機会
川谷パルテノン
彼女
随分と歩いた。砂嵐は抜けて風は和らいでいる。抱きかかえていた山椒魚をそっと地面に放すとそれは彼女を見上げた。「餌はないよ」と素っ気ない態度をとると山椒魚は反対の方向を向く。感情はない。ただ偶然にそれらしく反応して見えただけのこと。それでも彼女にはそれが山椒魚の意思に思えた。山椒魚はとぼとぼと歩き始める。砂で皮膚が傷まぬよう巻き付けた襤褸のマントが煩わしそうではあるものの自らでは剥ぐことが出来ない。彼女は間抜けな姿に愛らしさを感じた。静けさも束の間、警報音が鳴り響いた。南東の空に二隻の飛行艇が見える。彼女は咄嗟に山椒魚を拾い上げると物陰から物陰へとひと気を避けるようにしてその場から遠ざかった。しばらくして警報が解除されようやく静けさが戻ってくるころにはもうそこがどこだかなどわからなくなっていた。かなりの距離を歩いたように思う。目の前には海のような青い水面が広がっていた。
「おい」
背後から掛かった声に彼女は反射した。山椒魚はその懐から放たれ宙を舞う。彼女は右手に銃を構えていた。
「おい待て! なんだよ物騒なそれをしまえったら!」
男は銃に驚いて思わず叫んだ。これといった武装もしていないと判断すると彼女は質問を返す。
「あなた誰」
「こっちの台詞だよ」
「答えなさい」
男は両手を上げたままため息をついた。
「俺はマキアン。この塩湖を管理している者だ」
「軍人?」
「まあ所属は軍部だが所謂窓際さ。銃なんて久しぶりに見た。お前は? ここで何してる」
「軍人に話すことはない」
「軍人が嫌いか?」
「話すことはない」
膠着した空気が続く中、徐に山椒魚が「グゥー」と鳴いた。
「もしかして腹が減ってるんじゃ?」
「関係ない」
「グゥー」
「その先に事務所がある。そいつがお気に召すものがあるかは知らんが、安心しろ。とって食ったりはしない」
「黙れ!」
「グゥー」
「サンローラン!」
「そいつの名前か? サンローラン、どうだ。腹ごしらえといかないか?」
「グゥー」
マキアンはこれといって彼女を詮索しなかった。事務所についてから彼が発した言葉は「砂糖は要るか?」だけである。彼女はマキアンが振る舞ったコーヒーに口をつけなかった。サンローランは夢中で冷凍エビを食らった。
「見ろよ。素直なもんだ。別に君には興味ない。騒ぎを起こさないでくれりゃそれで構わないさ。ここに赴任した時は暇で仕方なかったがニンゲンってのは順応でね。退屈も慣れるとなかなかなもんだ」
「出世しないわね」
「俺か? まあそうだな」
また沈黙が続く。サンローランは食欲を満たすと眠った。その様子にマキアンも釣られてあくびする。彼女はようやくコーヒーを一口飲むと「ぬるい」と呟いた。
「久々の客人だ。俺の人生ってのはもう終わるだけだと思って過ごしてきたが生きてりゃ妙な出会いもあるもんだ。なあ、お前さん。俺は久しぶりに退屈を退屈だと考えてる。ペットのメシ代だと思ってハナシに付き合ってくれないか?」
彼女は返事をしなかったがマキアンは構わず話し始める。
「ここに来る少し前だ。俺は元々軍になんて入るつもりはなかった。生まれ故郷には家族がいて幼い娘もいた。そいつらのために畑を耕して、稼ぎは大したことなくても仲良くやってたさ。だが今の俺にはもう帰る故郷も待つ家族もいない。ある事件で俺が生まれ育った町は地図から消えた。お前さんもこの世界で生きてりゃ知ってんだろ。竜乗りって連中を」
彼女は持っていたカップを静かに置いた。竜乗り。その名が世間に知れ渡ったのはもう一〇〇年以上前のこと。目的は不明。粗暴な破壊者であるというのが一般の認識であった。
「あっという間だった。町が燃えて真っ赤に染まるまで。熱は肌の柔い部分から順番に焼いた。俺は目の前で大切なものが焼かれていくのをどうすることも出来なかった。それでもどうにか助けようと足掻いているうちに頭の中はまだ幼い娘の泣き声でいっぱいになった。おれは居ても立っても居られず逃げ出した。俺は生き残ってしまった。だがその命に価値が見出せず何度も死のうとした。でも出来なかった。そんな日々がずっと続いたある日、俺はカウンセリングの一環で故郷を竜乗りに焼かれたという自分と似た境遇の人物に出会った。そいつの話を聞いているうちに俺はあの日のことを思い出し、絶望がやがて憎悪へと変わっていくのをおぼえた。俺はすぐに軍に志願した。目的は勿論復讐だ。町を一瞬で焼き払ったバケモノにどう立ち向かうかなんてなんにも考えちゃいない。ただやらなきゃならないと思ったんだ。竜乗りについて調べるには軍のデータベースが一番の近道だと考えた。俺は秘密裏に情報を集めた。だがどれだけ調べてもそこにある情報だけでは竜乗りが何者かさえわからなかった。ただ百年も前から噂は出始めていて、俺は竜乗りってのが個人を指した呼称じゃないと直感した。そこで俺はさらに深い情報を得るため極秘とされているデータへの侵入を試みた。しかし失敗した。さすがに組織もそこまで甘くはなかったわけさ。本来なら俺は背任行為で処分、極刑が相当とされていたが目にかけてくれていた上官が掛け合ってくれたおかげで今ここにいる。そんな恩を仇で返すじゃないが初めはすぐにでもこんなところ出て行ってやろうと思っていた。だが機会を窺ううちに気づいた。俺は竜乗り探しに夢中になっていた。ミステリ小説を読む感覚に近い。目的は復讐だったはずなのに当の本人は虜になってたのさ。ミステリアスな怪物にな。それに気づいた時、俺に必要なのは竜乗りの情報なんかじゃなく、この静けさと退屈なんだと思った。幾らか塩が獲れるからと軍が一応の管轄に置いちゃいるがこの十年、一度たりと役人がここを訪ねたことはない。見ろよ。綺麗なもんだ。真っ青でまるで空が地面に広がってるような。娘がもし生きていたら俺に何を話したかと想像する。今なら、そうだな。お前さんくらいの年頃だ。復讐なんか止せ、自分らしく生きろ。そう言っている気がする」
「随分と暢気なのね」
「なんだと」
「あなたが失った大切な人たちに残せるものがあるとすればその本懐を遂げることだけよ。亡き者に声はなくともケジメはカタチでしかとれない」
「見かけによらないな。物騒な考えだ」
彼女は銃を取り出すと机にそれを置いた。
「ここに一丁の銃があり、あなたにはこれを手に取るチャンスがある。同時にあなたはかつて復讐を望み、いま目の前にその対象であるかもしれない女が立っている」
「何を言ってる」
「あなたはずっとここで待ち続けてきた。なんとか自分を律しようともがいてきた。そしてようやく機会が巡ってきたの。さあ、あなたは何に従う? 亡くなった娘さんの言ったかもしれない言葉? それとも、自分?」
マキアンは咄嗟に銃を手に取る。指は引き金に据えられ、安全装置は癖のように外れた。銃口はしっかりと彼女に向けられており、臆することなく真っ直ぐと伸びた腕。あとはそれを撃つだけだった。彼女は瞬きもせずにマキアンを見ていた。感情が宿らない表情。死を恐れる気配もない。そもそもが彼女からの申し出だった。マキアンは見せないようにしていたが内心では動揺を隠せない。自身の娘と同世代ほどの女が仇かもしれない。馬鹿な話だが竜乗りが個人でないことはマキアンも確信していた。であるならば少なくともこの女が竜乗りと繋がりを持つ何かかもしれないと想像できる。この塩湖に赴任してきてから復讐心と訣別したはずだった。だが彼女の告げたチャンスという言葉はマキアン自身のあらゆる場所に引っかかっていた。内なる自分と再び向き合う羽目になった。燃え盛る町の中に家族が取り残されている。火の壁を突き抜ければ妻や娘を助けることができた。それは己を焼き尽くしたかもしれないが今ほどの後悔を齎さなかったのではないか。同じだった。今、マキアンにはあの日と同じ選択が巡ってきたのだ。
「俺は」
後悔しないために最善を尽くす。彼女は言った。お前は何に従うのか。マキアンは悩み抜いた。
「撃たない」
銃は再び机の上に置かれた。
「そう」
彼女は銃をしまうとサンローランを抱き上げてマキアンの横を通り過ぎた。
「ごちそうさま」
彼女の最後の言葉だった。訪問者は去り、塩湖は再び静けさを取り戻す。静寂と退屈の世界。彼女が出ていった後、マキアンはずっと椅子に座って日が暮れるまで窓の外を眺めた。十年分の言葉を吐き尽くした男は元通りの無口な生活に戻っていく。
機会 川谷パルテノン @pefnk
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