第11話 雨のプラットホーム

仄暗い英国調のクラシカルラウンジバーに、オールドジャズのピアノの調べが静かに流れている。多国籍なビジネスマンや旅行客で店内はカウンター席まで埋まっていて、ささめく客の声がときおり大きくなったり笑い声に変わったり、白いテーブルランプに浮かぶ顔は誰もが愉しそうだ。


そして澪の前では、スコッチグラスの氷を揺らす美しい顔が、やわらかな眼差しを向けていた。


澪はこれまで、ジェイを笑わないひとだと思っていた。高台寺を案内したときはサングラスをかけていたこともあったけれど、先斗町でも彫刻のように表情が動かなかった。


だからといって、AIでもない限り感情は持っているはずだから、きっと彼のようにやんごとなきお方は、努めて喜怒哀楽を表に出さないように自制しているのだろうと考えていた。


でも、今夜の彼は笑っていた。

レストランではシェフの話に気さくに応じていたし、自ら冗談を言って、(冗談もさらりと言うから、笑うところかどうか真剣に悩む澪を)愉快そうに声を立てて笑っていた。


きっと彼は、忙しすぎるのだ。歩くのが速いのも、ムダのない段取りも、答えがイエスかノーかしかないのも、笑う余裕すらないほど時間に追われているせい。


それに、澪は気づいてしまった。彼の瞳の色は感情を反映するのだと。

今の瞳は、優しい月白げっぱく




「澪」


ジェイはテーブルに頬杖ついたまま、詠うように囁いた。


「このまま君を帰したくない」


澪はどこか遠くで異国の詩を聴いたような気がした。


小首を傾げる澪の手を取り、ジェイはそっと指に唇を押し当てる。一連の所作が滑らかで、まるでフランス映画を観ているよう。


「今夜はふたりの特別な夜にしよう」


つと澪は目を見開いて、罠から逃げる兎のように手を引いた。


まったく油断していた。


澪はこれまで、異性からの特別な視線を察した時点で、そのひととの接触を避けてきた。

中学生の時、告白をうまく断れず、勘違いさせたうえにひどく傷つけて、クラスメイトや関係のないひとたちからも、純な恋心を弄んだと責められたことがあったから。


それなのに、臆病がゆえに高性能なアンテナが、今回に限り危険を察知できなかった。


いや、察知も何も、そもそもジェイが、自分を性の対象として見ていようとは微塵も思っていなかったのだ。

彼のような洗練された大人が、こんな垢抜けない女をとして意識するわけがない。〝いい時間つぶしの相手〞が、澪にはとても居心地がよかった。


それを最後の最後になって、唐突に飛び越えて来ようとは。


重苦しい空気のなかで、澪はコリンズグラスをテーブルに戻すことも忘れて、目を落としたまま沈黙していた。


「好きな男がいる?」


澪はためらいなく頭を振った。


「体調が悪い?」


再び首を振る。


「宗教上の問題?」


それにも澪は首を振る。


フロアにはセレナーデが続いている。

仄白い灯りに揺れる澪の表情は、追いつめられた兎のように怯え、微かに震え続ける指先に、ソーダの泡が狂ったように立ち上っていた。


「答えないのが君の返答? つまり、答える必要もないほど、私に関心がないということか?」


澪は縋るような目を上げた。


「違います」


「それでは答えは?」


ジェイは間髪入れずに言う。その瞳にグレーの光が濃くなっていた。


「なぜ、逢いに来たんだ?」


「それは……」


「友情なんて陳腐なことはやめてくれよ」


機先を制され、澪は開きかけた口のまま息を止め、小さな肩をいっそう小さくしてまた項垂れた。


「YesかNoか。簡単なことだろう?」


怒りも不快感もない冷ややかな声が、かえって彼の苛立ちを感じさせた。


イエスかノーか──。


考えなければ答えなければと切羽詰まれば詰まるほど、澪の思いは別の方へ向かっていく。心の奥底に沈めていた呵責が這い出して、ずるずると記憶が頭をもたげた。白い靄がかかっているのは、耐え難い痛みに脳が歯止めをかけているからだ。

思い出してはいけない、そう思ったとたん、靄が弾け散り、


〈人殺し!〉


甲高い声に、澪はきつく瞼を瞑った。


『Pass the dead line.』


浮遊していた魂が体に戻ったかのように、澪は顔を上げた。思いが過去に引き摺られて、目の前にいる存在さえ忘れていた。


ジェイは一度目を閉じると、冷たく瞳をひらめかせ、グラスに残った琥珀の液体を一気に飲み干すやいなや、無言で席を立った。



❀ ❀ ❀



──何をやってるんだ!


プラットホームに流れる列車の接近案内に、ジェイは我に返った。


澪は首を折ったまま、辛そうに肩を上下している。それもそうだろう。有無も言わさず振り返りもせず、強引に引っ立ててきたのだから。


詫びなければと理性では思っていても、プライドが邪魔をする。謝罪の仕方など、教わったことがない。


ふたりの間を生暖かい風が吹き抜けていった。気の早い台風が九州に上陸しそうだと、キャリーバックを転がした男女が話していた。週末の最終便、雨粒が吹き込むホームには、東京へ戻るビジネスマンの姿がちらほらと見られる。


やがて列車のヘッドライトが近づいてきた。雨のカーテンを突き破り、眩い光がゆっくりとふたりの前を通過してゆく。


ジェイは視線だけを向けて、澪の表情を観察した。

無体な所業を詰ることもせず、掴まれた手を振り解くでもない。瞳には困惑と苦悩があるけれど、それでも口元に笑みを作ろうとしている。


いったいこの霞のように摑み所のない態度を、どう解釈すればよいのか。ここでもまた答えに辿り着けない。

確かなことは、いま捕まえておかなければ、二度と手に入らないということだ。


〈この列車はのぞみ64号東京行き──〉


白いコンパートメントから数人が降り、何人かが乗り込んでいった。


ジェイはモヤモヤした怒りをそっけなさに替えて、無言でタラップへ上がった。


「さようなら……」


背中にかけられた声が、か細く震えていた。

罪悪感に似た心臓を鷲掴みされたような痛みと焦燥感に、考えるより先に、体が動いた。


そのとき澪は、甘い香りのなかで、ドアが閉じる音を耳にしていた。

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