第7話 イエスかノーか

京都駅の巨大なコンコースに、澪は硬い面持ちで俯き立っていた。


やはり来るのではなかった。もしも千世の耳に入ってしまったら、確実に友情に罅が入る。すでに電話番号という秘密を持ったことで罪悪感を感じているのに、彼に会ってしまったら、彼女に合わせる顔がない。


わかっていながら、なぜ来てしまったのか──。


昨夜、何度もスマートフォンを手にした。

電話は大の苦手。相手の状況が見えないから、いま電話をかけても差し支えがないだろうかと二の足を踏んでしまうし、声だけでは相手の感情が読み取れなくて、返しを考えているうちに沈黙になってしまう。切るタイミングもわからない。


そうは言っても、一旦は受けてしまったものを、待ちぼうけを食わせるわけにはいかない。日本人は約束を守らないと思われたら、世間さまに申し訳が立たない。でもなんと切り出したらいいものか。


かんざしは返して欲しい。かと言って、行けば千世に悪い。

グダグダ考え悩んでいるうちに深夜を回ってしまい、悶々と朝を迎えていたのだ。


今からでも遅くない。かんざしは諦めて、急用ができたと電話を入れよう。とにかく早くここを離れて……。そう思っているのに、どうしても足が動かない。


平凡で波風のない毎日を願っている。だから常に、漣が立ちそうなときには回り道を選んでいる。

それなのに、思いもよらず大きな渦に直面してしまうと、なぜかその中心に視線が引き込まれて、身動きできなくなってしまう。

結局ギリギリになって我に帰って逃げだすから、周りを不快にする。


今も岸辺に立っていた。


息が苦しくなって、澪は酸素を求めて肩で大きく息をした。

目の前を大勢の人が絶え間なく行き交って、ざわざわと雑音が充満している。

人混みは苦手だ。周りの視線が気になって、話し声や表情や情報過多の緊張で疲れてしまう。まるで大きな回遊魚の群のなかに一匹だけ紛れた小魚の気分。


──逃げたい。


「すみません」


男の声に澪はギョッと身構えた。

以前、河原町で千世と待ち合わせたとき、二人組の男に無理矢理クルマへ押し込まれそうになって、澪の人混み嫌いに拍車をかけていた。


「Mホテルってどこですか?」


肩から大きなトラベルバックを提げている。澪はほっとして、


「それなら八条口の方ですから反対側です。そこのエスカレータを上がると、八条口へ向かう南北通路がありますから──」


「どこの?」


澪が指さす先に、次々と人が上階に運ばれてゆくのが見えているはずなのに、男はなぜか首を捻る。


「わかんないなぁ。どこ? 案内してくれる?」 


ニヤニヤと手を掴まれて、澪は泡を喰った。ゾゾゾと鳥肌が腕から肩へと這い上がった。


「あ、でも、わたし、人を待っていて……、すみません、……は、放してください……」


言っている間にも引っ張られてゆく。混乱してどうしていいやら完全にパニック状態。

逃れようと力任せに体を後ろに引いた瞬間、パッと手が離れた。反動で仰反るように倒れかけた体は、幸いにも柔らかな壁に支えられて転倒を免れていた。


「イぇ~ス! イぇ~ス! ノープロブレム」


意味不明な逃げ台詞が慌てたように遠ざかって行く。


「日本ではああいうhit on(ナンパ)が流行ってるのか」


甘い香りと良く響くテノール、肩口を掴むきれいな指先。


澪はハッと首を後に折った。彫刻のような輪郭からアースアイが見下ろしていた。


弾かれたように反転する澪の前で、ジェイは何事もなかったかのように腕時計に目を落とし、


「時間通りだ」


距離が近すぎて、青かった顔が赤くなる。耳の裏まで熱くなって、彼の顔をまともに見られない。


「あ、あの、ありがとうございました……」


「どういたしまして」


そっけなく言ったきり、彼はさらぬ顔をして澪を見つめている。さっさと用事を済ませて別れたいのに、黙ったまま一向に本題に入ろうとしない。


澪は弱ったと下向いたまま辺りをうかがった。

外国人だらけの京都駅と言っても、男女が向き合ったまま突っ立っていれば、変に思う者もいるだろう。今日も全身セレブ感あふれる出で立ちで、それでなくても衆目を集めるひとだ。すぐ横で人待ちしている少女が、チラチラとこちらを盗み見ていた。


澪はそろりと目を上げて、


「今日は、わざわざすみません」


相手はうんともすんとも言わない。ただ見つめている。


心臓がことりと鳴った。


澪は静かにひとつ息をしてから、なんとか声を絞り出した。


「あ、あの、かんざしを……」


ジェイはいま思い出したという風に頷いて、スーツの内ポケットから万年筆でも貸すようにかんざしを取り出した。


「ありがとうございます」


安堵の笑顔を上げて、澪は小首をかしげた。

彼はかんざしを引き渡す素振りを見せない。ただじっと澪を見つめている。それは、つまり、受け取る前に何か重要な手順が抜けているということだろうか?


──お返しを用意しないといけなかった……。わざわざ届けてくれたのに。


断りの電話をかけることばかりに頭が向いて、そこまで考え至らなかった。


──失敗した。どうしよう。お礼にお茶に誘って、さりげなく席を外してお土産を買いに行く?


外国人なら扇子とか? 嵩張らず迷惑にならないもの……と考えて、澪は力なく首を振った。そこまで器用に辿りつけるとはとうてい思えない。お茶に誘う言葉さえままならないのに。


おそるおそる目を上げると、彼はゆっくりと瞬きをして、今度はかんざしをつくづくと鑑賞し始めた。


「とても美しい。京都の記念にpresentして欲しい」


「え? でも……それは……」


口ごもる澪に、彼はさっさとかんざしをポケットに戻そうとする。


「待って!」


つい腕を掴んでしまい、アッと放す澪に、彼は拍子抜けするほどあっさりとかんざしを引き渡して、


「それでは代わりに京都の景色をpresentしてもらおう」


「え?」


──またこの目。


先斗町でもそうだった。気づくと彼は、澪の瞳の奥を覗くように見つめている。


いったい、何を視ているのだろう? そんなにきれいな瞳で見つめられると、何だか吸い込まれそうで、身動きできなくなってしまう。そのうえポーカーフェイスだから、感情がさっぱり読めない。


「あの、でも……」


再びゆっくりと瞼が瞬いたと思ったら、


「では、行こう」


言うなり彼は歩き出した。


そのとき澪は悟った。彼にとって、ノー以外はすべてイエスなのだと。

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