第9話 卯の花曇り 京都
オフィスの窓から卯の花曇りの空が覗いている。
澪は、プリンターのスタートボタンを押すと、窓へ顔を向けた。
硝子の向こうには京都御苑の緑。
季節ごとに塗り替えられる古い森を眺めていると、不思議と落ち着く。今日は鬱々とした空の下、緑から露草色に変化した紫陽花が、断続的な突風に煽られていた。
京都の一等地に自社ビルを構える建築設計会社に、契約社員とはいえ高卒の澪が再就職できたのは、菜都の父親の口添えのほかに、建築CAD資格を有していたことが大きい。
CAD室にはもう1名在籍しているけれど、彼は一級建築士取得のために先輩設計士のアシスタントに付くことが多く、硝子ブロックに囲まれたスペースは、半ば澪の個室となっていた。
澪にはコツコツと一人で行う作業は性に合っている。
細かい作業を淡々と続けられる集中力と、設計士やデザイナーの意図を正確に把握しようとする真面目さで、今では手描きパースやアイソメトリック(完成予定の透視図)の製作も任されるようになった。
〈手先が器用で人一倍根気のある澪に向いている。きっと一生のものになるから〉
ふいに甦った声に、澪は目を落とした。
あんなに厳重に鍵をかけて封じていたものを、こんな風にあっさりと、それも何の痛みもなく思い出すなんて、自分は何て薄情なのだろう……。
澪は大きなため息を吐くと、邪念を払うように後ろに束ねた髪を括り直した。
❀ ❀ ❀
「それ、榊さんのですか?」
設計机から桑原が、カワウソのようなきょとん顔を上げていた。
部署ごとに観葉植物の壁に仕切られ、様々なレイアウトが展開されているオフィスフロアは、ショールームとしての役割も担っている。背面式にデスクが配置されたライトモダンな設計部のエリアでは、澪と同じ制服姿の粟野と萩尾が、クスクス笑いながらスマートフォンを覗き込んでいた。
週末の終業時刻間近、営業や建築士の大方が出先から戻っていないオフィスは、ややだらけ気味の模様だ。
「苦手なんすよね、アノヒト。体も顔もごつくて声でかいのに、注文は細こうて」
学生気分が抜けきれない桑原は、鉛筆を指先で回しながら、ふてくされたように言う。
澪は周りに悟られないように小さくイヤイヤをした。粟野の耳に入ったら、SNSのネタにされかねない。
「アノヒトがおると室温が1℃は上がるって、みんなが言うてるのわかりますわ」
「佐倉さん!」
何事かと注目を浴びる中、ブリテッシュスタイルのスーツを着こなした男が、難儀顔を浮かべて足早に近づいてくる。
桂創士。目と眉が離れた下ぶくれの高貴な顔立ちから〈麻呂〉と渾名されている彼は、有名建築家である社長の息子で、彼自身も構造設計部のエースだ。そのうえ独身とくれば、言わずもがな女子社員の人気は絶大だった。
「6時からのプレゼンで使うAビルのアイソメ──」
言いながら性急に設計机に図面を広げる桂に、澪はあわてて歩み寄った。
「ここ、急遽Dプランの方に変更になったんや。今からいける?」
澪は図面を確認して、
「はい、データは残していますから、30分ほどお時間をいただければご用意できると思います」
「助かる。ちょっと残業になるけど、今度お礼するから」
澪は驚いた顔を上げた。
「佐倉さんには感謝してるんや。いつも笑顔で、仕事の質にかかわらず人の見ていないところでも最善を尽くしてくれる。そういう献身的なことができるひとは、なかなかいない。一度きちんとお礼をしようと思うてた」
そこは坊ちゃん育ち、己の言動で女子たちの突き刺さるような視線が相手方に向けられるとは、考えていない。
「桂さ~ん、それ、セクハラですよ~。佐倉さんはお堅いから」
「うちやったら喜んでお受けいたしますのにぃ」
「ほなら、今度から見えないように、仕事せなあきまへんわなぁ」
京都人は、柔らかい京訛りで、さりげなく毒を吐く。
「こわっ」
上瞼の重い一重の吊り目がさらに釣り上がり、桑原を睨んだ。
粟野を大人げなくさせる原因が自分にあることを、澪は察している。
澪は顧問弁護士のコネだから特別扱いを受けていると放言して、何度か室長から窘められたことがあって、それが彼女の悪感情を増幅させたようだ。──それ以前に、女の感情的な部分で敵愾心を買っているのだろうけれど。
ふいに室温が1℃上がった。
「桂、プレゼンの準備いけてんのか?」
銅羅のような濁声に、桑原はまずいと図面にかじりつき、粟野と萩尾はやばいと肩をすくめた。それを見てこれ幸いとCAD室へ逃げ込む澪だった。
❀ ❀ ❀
ほっと胸を撫で下ろし、何気なくデスクのスマートフォンを確認した澪は、息を呑んだ。
唐突な音信への驚きもあったけれど、何より、着歴番号だけで相手がわかった自分自身に驚いた。
彼にはじめて会ったのは桜の時分。その次は新緑の時季に、かんざしを返してもらう条件として高台寺を案内した。緊張して、観光案内どころか会話すらできなくて、さぞや退屈だったと思う。
とりあえず、かんざしは無事戻ってきたし、きっとすでに帰国して澪のことなど忘れている。そう思っていたのに、突然の電話。
澪は、誰もいるはずのない辺りを見回して、息を整え、もう一度息を整え、画面に目を落とした。
けれど指先は、いつまでも惑っている。思い切って発信ボタンを押しかけ、やっぱり無理だと引っ込めたとき、再び電話が鳴った。
吃驚した反動で開始ボタンを押してしまい、澪は慌てて電話を耳に当てた。
〈Hello.J speaking.〉
とたん、首筋に甘いうずきが走った。
「は、はい。こんにちは、佐倉です」
〈これから逢いたい〉
胸がドクンと音を立てた。深い意味ではない。わかっているのに、どうしよう、パーカッションのような動悸が止まらない。
澪は胸を押さえて鼻から大きく息を吸った。
「す、すみません。まだ仕事が残っていますので……」
断ったつもりだったのに、
〈どのくらいで終わる?〉
「え? あと30分くらい……?」
〈待っている。この間の場所で〉
返事を待たず、通話はこと切れていた。
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