第1幕 ちゅうぶらりんしゃん(3)
ヨミの問いとただ一点を射抜くような彼の冷たい瞳にお銀は少し訝しげな表情をした。
そしてお銀は徐ろに宿を見渡してから、静かにため息を吐いて小さく首を動かしてみせる。
「まぁ、大丈夫だろう。何かあってもわっち達がいる。何の問題にもなりやしないさ」
そのお銀の言葉に大きくため息を吐いて、呆れたように諌めたのは利之助であった。
「ねぇ……お銀?問題になろうが、ならなかろうがね。何か、は無い方がいいんだぞ?」
それはそうだろうけどさ、と言い淀むお銀の言葉を待ち切ることなく、前を見据えたまま、ヨミは感情の色の読めない声で言う。
「いくら火鼠の皮衣を身に纏おうとも、わざわざ火に飛び込む必要はないよ。……その火鼠の皮衣がエセモノかもしれないんだからさ」
そう言った彼の瞳は、まるで感情のない人形の硝子のよう。
一切のぬくもりも感じない声音で言葉を続けた。
「そしたら躰はあっという間に焼け焦げて、どろどろに溶け切って、骨も残らず灰になって。ただ風に
そう口にしたところで、なんの感情もなかったヨミの瞳が急に柔らかいものになる。
優しげに目を細め、口の端は小さく上っている。
眼の前の曲者の打って変わった表情を見てお銀も利之助も、困ったように微笑みため息を吐いた。
二体とも、そちらに顔を向けずとも、わかる。若者がこちらに来るのだとわかっている。
先程までとはまるで別物のヨミの表情一つで。
「本当にわかりやすいですね、キツネズミは」
「その優しさの爪の先僅かでも、わっちらにも向けてほしいものだけどねぇ」
呆れたように言うお銀に、利之助は肯定の意味を大きく含んで小さく頷いた。
そんな二人のやり取りが、聞こえているのか、いないのか、ヨミはどこ吹く風。
「おかえりなさい、先生」
店主を引き連れて戻ってきた若者に、ヨミは穏やかに声を掛ける。
「あぁ、ただいま。部屋の用意が出来たそうだ。行こう」
若者の言葉に返事の声はなかった。ただ三体の人ならざるものは彼の後ろを離れることなく歩き出しただけ。
「ここも昔はそれなりに旅籠としてやっていけてたんです。……あの人が店主になるまでは」
部屋を案内しながら、若い店主が世間話の中の一つとしてそんな言葉が飛び出した。
いつかを懐かしむかのような表情は見目よりも大人びて見えた。
幼い店主が言う先代、あの人、と呼んでいるのは彼の父や兄などではないのだろうか。若者はそう思わずにはいられなかった。
――ここは
先ほどの彼の発言から考えると、少なくとも先々代は祖父であり、幼い店主は紛れもなく、この旅籠の血筋なんだろうと推測できる。
しかし、幼い店主が先代、あの人と呼ぶ人物のことを話す時だけ彼は表情はどこか影を落とす。その瞬間だけは、この旅籠の店主は幼さを何処かに置き去りにする。まるでもうずっと昔のことでも懐かしむかのように。
この旅籠には複雑な人間模様が渦巻いているのかもしれない。それこそ、安易に他者が触れてはいけないような。
「おやおや、お前のおとっつぁんは碌でもない店主だったのかい?」
若者が思索に耽っている横でヨミが揶揄を色を滲ませて、店主にそう尋ねた。
「……!!っこほん!」
「大丈夫かい?先生……病じゃ心配だ。薬師に見てもらおうか」
若者はわざとらしく咳払いをして咎めるように、眉を顰めてヨミに視線を送る。
しかし、ヨミにはその意図は伝わらず、本気で心の底から若者の体を心配している。そのため、ヨミの発言を諌めようとしていた若者が、かえってバツの悪い思いをすることになってしまった。
「ヨミ……大丈夫だ。心配ありがとうな……」
若者は指先で頭を掻き、バツの悪さを紛らわしながら、自身を案ずるヨミに言葉を返した。
そんな若者とヨミのやり取りを店主はまた大人びた瞳でいつかの思い出を懐かしむようにみつめた。
そしてため息を吐いて眉尻を下げて微笑みをはりつけて言った。
「お兄さんの言葉には、返す言葉もなかったといいますか。……本当に我が父ながらお恥ずかしいんですけど……そのとおりで」
申し訳無さそうに言う店主の言葉に、若者は少し驚いた表情をしてから、ほっと胸を撫で下ろした。
彼の口から飛び出した我が父という言葉は間違いなく店主と先代の親子関係を示していた。
彼は見た目は幼くとも、れっきとした店主。おそらく、その店主という立場故に身内であれど父とは言わず、先代という言葉を使っていただけなのだろう。
店主の言い回しに自身が勝手に穿った見方しようとした結果、いらぬ心配をしてしまった。まぁ、杞憂で終わって何よりだと若者は店主の話にまた耳を傾ける。
若者の安堵の表情をヨミは静かにみつめていた。
「あの人は、祖父様の息子でありながら、この旅籠の店主でありながら……儲け話に目がなくて……あれやこれや、引っ掻き回しましてね。……終いには
そう、店主は悲痛そうに目を細めて言った。
店主の物言いで彼が先代のことを心よく思っていないことが痛いほど伝わってくる。
しかし同時に、その声音と彼の瞳から見えたのは嫌悪の色などではなく、底知れぬ悲哀やとどまることのない後悔が滲んだ色だった。
そのことで、彼と先代との間にあるものの複雑さが垣間見える。ただの親子喧嘩などではない。嫌いだとか、親に反抗的になる年頃などという簡単な言葉で片付けられる物ではないと物語っている。そんな色だった。
「最近じゃ、あの人のお店に逆らったら何されるかわからないから、みんな……いいなりです。そのおかげでこちらは閑古鳥だというのに……それでもあるだけで許せないのか、ここを潰そうと躍起になっているみたいで……」
彼は空気を吐き出すみたいに自嘲気味に言った。
「本当に……碌でもない男になってしまったもんですよ。昔はあった可愛げも、今は欠片も見えやしない」
その一言に一瞬の違和感を感じた若者であった。
けれど、慌てたように取り繕い困ったように微笑む幼い店主への対応に追われている間にその違和感は跡形もなく消え去ってしまった。
「先生は鈍いように見えて、意外に敏い。……ですが、人の良さと甘さがあなたの眼を曇らせちまう」
店主に微笑みかけながら談笑する若者の姿だけを硝子のような瞳が映している。自身の呟きなど届くはずもないとわかりながら、ヨミはそう吐き捨てるように言った。
「その難点に惚れちまったんだから、致し方ないよね。……あたしが守ってやるしかないのさ……」
その硝子玉はチクリと目に滲みるほど煌めく。それはまるで獲物を捕らえる獣が光らせる眼ように。
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