第10話 はじめての笑顔

窓向きに設られた鉄板焼きカウンター席。目の前に、青白くライトアップされた京都タワーが聳えている。

駅ビルに併設されたホテル最上階のレストランは、駅の喧噪とかけ離れ、天候がよければ京都五山の稜線が臨める見事な眺望だけれど、今夜はあいにく、降りはじめた雨に滲んだ街が見下ろせるだけ。街灯りもぼんやり霞んでいた。


澪は、窓ガラスに映るジェイの顔を、気取られぬようにうかがった。


京都駅の改札前で最初の数秒目が合っただけ、彼はついっと視線をそらすと、あいさつも抜きに「食事にしよう」と言ったきり、澪を振り返ることもなく、ずっと無言。


電話から1時間近く、いくら何でも待たせすぎた。そのうえ相手にそぐわないファストファッションで、走ってきたから汗をかいて髪も乱れている。

有無を言わさぬ誘いだったとしても、折り返し断りを入れることもできたのにと、後悔しても後の祭りだ。


澪は覚悟を決めてジェイに向き直り、深々と頭を下げた。


「すみませんでした」


何事かという風にジェイは片眉を上げた。


「ずいぶんお待たせしてしまって……」


「私が急に呼び出したのだから、君が謝る必要はない」


ようやくこちらを向いてくれて、ほっとしたとたん、上がり症の虫が目を覚ました。次は何と返したらいいのだろう。何か言わないと、気詰まりな思いをさせてしまう。

早く何か──。


「君こそ何か予定があったのではないか?」


話題をふってもらって安堵しつつも、しどろもどろ、


「い、いいえ、家に、帰るだけでした」


「ひとり暮らしだったな」


驚いた。

そういえば千世が、自己紹介ついでに明かしていたような気がする。澪とは宇治に住んでいたころ同じ中学・高校の同級生だった。祖父が亡くなり室町の本家に家族で移り住んでからは、ひとり暮らしの澪の家によく遊びに行く、云々。

千世のおしゃべりなどまったく聞いていないと思っていたのに。


──千世?


何か重大なことを忘れている。思考がそちらへ向く前に、


「家ではいつも何をしているんだ?」


意外な質問だった。唯我独尊という感じで、他人に関心など持たないと思っていたから。興味はないけれど、話しやすくさせるために気を遣ってくれたのだろうか。


澪は、人差し指の先を顎に、真剣に考えた。出てきた答えが、


「ええっと……、ぼーとしています」


「ぼーと?」


「はい」


「休日は?」


澪は首を捻ってちょっと考えて、


「やっぱり、ぼーと?」


休日に限らず澪の一日はルーティン化していて、整容や家事をこなした後は、特に何をするでもない。テレビもネットも興味がないし、強いて言うなら景色や植物を眺めて過ごすこと。


ジェイがそっぽを向くのを見て、は外国人には通じないようだし、もう少し高尚な言い方をと脳漿を絞ったけれど、澪のボキャブラリーでは無理だった。


ふたりの前に、トック・ブランシェのシェフが現れ、重々しく頭を下げた。

丁寧に会釈を返す澪に、なぜかジェイは再び顔を背ける。

何か無作法だったのかとおろおろする澪の前に、グラスのシャンパンとガラスの器に盛り付けられた前菜が運ばれてきた。


「出かけたりは? 友人やと」


澪は動揺を引きずったままふるふる頭を振った。


そのとき、拳を口に当てた鼻からふふっと息が漏れるような声がした。


──笑った? 


不思議そうに見つめる澪に、ジェイがふと顔を向けた。


それは、初めて目にする笑顔。

胸を矢で射られたような破壊力、媚薬を嗅がされたような幸福感に、我を忘れ、息を詰めてつい見惚れてしまう。きれいなひとは笑ってもきれい。


ジェイはシャンパングラスを澪の目の高さに掲げると、


「今もぼーとしているのかな?」


澪はハッと緩んだ目を開いた。ぼーとではなくとしていた。

気恥ずかしさに狼狽えて、取り繕おうとして声が裏返った。


「あ、きょ、今日は、あの、どんな御用でしたでしょうか?」


ジェイはグラスを口元へ運びながら平然と、


「君に会いに来た」 


ぼっと火が吹きそうに顔が熱くなった。


慌てて頬の赤さを隠すように顔を背け、いやいやと自分に言い聞かせるように首を振る。

彼は外国人だ。単語のチョイスがおかしいだけで、深い意味はない。

おそらく先斗町のときと同じ、一人でレストランに入るのは気が引けて、〝いい時間つぶし〞の相手を探していたのだろう。ニューヨークと東京を行き戻り、京都には気軽に夕食に呼び出せる知人が少ないのかもしれない。きっと他から断られて、澪にお鉢が回って来ただけ。


それでも澪は嬉しかった。こんな自分でも忘れずにいてくれて。


鉄板の上ではフォアグラ、鮑、伊勢エビ、牛フィレと、高級食材が絶妙のタイミングで焼き上げられてゆく。食欲をそそる香ばしい香り、見ているだけで時間を忘れる優雅な手さばきのパフォーマンス。そして、極上の笑顔。


澪は、心までじっくりと温まってゆくのを感じていた。

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