Ⅲ.嵐の夜に

第12話 真夜中の東京

漆黒のストレッチリムジンの外は、薄赤い靄がかかった真夜中の東京。

新横浜辺りから雨は降っていなかったけれど、新幹線を降りたとたん、空気は湿気を孕んでねっとりと肌に絡みつくように生暖かかった。


澪は、話しかけるタイミングを求めて、目の前の柏木と隣のジェイを交互に見やった。


柏木はタブレットPCに難しい顔を向けている。

ジェイは長い足を伸ばし背もたれにもたれ、真夜中にもかかわらず途切れることのない電話に無表情に応対中。彼は7カ国語を操るのだと、柏木から聞いた。今はフランス語っぽい。


柏木自身は〈英語とロシア語を少々〉と面目なさそうに笑っていたけれど、バイヤーという職業は並外れた語学力と体力が必要らしい。母国語さえ覚束ない澪は、唇を結んで息を吐いた。


京都駅のプラットホームで、ジェイにいきなり新幹線に連れ込まれ、澪は10秒ほど唖然と、次に遮二無二抵抗した。

グイグイと引っ立てる手と、掴まれた腕を引きはがそうとする指。


無言の攻防戦に勝利してさっさと座席につくジェイに対して、抗議する度胸もなくただ通路にわなわな立ち尽くす澪に、救いの手を差し伸べてくれたのは柏木だ。

大学は京都だったとか、妻が北山の出身だとか、プライベートな話題をくだけた笑顔で披露してくれたのも、澪を少しでも落ち着かせようという気遣いからだろう。


そう言えば、はじめて先斗町で出会ったときも、彼はジェイに困らされていた。年下の上司と言うだけで色々と思うところもあるだろうし、息もつかせぬジェイのペースに付き合わされるのは大変そう。

今はそんなことに思いを致している場合ではないけれど。


プツリと会話が切れて、今度こそはと、澪はジェイに向かって身を乗り出した。


『明日の予定ですが』


タッチの差で柏木に先を越されてしまった。

柏木は矢継ぎ早に質問をしてゆく。ジェイは淡々と淀みなく答えてゆく。しばらく様子をうかがっていたけれど、長引きそうな気配に、澪は窓の外を飛ぶように流れる光彩に太息を漏らした。


新幹線のなかでもずっとこの調子で、ジェイはノートパソコンに向かったまま、こちらを見向きもしなかった。

一度、雨だれが斜めに線を引いた窓につまらなそうな顔を向けていたので、恐る恐る声をかけたら、考え事を邪魔してしまったのか、睨まれた。


とにかく、東京駅に着いたらさっさと彼らと別れ、始発までファミリーレストランかネットカフェで時間をつぶそう。そう考えていたのに、まさかの品川駅で下車。

あたふたしているうちに再びジェイに捕捉され、また強引に車へ押し込められてしまったのだ。


マイペースだけど野蛮ではない。知性と教養のあるエチケットを弁えた紳士だと安心していたのに、それがこの暴挙。甘かった。


闇のなかで街灯の光を受けて浮かんだり沈んだりする二つ顔は、レンブラントの描写のように密やかだ。低い話声と一定のリズムを刻むキーボードの音、座り心地抜群のシートにゆりかごのような車の振動。

眠ってはいけないと自分に言い聞かせても、抗えない睡魔が襲ってくる。落ち着くからと柏木に勧められるまま飲んだウイスキーが、いけなかった……。



❀ ❀ ❀



「澪」


澪は眩し気に瞼を開いた。深い眠りに入る寸前に揺り起こされた脳は危うげで、自分が今、どこにいるのかさえ定かではない。


ゆらゆらと車を降り、背後に車の行方を捜したのも、テールライトが〈ゴ・メ・ン〉と3回点滅したのも、夢の続きのよう。澪はただ腕を引かれるまま、市場へ牽かれる仔牛のように歩いていた。


真夜中の高級ホテル、誰もが息を潜めるように寝静まった廊下に、スマートロックを解除されたドアが乾いた音を立てた。


その瞬間、銃口をこめかみに突きつけられたかのように澪は覚醒した。目の前に金色のルームナンバーがある。


「どうぞ──」


ジェイがドアを支えて待っている。この扉を越えたら、後戻りはできない。切羽詰まった感情が頭のなかを掻き乱し、がんがんと半鐘を叩き続けている。立っていることさえやっとだった。


いつまでも動こうとしない往生際の悪い背に、大きな手のひらが伸びて、澪は怯え顔を向けた。


「そんなに警戒しなくていい。私は合意のないセックスはしない。入って、人が不審に思う」


ジェイは本当に面倒くさそうに言う。


こんなところを誰かに見られて、恥をかかせたくないという気持ちは、澪も同じ。

澪は観念して重い足を部屋へ踏み入れた。とりあえず今は、彼の言葉を信用するしかないのだから。



❀ ❀ ❀



ブラウン系に統一された室内はとても広く格調高い。長いエントランスを抜けると、10人掛けの大テーブルが置かれたダイニングルーム、左に3台のソファーがリビングテーブルを囲んでいる。

正面の窓外にはライトアップされたレインボーブリッジと東京タワー。ガラスを通して青白く幻想的な街の夜景が広がっていた。


女性ならば一度は泊まってみたいロマンティックなスイートだけど、今の澪には周りに神経を向ける余裕もない。


ジェイはさっさとテーブルへ向かい、鞄からノートパソコンを取り出しながら、澪の唇が動くのを阻むように口早に言った。


「私は仕事をするから、君はその部屋を使ってくれ」


言葉の途中からもうモニターを覗いている。とりつく島もなさそうで、澪は仕方なしに、ジェイが顔も向けずに指差した扉をそろっと開けた。




シーリングライトの薄明かりのなか、真っ先にキングサイズベッドが目に飛び込んできて、澪はあわあわと顔を背けた。

窓の外にはここからも、対岸の美しい夜景。


澪はよろよろと窓辺の椅子に向かい、腰から崩れるように困憊した体を落とした。


耳が詰まったように重い。頭のなかがわんわんと唸っている。血の巡りが滞り、指先の感覚がない。拝むように併せた手の震えが止まらず、澪は両腕を抱きしめて背中を丸めた。

考えなければならないのに、どこから何を考えればいいのかもわからない。


澪は両手で顔を覆った。


いつの間にか、状況がのっぴきならない方向へ転がり進んでいる。何でこうなったのか。──やはり、澪が悪い。


子どもでもあるまいし、あのとき落ち着いて考えれば、男性とふたりきりで会うことがどんな誤解を招くか想像できたはずだ。貴族と平民であろうと、富豪と貧民であろうと、男と女、その気がなくても、魔が刺すこともある。軽率だった。


浮かれて会いに行った自分が悪い。お酒につき合った自分が悪い。


そのうえ、彼が〝イエス〞か〝ノー〞しかないひとだとわかっていて、バーできっぱり断ることもせず、いくら強引にとはいえホテルまでついて来るなんて。


逃げ出すチャンスはあった。名古屋で折り返すこともできたし、品川駅で彼の手を振り解くこともできた。曖昧な態度でますます彼を苛立たせて、事態をこじらせている。


──どうしよう。


澪は思い詰めた顔をドアへと向けた。


──今、このドアが開いたら?


彼は合意もなくセックスはしないと言った。ただ一言〝ノー〞と言えばいい。


けれどその一言を発するのが怖い。

人並み以上にプライドが高そうなひとだ。怒って嫌われてしまったらどうしよう。京都で彼に背を向けられたとき、どれほど後悔したことか。


だから、ノーと言うことができなかった。でも、ノーと答えなければ、彼にはイエスになる。


──初めてでもあるまいし、もったいぶる体でもない。そんなに深刻に考えなくても、もっと割り切って……。


澪は髪についた虫でも払うようにブンブンと頭を振った。


──嫌われるのがこわいからセックスに応じようなんて、相手にも失礼だ。


いや、失礼なのか?

明後日、彼が帰国すれば二度と会うこともない。つまり、〝One night stand〞。彼も一晩限りの情事と軽い気持ちなのだし、それで何かが始まるわけでもない……。


そう、何も変わらない。元々住む世界が違うのだから、変わりようがない。


そう思っているのに、葉先にようよう留まっていた雫が、わずかな風に水面へ落ちて、漣が立ちそうでこわい。


──土下座して謝ります。だから、バーから先のことはなかったことにしてください。どうか、日本での〝いい時間つぶしの相手〞に戻してください。


そんな都合のいいお願いが、彼に通用するとは思えない。


ああ……と、澪はテーブルに突っ伏した。


──そもそもアメリカ人に土下座が通じるの? 




そのまま堂々巡りの葛藤を繰り返し、小一時間は経っただろうか。澪はふと顔を上げ、扉へ首を廻した。


静かだ。


忍足でドアに近づき、音を立てないように慎重にドアを引く。

わずかな隙間から覗くと、ジェイはソファーに両足を投げて横になっていた。クッションを背に敷いて、肘掛けに凭れ、両手を頭の下に組んで、目を伏せている。

考え事でもしているのかと思ったけれど、いくら経ってもぴくりともしない。


澪はほおっと息を吐いた。体からも心からも一気に力が抜けた。


彼は最初から、ベッドを澪に譲り、ソファーで寝むつもりだったのだ。それを邪推してうじうじと悩んでいたなど、自分が滑稽でならない。


澪は、ベッドルームからブランケットを1枚、ジェイの体にそっと掛け部屋の灯りを落とした。

少し疲れた横顔が、薄暗闇に沈んでいった。

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