第23話



教会の記録簿はすべてを記録する。アガットが死ねばその旨も当然、レオの配偶者の死として記録簿は指し示すし、レオはそれを閲覧することができる。


――妻を裁判もなしに処刑されたともなれば、十分決起の理由に足る。


よってアガットの命にはしばらくの猶予があるはずだった。嘘でもいいから証拠を集め、貴族を裁くための法廷を開き、判決を出すまでに冬がまるごと必要だろう。アガットは生まれてはじめて、祖父が得た子爵の地位に感謝した。貴族と平民では法律上の扱われ方も大いに違うからだ。


あのお姫様が暴走する可能性も考えられないでもないが、付き従う人間が諫めれば大丈夫、なはず。


部屋に残る毒は間諜のうちの一人が処分したはずだ。かつて滅んだ氏族の生き残りの一人で、宮殿の中で居場所がない若い侍女。レオの名の許に身分を保証してやったのでかなり生きやすくなり、それに多少の恩義を感じてくれていた。彼女は裏切らないだろう。仕事をきちんとこなすことで生き残ってきた娘だから。


アガットはレオが今どこで何をしているのか知らない。王と森の中で二人きり、あるいは護衛はいるのかもしれないが、決して和やかな話し合いにはならないだろう。


(さて、さて、さて。――どうなるのかしらね、父さん?)

「お前の取れる手段を考えてごらん、アガット。この暗い牢屋の中で、お前のできることはなんだ?」


アガットはノミに食われた腕の傷を掻き毟る。当然のように不潔なこの狭い空間の中、母親たちに物置小屋に閉じ込められたり椅子に縛り付けられた経験がなければどうなっていたことやら。


(毒の生成)


結局のところ、アガットにできることといったらそれだけだ。


「うん、なんの毒なら使える?」

(黴から毒素を抽出できれば、使えるものができるかも……)


「うん。そのために必要なのは?」

「蒸留装置。魔力で動く繊細な動作ができるやつ」


「それはここにあるのかい?」

「ない。手に入れる方法もない……」


アガットは上を向いて寝台に横たわる。ばっと埃が散って喉と目が痛み、彼女は力なく腕で目を覆った。


「――いいえ。道はあるはずだわ」


そうでなければならなかった。ここまで生き延びてきたのだ。生き残らなければ、なんのために人を殺したのかわからないじゃない。


アガットは決意した。しかし決意がどれほど硬かろうがどうにかなるものとならないものがある。


石壁の比較的柔らかい、湿気にやられて粘土状になっているところに爪であとを付け日付を数えた。魔力を練って体内に蓄えようと思ったが、牢全体に特殊な結界魔法が張られているらしくそれはできなかった。そもそもアガットの魔力自体、ちょっとした起爆になる程度の薄っぺらいものだ。


エレオノーラ姫はあれ以来訪れなかった。あの態度は失敗だった。もう少しだけここに足を向けさせることができれば、なんらかのきっかけになったかもしれない。


……思い出すのは、レオとの日々。不思議なことだ。これまではこうして時間ができるたび、脳裏に占めるのはつらかった思い出だけだったのに。


自分が甘い思い出に浸って身を捩る女になったとは、つくづく運命とはわからない。これまでのアガットはそんなことをするのはその役目に生まれついた女、つまりは実の母親や継母や、学院で話すこともなかった美しい少女たちだけだと思っていた。彼女たちは生まれたときからそれらのやり方を知っており、知らない自分には縁ないものだと。


レオの髪や指先を思い出す。声が低くなると腰に響いたこと、うなじの毛がぞくぞく逆立つほどのまなざしを思い出す。アガットはいつの間にかレオのことを深く愛していたが、夫である人がそうだという確証はない。また、夫婦なのだから必ず互いに思いあわなければならないということもないのだ、悲しいことに。


さて、そのようにして二週間が過ぎた。アガットはげっそりと痩せた、というかやつれた。何せ食事が硬くなったパンと水だけである。最低限、死なせないための量だ。


思考は分散し、まとまらない。ただときどき視界の端に金色が煌めくので、レオかと思ってそっちを見ては、また膝の上の手に戻す。


(また、会いたい)


と思う。死にたくない、以上に強い思いを抱いたのは人生で初めてだった。


(また会いたいから、生きる)


石の隙間を埋める漆喰をひっかいて集め、砂のかたまりにして握り込んだ。いざというとき、目つぶしくらいにはなると思って。そのせいで爪が割れたけれど、なに、薬屋の仕込み稽古はもっとキツかった。


レオがこの先敗北せず、勝利したとして――待っているのはたくさんの愛人を持つレオとそれを見ているしかないだけの自分だろう。血筋を残すのは高位の男性の義務だ。そしてアガットの義務は愛人と子供たちとの生存競争に打ち勝つこと。アガットが子供に恵まれたとしても父親は死んでなんの後ろ盾もない子爵家の娘が母親では、もっと高位の家から来た愛人の子供に勝つのは難しいだろう。


子供ともども家を追い出され、ドロの中で死ぬのかもしれないし、もっと悪いと政争に負けて利用される駒に落ち、子供は殺されるか引き離されアガットは子産みの道具にされる。


レオと正式に離婚できればまだましな方。だから、かつてはそれを目指していた。


けれど。


(会いたい――こんなにも会いたいのに、離婚なんて無理だわ)


アガットは苦く笑った。自分を嘲る気持ちで。頭の片隅で薬屋がクックと笑い、ああ――これこそ彼の復讐が成就した証なのかもしれないとさえ思う。


アガットは恋に狂った女に成り下がった。こうならないために武器を、毒を覚えたのに。


(愛人も無理。もしレオが連れてきたら殺してやる。この手で)


狂気はぐつぐつと煮込まれて凝縮していく。


(ここから生きて出られたら、そうできるだけの力と立場を手に入れよう)


どこか遠い上の方でガタンと音がした。牢の鍵が外れたのだ。


意識の外で鳴っていた暗渠の水の音は変わらずゴウゴウと、泣きわめく男の声は止まった。


牢の中の人間たちみんなが神経を張り詰め、誰が来たのかと期待している――その空気をアガットは感じ取った。そこまで牢に馴染んでいた。


果たして足音は、アガットの牢の前で止まった。ギイイ、と扉そのものが開く。


牢番の横、そこに立っていたのは魔法使いリュドヴィックだった。


「まあ……先生」

「アガット。……おお、」


老人は深いため息をつき、小さな目をしょぼしょぼさせたかと思うと口を震わせ、


「なんということに。……おお、儂を許してくれ!」


大仰に泣き出した。

アガットは困った。ここにきてこの老人の相手をすることになるとは思わなかったのである。


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