でも……」と言った。


〈では明日〉


「待ってください!」と言う澪の制止は、相手の耳には届かなかった。


「例のひと? デートのお誘い?」


唖然とした顔を上げ、慌てて電話を切る澪に、菜都はニタリと笑った。


「まさか。落とし物を預かってもらっているから」


「そんなん口実に決まってるやない。一人で来いって言わはったんやろ?」


穢らわしいことを耳にしたように顔を渋める澪に、菜都は打って変わってドスを利かせた声で言う。


「行きなよ?」


「でも、一人でだなんて……。千世に内緒にはできないもの」


──それだけ?


違う。怖いのだ。澪の優れた危険回避システムが、アラームを鳴らしている。


「これを逃したら、もう二度と会えへんかもよ。会いたくないの?」


「会いたいけど……」


うっかり乗せられて、澪は自分の言葉にはっとした。


──会いたい。


澪は打ち消そうと頭を振った。

澪はこうした感情に、おそれを抱いている。何かに心を留め、執着すれば、失うことが怖くなる。かかずらいしがみつく姿ほど、醜いものはない。


「でも──」


「でもとちゃう‼」


菜都はまずいという顔をして、あたりを警戒するかのように右に左に首を捻った。


今ではすっかり今どきママの菜都だけど、10代の頃は家出をくり返し、派手なクラブに入り浸り、ケンカ揉め事は日常茶飯事、警察のご厄介になることもしばしばで、幼稚園からエスカレータ式に上がったミッションスクールを退学になり、父親から更正施設へ強制入院させられたという経歴の持ち主だ。

ときおり顔を出すはすっぱな言動は、当時の名残。


澪と知り合ったのはまだやさぐれ状態のときで、そのころ、夫となる一馬と出会い、生まれ変わったように落ち着いた。


それでも〈強きを扶け弱きを挫く、正義漢面した悪党〉という弁護士の父親への反抗期は、今でも継続中のようだけど。


幸い他の客は自分たちのお喋りに熱中しているし、芽衣はクマさんのオムライスに夢中になっている。菜都はほっと〝芽衣ちゃんママ〞の顔に戻って、


「でも……やら、うん……やら、澪さんはいつも考えすぎ。人の顔色ばかりうかがって、自分の気持ちを蔑ろにしてる。もっと自分に正直に貪欲にならな、幸せは掴めへんえ」


「幸せ?」と、澪は虚しく響かせた。


幸せは水面に浮かんだ月に似ている。掬おうとすると消えてしまう。掌に水を移しても、指の隙間から逃げてゆく。たとえ今宵、坏に掴まえて夢見心地に眺めても、どうせ月は姿を変えてゆくのだ。明日昇る月を観て、かえって虚しくなるのなら、はじめから望まない方がいい。


「誰にかて幸せになる権利はあるよ。いつまでも過去に縛られていたら、生きていくことさえ虚しくなる。ほんまに、もう、前に進まんと……」


そうだろうか、と澪は胸の内で呟いた。

他者の幸せを壊した者に、幸せになる権利などない。償うことのできぬ過ちを贖う術があるとすれば、生涯、自分が犯した咎を忘れぬことだ。


「誰も独りでは生きていかれへんのよ」


卑屈に視線を落とした澪が何を見つめているのか、菜都はやるかたなく嫌々をした。

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