第8話 卯の花曇り 大阪
『Pass the dead line.(時間だ)』
大阪のビジネス街を見下ろす重厚な社長室、太刀風のように席を立つ男に、あたふたと起立しそれでもテーブル越しに勢いよく一礼したのは、プレーンノットのネクタイも初々しい青年で、その隣の老将の風格をもつ白髪混じりの男は、腕組みし背もたれにもたれ、怒りに燃えた痩けた顔を頑なに横向けている。
「ハゲタカがぁ」
憎しみの捨て台詞にも、背を向けた男は眉ひとつ動かさない。終決のドアの音に、後ろに続いた柏木崇史は老人を哀れむように中礼した。
ハゲタカ──。
固陋な人間ほど、彼をそう謗る。
己が心身共にいつまでも若いと信じて疑わず、今でも第一線に立っていると勘違いしているが、弱った視力では時流の変化が見通せず、衰えた聴覚では耳触りの良い甘言しか入らない。プライドと権力にしがみつく彼らは、すでに老害でしかない。
しかし、彼らの過去の功績に一分も斟酌しない彼は、無情というより非情だ。
何度同じシーンを経験しても後味のいいものではないなと、柏木は心の中で首を振った。
彼は、徹底した営利主義者で、利益を生まないと判断すれば、いかなるものも即座に切り捨てる。端麗な容姿からは想像もよらない冷酷な打算と合理で、その思考の根幹は占められている。
さらに彼は、A10という感情を司る神経が先天的に欠落しているのだと虚聞されるほど、情動を表に出さない。
この数ヶ月、彼が来日するたびにコーディネータ兼通訳として随行しているが、もしもあの鉄仮面に笑いかけられでもしたら、何か禍が起こる前兆かと不気味に思ってしまうだろう。
それにしてもタフだ。怱忙な日程にもかかわらず、まるで半永久的に働き続ける高性能コンピュータのように、淡々とシビアにスケジュールをこなしてゆく。
Time is money。京都では、相手が1分待たせただけで会食の席から消えてしまい、関係者たちを震撼させたこともあった。
そんな彼に随伴するこちらの方が、心労からかよほど疲弊して見えるだろう。
──それもあと1件だ。ようやく東京へ帰れる。今夜は妻と息子の待つ我が家でぐっすり眠れる。
柏木はスマホの待ち受け画面をのぞき込み、家族の笑顔に頬を緩めた。
そんなわずかな気の弛みが、彼を窮地に陥れることになろうとは、誰が予見できただろうか。
❀ ❀ ❀
──京都は目の前か。
サングラス越しにシースルーエレベータから卯の花曇りの空を見上げて、ジェイは呟いた。
あの日、翌朝の面談が急遽キャンセルになった。柏木は改めての日時設定を願い出たが、いかな事情があろうと、与えるチャンスは一度。次の交渉の場など永遠にない。
スーツケースに忘れていたかんざしに気づいたのは、空いたスケジュールの調整中だった。手に取ったとたん、白鼈甲に仄かに微笑む清澄な瞳が浮かんだ。
透明感のある女だった。滾々と沸き上がる聖泉のように、その水は真冬でも温かく真夏には冷たく、涸れることがないのだろう。
手に掬ってみたくなって、衝動的に誘い出したのだ。
あれは何という名の寺だったか。松や楓の萌える木立の下に、ウマスギ苔が緑青の波を打つ景色が美しかった。若葉の間から注ぐ木漏れ日、草花の芳しい香り、庭のあちこちでさまざまな鳥たちが囀り合っていた。
眠くなるような風がそよいで、艶やかな濡烏の髪が光の波を作った。ふとしたときに覗くきれいな鎖骨、理想的なバストライン、春色のスカートから伸びるすらりとした脚。
下心は十二分にあった。それなのに、会話をするわけでもなくただ境内を巡った。
不思議なことに、1分10G(1万ドル)と揶揄される男が、この無益な時間を延長したいとさえ思ったのだ。
ジェイが識る人間はみな、自己顕示欲の塊だ。自分がいかに他者より優秀で有能であるか、理念と理想を雄弁に語りたがる。彼らの世界では言葉こそが剣となり盾となる。
だが、彼女は語らない。ただ微笑み、相手の話に耳を傾けている。ときおり発する声はやわらかく、耳に心地のよいトーン。
武器を持たぬ相手の前では、人はおのずと鎧の紐を緩めてしまうものなのか。
──いや、あの瞳のせいか。
黒曜石の瞳は透徹な水鏡のように覗いた者の姿を映し返す。実体の奥に潜在する本質さえも露わにして。
──いったい、彼女には何が視えているのだろう?
覗き込んでも、その瞳の奥には底知れぬ渓谷があり、答えに到達できない。
正解を導き出せないことなど、今までの人生に一度もなかったし、あってはならないのだ。
あの日からニューヨークと東京の往復が続き、彼女を思い出すこともなかった。それが来阪してからは、何度も黒い瞳が頭をよぎる。しかしこう分刻みのスケジュールでは、電話をかけるタイミングさえ見つからない。
仕事熱心なのも考えものだと、ジェイは初めて柏木の几帳面さを呪った。
そのタイムキーパーのような男が、青いガラスウォールのビルから駆け出てきた。
車に乗り込もうとするジェイを、追いかけ寄せる眉間に、迷いがあった。
『台風による欠航で、梅本氏が那覇空港で足止めされています。このまま東京へ戻りますか?』
サングラスから現れた氷の瞳が、不敵な輝きを放った。
『いや、新幹線を最終便に変更してくれ。京都で合流しよう』
呆気にとられる柏木を置き去りに、ジェイを乗せた車はたちまち都会の往来に飲み込まれて行った。
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