第14話 嵐の気配
ジェイは、濡れそぼつ高層ビルの窓からぼんやりと、地上の往来を眺めていた。
週末で交通量が少ないうえに、嵐の気配に人影も疎らだ。街路樹が生き物のように蠢いている。流れる雲の隙間から薄日が漏れて、大都会に光陰の帯をゆっくりと走らせて行った。
──京都へ帰っただろうか。
ジェイの脳裏に、澪の表情が古い映写機のように流れた。
昨夜の澪の態度は、想定外だった。
彼女は自分に特別な感情を抱いているはずだ。
突然の呼び出しに雨の中を駆けつけてきたのも、頬を赤らめた笑顔も、濡れた瞳の輝きも、唇の艶っぽさも、恋する女の典型的な特徴ではないか。
京都駅では、はやる欲情に襲われて、悟られまいとつい素っ気ない態度を取ってしまったほどだ。
加えて過去の経験から、自分の誘いを拒否する女はいないと高を括っていた。
それがまさかの緘黙。怯えた瞳は、恐怖や嫌悪さえ感じられた。
と言って完全に拒絶する態度でもない。己の価値を上げようともったいぶって駆け引きする女とは思えないし、こんなケースは初めてだった。
心の準備とやらが必要なのかと、猶予まで与えた。何事もチャンスは一度がセオリーの男が、破格の譲歩だ。
それに応えるように、彼女は一度は部屋を出て来たのだ。連日の強行軍で疲れていたとはいえ、居眠ってしまったのは不覚だった。
──何だ? この敗北感。
手元まで誘い出した小鳥に、羽で頬を打たれて飛び去られた気分だ。
望んで得られないものなどない。幼い頃からそう自負してきた。
すべての事象には定義があり、情報収集、理論とそれに基づく計算、観察、そして実行に充分な資金があれば、人の心さえ容易く動かし手に入れることも可能だった。
それが、あんな小娘相手に、何という無様。
そのうえ、逃げた小鳥の行方を気にかけるなど、らしくもない。
いや、はじめから柄ではなかった。女を誘い出すために時間を費やすなど、まったくの無駄だと思っていたのに。
セックスの対象ならいくらでもいる。なぜ澪にこだわるのか。
──桜のせいだ。
ふくよかな春の香り、夕闇に淡雪のように浮かびあがる桜、桜の精のように儚げにたたずむ黒髪の女。
あの情景を思い出すたび、郷愁にも似たやるせない感情が胸奥に湧き起こる。
その感情が、風景にではなく、封印した写真に対するものだと気づいて、ジェイは左頬に自嘲的な窪みを作った。
──やはりあの瞳のせいだ。あの瞳の前でなら、すべての罪が赦される。
──懺悔は神の前でするものだろう?
ジェイは感傷的な己を嗤った。
『失礼します』
ああ、またタイムキーパーがやってきた。
ジェイは背後の声に気持ちを切り替えるように深呼吸をした。
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