第25話



日付がいつになったかは分からないが、投獄されてだいたい三週間経っただろうか。


その日、半分がた黴たパンと珍しく薄いスープの木の椀を持ってきたのはジョシュアだった。騎士団の一員でレオの部下、アガットの夜歩きのお供である。


「ジョ……」


危うく呼びそうになり、慌てて膝を抱えて素知らぬ顔をする。彼はまだ幼さの残る顔をぐっと歪ませたが、こらえて、


「いいですか。もうちょっとだけ大人しくしててくださいよ。死ぬことはなさそうですからね」


アガットは頷いた。


「ねえ、ナディネは? 侍女の子。そっちで保護してるかしら?」


「ああ、あの人。ええ、無事です」


「よかった」


奥の牢から足音がした。ジョシュアは素知らぬ顔で踵を返し、アガットの牢の扉を施錠する。牢番らしいボロく野暮ったいコートを翻して足音と反対の方向へ歩き去る音が聞こえた。


アガットはふうっと肩の力を抜き、足がぴりっとつりそうなのを揉んでいるうちに、そういえばレオ様のことを聞けばよかったわ――と気づいて目を丸くした。そんなことを思いつきもしなかった。レオが負けるはずはないと思い込んでいた。リュドヴィックに聞いた情報のこともあったが、それ以上に驚くほど彼を信頼し、それだけで満ち足りていたのだった。


――あなたは必ずや私を見つけ、助け出す。


だから、安心していていいのだ、という。


アガットは硬いパンを指で毟りながら赤面した。我ながらロマンスに凝った世間知らずのご令嬢さながらの、甘ったるい世迷言である。


もちろんリュドヴィックが噓の情報を伝えた可能性もあったし、そもそも彼が国王に内通していない可能性の方が低い。宮廷人、貴族……いや、ダキネラル人というのはそういう種族なのだ。そのときどきで自分のいいように盟約を解釈し、主君を変えて飛び回る。それを縛るのが教会の記録簿であり、魂をかけた契約であり、忠誠であり、名誉なのだ。


栄養不足に軽い痙攣を繰り返す足を宥めながら、アガットはゴウゴウという水の音に紛れるささやかな音を拾う。囚人服の下で皮膚は汗疹や湿疹、ダニの歯型にひどい状況で、髪の毛なんてもつれもつれて悪霊のようだ。


だが緑の目はまだ諦めていない。これはアガットの宿業なのだ。


(ぜったいに生きてここを出るわ。そして――レオ様の隣に行くの)


らしくなく胸が高鳴った。彼がどれほど愛人を囲っても、なんなら小姓に手を付けたって我慢しようとさえ思った。もしアガットが生まれ通り平民と結婚していたら、浮気した夫もその相手も軒並み毒殺していただろう。でも……。


(私が正妻なら、いい)


と、渋々認める。自分の中にある最低の譲歩の限度を。正妻の立場さえあれば、それを守り通せるならやりようはいくらでもある。教会の記録簿に記載された正統さと人脈と毒を使い、彼の最後の一人になってやるのだ。そのためなら……愛されなくても、いい。


げんにレオは白薔薇宮殿で動きやすくするためエレオノーラ姫に優しくしたし、それが結果として姫を増長させ暴走させることもわかっていただろう。大司教邸の侍女に甘い言葉を投げていたことも、王都に来てからは男たちと連れ立って娼館で羽目を外していることも知っている。


立場が下の女相手に遊び回れる男が、それ以上のことに踏み出すのはすぐだ。


アガットはしょんぼり肩を落としながらパンを食べ終え、爆発音をうっかり聞き逃した。


「――え!?」


と叫んだときにはもはや暗い牢の中からは、外の状況含め何が何やらわからない。明り取りからもうもうと砂塵が降ってきて、咄嗟に寝台の上に伏せ目を守る。


(爆発――魔法!? よほど魔力の強い魔法使い以外には使えないはずの……何故!?)


と、思考ばかりが混乱する。


剣戟の音が聞こえてきた、かに思われたが、すぐにそれは止んだ。今となっては耳に馴染んだキイキイ甲高い声で牢番が叫ぶのが聞こえる。


「おやめなさい! おやめなさいぃ! ここは国王陛下の牢ですぞ!!」


アガットは顔を上げた。まだ噴煙は収まらず、扉も開かれてはいない。だが、感じた。水流の音に混じって、冷ややかで圧迫感のある低い声が朗々と流れている。音ではなく響きで感じる花火の存在のように。


「――では、私に逆らうというのだな?」


の一言で牢番を黙らせたレオは、ギイイと大きな音を立てて開いた扉の向こうに立っていた。凛々しくも切迫した貴公子の立ち姿。


アガットは寝台を飛び降り、くらくらしながら夫の腕の中に飛び込んだ。


「アガット」


と囁く声。レオの声だ。狩猟小屋で聞いたときと同じ声音だ。頭を撫でてくれる手は、あたたかな血の通った温度をしている。


瞬間、すべての恨みも憎しみも吹き飛んだ。暗い牢の中でねちねちと考えていた、まだ存在もしていない彼の愛人を殺してやる毒の選別も。


囚人服の裾から、漆喰の砂がほろほろ落ちる。


「レオ様」


「アガット。傷は? 拷――尋問はあったか」


「いいえ」


アガットは首を横に振った。


周囲を行きかう騎士たちの足音も、怒鳴り声、俺も開放しろと叫ぶ声、静かにしろと応じる殺気立った声、地上でする音や鬨の声や、戦争が起きていると一瞬でわかる馬蹄の響きなど、すべて意識の外である。


「私は大丈夫です」


「遅くなってすまなかった」


「いいえ」


アガットはレオの胸板に手をついて、金髪の貴公子の緑の目が潤んでいるのを覗き込む。高貴なる青い血の色がそのまま透けたように深みを増した、そのどこまでも透明な夏の森の色。


「あなたが来てくれるのを知っていましたもの」


「そうか」


レオはかすかに眉を顰め、くっと口角を上げてアガットの頬を撫でた。――その手の熱さ!


「俺がきみの期待に応えられないなんてことは、この先一生、ありえない」


「まあ、一生を約束してくださるの?」


「当たり前だろう」


強い腕に抱きかかえられ、アガットはぎょっとする。


「レオ、汚いですよ」


「ん? いや、戦場の男臭さに比べれば花のようだぞ」


「それとこれとを比べないでくださいまし……」


苦笑するなりくたんと身体の力が抜けた。死ぬ前の草食獣がせめて苦痛なく逝けるようにと肉食獣に腹を曝け出す、どこかそんな動きで。


「きみは俺の妻なんだから。俺の唯一の妻なんだから。一生、俺のものだよ」


アガットは心から笑った。レオの唇がそっと彼女の口の端をかすめ、やがて何度か口づけを交わした。


周囲には血と火の海が、悲鳴と略奪、殺戮の波が押し寄せていた。


魔物と直接戦闘を行った経験のある騎士団を前に、白薔薇宮殿の警備兵は歯が立たなかった。帝室への不信感を持つ三氏族を中心に、レオの反逆の宣言に付き従った歴戦のつわものどものが走り回る。


宮殿の大門から玉座へ一直線に続く道の果ての、もっとも高い大尖塔に翻る旗がある。


シャヴァネル家の家紋、翼を広げた大鷲だ。シャヴァネル率いる氏族の旗だ。大理石の尖塔に、誇らしげに飛ぶ大鷲がいる。


アガットは腕に当たる硬い感触に気づいた。それはレオの愛する魔法銃で、つい先ほどぶっぱなされたばかりだと言うようにまだ熱を持っていた。


「これ、見つかりましたのね」


「ああ。忠義者が隠していてくれたのだ。先王の手からな」


その呼称にアガットは何も言わなかった。


「よく褒美を取らせておやりなさいませ」


「そのつもりだ――だがそれは、奥方の仕事だよ、私の小さな奥さん」


茶目っ気を含んだレオの口づけが再び振ってくる。確かに臣下に褒章を取らせるのも、経理の面倒を見るのも正妻の仕事である。


冷たい風、三週間ぶりの外気の清潔さにアガットは涙が滲んだ。燃え盛る白薔薇宮殿にざまあみろと言いたくて、レオの腕の中でそんなことを言ってはいけないとも思う。


二人でずっとそうして、赤い炎を見つめていた。時折、ミゲルやほかの騎士がレオに指示を請いに来る。レオは二言、三言それに答える。


「宮殿が燃えていく……」


呟きに、アガットはレオの白皙の美貌を振り仰いだ。炎に照らされて赤くなるのではなく、ますます白さが引き立つような美しさを。


「素直になっていいの。嫌いな人は嫌いと思っていいのよ。だってあなたは王様になるんでしょ?」


レオの腕に力が籠り、アガットは――ああ、この腕は私を傷つけないのだとわかって、嬉しかった。胸の奥底から愛情が沸き上がってくる。


「白薔薇宮殿なんて名前、古いと思わないか」


「ええ」


「新しい宮は別の名前にする」


「よろしゅうございますわね」


「うん……」


ほっと、腹の奥底からレオは息を吐き出した。アガットを抱え、目は炎を見つめたまま。


「全部終わったんだ……」


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