第13話 浜辺にて

澪は、灰色の空の下で遠い目をして佇む自由の女神を、見るともなしに見上げていた。


朝、目覚めたとき、ジェイの姿はなかった。

明け方近くまでは、ドア一枚隔てた向こうに彼がいると思うと全身が耳になったように冴えてしまい、微かな物音にも身構えていたのに。それがいつの間にか、扉の音にも気づかぬほど熟睡していたのだ。


静まり返った部屋に取り残され、澪は置き去りにされた子どものように心細くなった。

顔を合わせるのも気まずかったけれど、実は澪の頭には、微かな甘えがあった。彼も大人だもの、朝になれば何事もなかったかのように平然と接してくれる……と。

バカだった。フロントデスクで新幹線のチケットを渡されて、己の甘さを思い知らされた。言付けのない贈り物は、義理だけの完全な拒絶。


今までの彼の言動を鑑みれば、結論から逃げる、それが最低な選択だとわかりきったことなのに。考えて考えて、澪はいつも最悪の結果を引き寄せる。


こんなにも嫌われてしまって、それなのに、何かが心に引っかかって、足を駅へと向かわせない。帰ることも、留まることも、決心がつかない。


森がざわざわと大きく揺れ、鳥が騒いだ。森の上に不気味な雲が駆け足で流れてゆく。生暖かい突風が澪の髪を乱した。


ふと、風のなかに海の匂いを感じて、澪は引きつけられたように歩き出した。



❀ ❀ ❀



波立つ浜辺に立ったとき、澪の脳裏には生まれ故郷の海があった。


田舎の祖母の家で過ごした幼い日、澪の心は自由だった。何もおそれず、何にも縛られず、のびやかに毎日を過ごしていた。


祖母は働き者で気丈なひとだった。漁師の夫を海で亡くし、生まれたばかりの娘と育ち盛りの息子を抱えて、鰹節製造工場で朝から晩まで生魚を捌いていたと聞く。


当時の女工の安月給で、それでも子どもたちを飢えさせずに済んだのは、漁師仲間たちの助けのおかげだ。

子どものお下がりはもちろんのこと、託児所で娘が熱を出したと知ると、仕事を休めない母親に代わって、彼らの妻たちが交替で預かって看病をしてくれた。思春期の息子に元気がないと聞くと、亡くなった父親の代わりに男同士の相談にのってくれた。


そのご恩を忘れずにいつかみなさんにお返ししなさいと、母の願いどおり、実直な息子は中学卒業と同時に、彼らの一番下っ端として海へ出た。


澪が生まれた頃には、伯父はすでに結婚して、一人前の遠洋漁業船の乗組員として生計を立てていた。

伯母は世話好きでおおらかなひとだから、ぼっけもん気質を絵に描いたような寡黙で不器用な夫ともすこぶる仲が良かった。工場を退き念願の菜園を始めた祖母を手伝い、漁師仲間の奥さんにお裾分けに行ったきり、夕飯時まで話し込んでしまうようなうっかり者でもあった。


どこから見ても円満な家庭、ただ一つ、伯父夫婦は子宝にはなかなか恵まれなかった。

それもあって、母親から産み捨てにされた澪を、実子同然に育ててくれたのだ。


──母親から産み捨てにされた娘。


人と人との距離が濃密な田舎町で、澪はそのことの意味もわからずに育った。

人の口に戸は立てられない。ちょっとしたおとなの立ち話が、子どもたちの残酷ないじめを引き起こすこともある。伯父が己の立場も顧みず漁連長の家に乗り込んだことは、一度や二度ではなかったらしい。


澪の幸せは、雨風から小さな芽を守るように、祖母や伯父夫婦が、周囲の同情や悪意から庇い続けたうえにあった。そんなことを意識して考えた覚えがないほど、ほんとうに大切に育ててくれたのだ。


ある寒い朝、祖母は澪の手を握り、長い間、波間を見つめていた。

首に巻いた手ぬぐいが風に飛ばされて行くのも追わず、空高く舞い飛ぶカモメを仰いだまま、白いため息を吐いた。


澪はなぜか哀しい不安にかられて、祖母の手にじっとかじりついていた。


やがて祖母は腰を落とし、澪の小さな両手にかんざしをしっかりと握らせて言った。


〈おばあちゃんの宝物、大事にするんだよ〉


白鼈甲に蒔絵の蝶。祖母が嫁ぐ際、曾祖母から譲られたもの。どんなに貧しくとも、これだけは手放さなかったのだと、祖母は言った。


〈きっと、澪を守ってくれるから〉


そう言って、祖母は節くれだった手で頭を撫でてくれた。


記憶のなかの澪は、ただ泣いていた。見捨てられた気持ちでかんざしを握りしめ、いつまでも泣きじゃくっていた。




あのとき、祖母の手をもっとしっかり握っておけば、人生は違ったものになっていたのかもしれない。

次に澪の手を掴んだのは、罪深い母の手だった。


残酷な手を、それでも澪ははぐれまいと懸命に握りしめていた。

ただ疎まれることが怖くて、また置いてきぼりにされるのが怖くて、いつの頃からか言葉を飲み込む癖がついた。

周囲の顔色をうかがって、泣くことも怒ることもできず、母が望む良い子であろうとした。

でも、愛されたいと願えば願うほど、なぜかひとの心は遠く離れていった。


澪に利用価値がなくなったとき、母はその手を振り払った。

あの日から澪は、家族の手も、友人の手も、恋人の手も、自分から握ろうとしたことがない。拒絶され、絶望することが怖ろしかったからだ。


かんざしが澪を守ってくれることはなかった。優しかった祖母も13年前に他界した。澪は祖母の葬儀さえ報されなかった。祖母のかんざしも、引き出しの奥にしまったきり、記憶の隅に置き忘れていた。


そう思うと、かんざしを拾ったジェイとの出会いには、何か意味があるのだろうか……。




風に舞った砂が頬を打った。


答えはとうに出ていた。本当は出会ったときから感じていた。


声を聴くと周りの音が耳に入らなくなる。会えると思うと心にぽっと光が灯る。見つめられるとドキドキして、それなのに目が離せない。男性に触れられるのがこわかったのに、彼に手を握られて嬉しかった。

これが〝夢のように甘く切なく幸せな気持ち〞なのだと。


だから澪はおそれていた。

澪は何かに執着することがこわい。独りよがりな想いに夢中になると、他人の心の痛みに疎くなる。


〈僕を愛していたのだろうか?〉


涙を忘れた澪に、別れの日、恋人が呟いた。

切り裂くような痛みが、胸を襲った。


そのとき澪は答えられなかったのだ。

ただ寂しくて、分別もなく、流されるまま有り余る愛情を受けて、あのおそろしい出来事に直面して、愛しているのかと問われたとき、自分のなかにある寒々とした感情に気づいてしまった。


親に愛されなかった者は、ひとが愛と口にするものの定義さえ、わからない。

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