第24話
狭く汚らしい牢の中にリュドヴィックは構わず入ってきて、アガットを労ってくれ、それは人間としてとてつもなく素晴らしいことではあったけれども、アガットにとっては困惑しきりである。
「……先生は国王陛下の元へお逃げになったとばかりに思っておりました」
とまで言ってしまったのは貴族にしては慎みがなかったが、二週間入浴もままならない姿で今更見栄を張っても仕方がない。
リュドヴィックは老人らしい斑点の浮いた顔に傷ついた表情を浮かべた。こちらの良心をズキリと痛ませる顔だった。この老人は……それほど有能な魔法使いではない、とアガットはなんとなくわかっている。ただ古い家系の昔の契約に基づき、シャヴァネル公爵家を支えてきた凡庸な魔法使い。感情に流されるアガットが毒殺の暗殺者としては二流であるのと同じに。
「国王陛下は契約より魔法使いを庇護なさる。儂は安泰の身じゃったよ」
「おつらい思いをなさっていますの?」
リュドヴィックは学者と司祭の顔に苦悩を滲ませる。彼は政争の中にいるべき人ではなかったのだろう、それを、レオのため無理にそこにいたから。
「レオ様はずっと先生のことを気にしてらっしゃいましたわ。お元気にしておられるか、シャヴァネルに忠義を尽くし、国王側で裏切り者と謗られていはしまいかと」
でまかせである。が、レオに聞けばまさしくずっとそう考えていたのだと頷くだろう。そしてそれをそのまま自分の本心だと信じ込んでしまうに違いない。
リュドヴィックは顔を覆い、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。まるで懺悔のよう――あるいは、彼の中ではまさしくこれは懺悔なのだろう。
「そなたには悪いことをした。レオはきっとひととき身が落ち着けばそなたを開放するだろうと思っていたのに……どうして白薔薇宮殿にまで連れてきてしまったのだか。こうなることは分かっていたはずだ」
老人は顔を上げる。学術と魔法研究に実を捧げてきた深い皺のある顔、汚れが染みこんだ手。
「レオは今、北の山脈にて兵を募っている。魔物と戦って後、各地に解散した騎士団や軍の一員がレオを慕って終結しつつあるのだ。それなりの軍勢になるだろう、それでもって王都を襲うのもじきだろう。そなたがそれまで無事である保証はない。何の力も後ろ盾も持たないそなたのような娘が……。レオの身代わりに、殺されてしまうぞ!」
アガットは目を瞬く。膝の上で爪の中に土が詰まった手をぎゅっと握り合わせる。
「先生、私が何をしてきたかご存知なかったのですか」
魔法使いは何を言われたのか分からないといった様子。嘘の気配はしなかった。
「何を言っておる?」
「いいえ……」
アガットは薄く、苦く笑う。彼女の中にあった一定の基準が壊れる音がした。魔法使いや上級貴族は人格にも優れた善人だけで構成され、国を正しく導いてくださるのだ、という。
――あの人たちがへんな人なのは下級貴族だから。平民だから。私が悪いわけじゃない。
そう思い込むことで自分を守り、やがて防御の意識が攻撃にとってかわられ毒を手にしたアガットにとって、それは最後の砦の崩壊でもあった。
リュドヴィックは静かにアガットに向き直る。
「牢番には儂が鼻薬を嗅がせた。姫様もきちんと説得してみせよう。姫様の家庭教師は儂のかつての教え子じゃ。――さ、おいでアガット。迎えに来たのじゃよ。安全なところへ身を隠そう」
アガットは首を横に振った。
「先生、私――レオ様を愛しています。信じているんです」
アガットは身体を斜めにして老魔法使いに目を合わせた。こんこんと語る言葉が意識を形づくり、やがてそれが本当になる。
「だからそれを受け入れるわけに参りませんわ。私はレオ様の手で救い出されねばなりません。それが彼の正統性を、騎士道精神を象徴する出来事になるでしょう」
半分、本心だったのかもしれない。心からそんな絵物語を信じていたのかも。
(私を見捨てたらレオは妻殺しの汚名を浴びる。迎えに来てもらうわ、必ず。そして私をずっと大切にしてもらう。ずっとそばにいたい。愛人も無理。もし連れてきたら殺してやる。この手で)
心の中で青い炎が燃え盛り、やがて凝縮していった。ひとつになって白いほどに光輝き延々と燃え続ける。
(狂気に近しいほどに信頼し、愛してあげよう。この私を裏切れるものなら裏切るがいい、と笑ってやれるほどに献身してやる)
「先生、」
アガットは笑った。いっそからりとした笑いだった。自分の命などなんとも思っていないかのような。
「ずるをしたっていずればれますわ。この世で唯一力を持つのは剣と名誉だけです。どちらも持っていない身では待つしかありませんの」
「だが、アガット――」
「いいえ、いいえ」
アガットは笑って立ち上がり、牢の重たい扉を開く。閉じてこないように膝で抑えながら、その先を指し示す。
「どうかお帰りください、先生。もし私を連れ帰りたいとおっしゃるなら、二つ隣の牢にナディネという侍女が捕まっていますから彼女を代わりに連れていってください。私の巻き添えでひどい目にあっている、かわいそうな娘です」
それでそのようになった。
リュドヴィックは色々と言い訳をしたが、稼げた時間そのものがあまり多くなかったのだろう。絶望していたかわいそうなナディネは魔法使いに連れられて、階段を上がっていった。
「奥方様――、あの、ありがとうございます!」
と少女のような声の礼が一言、聞こえたので、アガットはそっちに向かってにっこりする。これでナディネはアガットから逃れられない手駒となった。命を助けられた恩を忘れるようでは氏族の魂に報いることはできず、その原因がアガットにあるとするならナディネは忠義の意味を知らぬ田舎の偽貴族である。彼女は自らの名誉を守るため、アガットに服従せざるをえない。
アガットは牢に半ば居座り、ときを待った。
もう待ちくたびれることはないだろう。たとえこのままここで死んだとしても、レオが死ぬまで取り憑いてやればいいだけの話なのだ。
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