第1幕 ちゅうぶらりんしゃん(1)

「先生、お天道様も顔を覗かせてくれなくなってきたし、そろそろお宿でもとったらどうだい?」


 ヨミの言葉に若者が見上げれば、そこには橙色が薄く残る程度、ほとんど黒に近い紺色の空が一面。

 もう夕焼けも終わり、夜の訪れを強く主張する、そんな空が広がっていた。

 若者は首を縦に振って、辺りを見回す。


「そうするか。今からでは次の村までは行けないだろうし。夜道で峠を超えるのは、だいぶ骨が折れるからな」


 この時代の移動手段はほとんどがかち

 籠で運んでもらうにもずっとの事ではお金がかかって仕方がないし、馬では人通りの多い町中を駆けるわけにもいかず、なにかと身動きが取りにくくなる。

 気兼ねなく旅をするなら基本は自身の足を頼りに歩くしかない。

 しかし、薄い月明かりをたよりに山道を歩くのは至難の業だ。

 それに、山道でなくとも、夜道とはなにかと危ないもの。

 今の世のように電灯がいたるところで道を照らしてくれるわけではない。

 月の光だけが頼りになるが、満月でもない限り月明かりだけでは心もとない。

 夜になれば夜の住人たちの時間になる。

 もちろん、悪鬼妖怪あっきあやかしたぐい空恐そらおそろしいが、夜に彷徨うろつくのはそれらばかりではない。

 何より恐ろしいのは人と言う言葉もある。

 夜になれば野盗やとうなどのならず者がはばかせ、大きな顔をしてたむろす。

 そういうやからに襲われたら最後、命の保証はない。

 それゆえ、身の安全を重んじるなら、夜に出歩いてはいけないのだ。

 若者が本日、とれそうな宿を探していると、背後からお銀が彼の腕に飛びつき頬を擦り寄せて言う。


「だぁんな?あっちに閑古鳥が鳴きちらかした旅籠があったよ?そこならゆっーくり体を休められるんじゃないかい?」


 絶世の美女であるお銀に擦り寄られても、若者が困ったように苦笑いを浮かべて言った一言は


「お銀さん、せっかくの宿のことを閑古鳥が鳴くなんて言うものではないよ」


 宿への暴言への苦言。

 彼はそういう男なのである。

 普通の人間ならお銀に擦り寄られたら、顔を赤らめどんな言葉さえ脳に届きやしない。

 ただお銀に触れられている肌の熱と、お銀の艶めいた声に震える鼓膜、それだけしか感じられない。

 それが普通なのだが、若者は違う。

 お銀が擦り寄ってくれば、寒いのか寂しいのかと心配こそすれども顔を赤らめることはない。

 お銀が触れれば人肌の温いことやお銀の声の美しさは承知していてもそれ以上のことはない。

 恋情やら恋慕に身をやつすようなことはない。

 何度も語ることになるが仕方ない。

 彼はそういう男なのである。


 そんな、少々枯れていると称されてもおかしくはない若者は今、お銀に抱きつかれていることに、どうしたものかと少々考え倦ねていた。

 もうすぐ宵になる。

 その前には宿にたどり着いておきたい。

 だがしかし、お銀を振り払うのは気が引けた。

 男が女を振り払うのは、些か乱暴に感じた若者。

 彼女から離れてくれたらよいのだが。

 そんな若者の心情を察して、彼の腕に引っ付くお銀の肩に手を置きながら、利之助が声をかける。


「こらこらお銀。そうも、しがみつかれては旦那も身動き取りにくいでしょう?離れて差し上げて」


 申し訳無さそうに若者を見る利之助をお銀は至極つまらなそうに睨んでから、若者の腕からするりと離れた。


「ありがとうございます利之助さん。お銀さんも。お銀さんと離れたかったわけじゃないんですけど、早く宿に行かないと……」


 若者は少し照れくさそうに小さく笑い、お銀に手を差し伸べる。


「お銀さんは女性ですからね。夜道を女性を連れて歩くわけにはいきません。それもお銀さんは、とびっきりべっぴんさんなんですから!」


 お銀さんはそういうところ無頓着ですから俺たちが気をつけないと、と若者が言葉を紡いだところで彼の手が握られる。

 美しくも少々骨張ったヨミの手に。


「はいはい先生。こんなところで、くっちゃべってないで、さっさと宿に行きますよ。あたしは、もう体がくたくたなんでね」


 手をぐいと引かれた若者は少々戸惑いながらも、親に手を引かれる幼子のように、ただヨミについていくことしかできない。


「ちょっと!!旦那はわっちとしゃべっていたんだよ!邪魔をおしでないよ!このネズミ野郎!!」


 目をつり上げて喚くお銀などどこ吹く風でヨミは若者を連れてずんずんと前をゆく。

 その光景を見兼ねたのか、まるで相手にされてないお銀に同情したのか、そのどちらでもなのか、少し肩を落とした利之助がお銀を優しく宥める。

 お銀は腹の虫が治まらないようだったが、利之助に促されるまま前を行く二人の後を追う。

 黒にほど近い空には、月がぼんやりと微かに一点だけ白く濁らせていた。






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