第22話

牢屋は寒く小さく古びており、はるか上方に申し訳程度に設えられた明り取りにさえ鉄格子が嵌っていた。細長い石壁の暗い部屋で、今は陽光が差しているからさほどでもないが夜には真の暗闇となる。横の広さはアガットが両手を広げれば指先が壁に届くくらい。縦はかろうじて横たわることができる寝台に、おまるがひとつ置けるくらい。どちらも洗ったことはないようだった。


扉は鉄製の分厚いもので、顔の高さに鉄格子がついている。脱出は不可能だった。


与えられた囚人服は間違いなく何十人もの囚人が着たのだろう、綻びて異臭を放ち、袖を通すとちくちくした。どこからか女の泣き声が響いてきたが、あれはナディネだろうか。彼女も運が悪い人だ。


アガットは腐りかけた寝台の上でときを数えた。まだ一日しか経っていない。


コルセットさえ没収されてしまったので、久しぶりに息が楽だったがお世辞にも吸いたい空気ではない。黴臭い空気を吸い込まないようにアガットは鼻を抑えてうずくまり、ただ緑の目ばかりがらんらんと光る。


宮殿にこのような場所があるとは知らなかった。日差しの具合からして半分地下に牢はあり、ゴウゴウと腹に響く音を思えばこの真下に下水道が通っているらしい。――罪を犯した宮廷人を収監するための、王の牢か。


収監される前に矜持を折る目的でなされた身体検査のせいで、足の間が鈍く痛んだ。腹にはいくつもの殴打痕がついている。痛みから入り込んだ寒気が、骨まで染みるようだった。


――女性の身体にはものを隠しておける場所がありますのでねえ。


と牢番は言い、アガットは抗議の声を上げる間もなく下男たちに抑えられ、腹を殴られ内容物が全部出た。それから……彼らはアガットを床に抑えつけて、器具はスプーンのような形状をしており、古くて少し錆ていた……。


(やめましょう。陰気になるのは)


アガットは組んだ腕の中に顔を伏せる。牢の汚物と黴のにおい。


記憶の中の薬屋が優しく微笑む、


「そうだとも。重要なのは最期まで諦めないことさ。それでもどうしようもないときは、首の括り方をきみは知っている。そうだろう?」


(ええ、父さん)


でもどうやらこの牢には裂いた衣服の紐をかける突起もないの。ドアノブさえついてないんだから。


父の答えはなかった。――どうやら悪霊になって殺しに来てくれるわけではないらしい。アガットは苦笑した。ずっと聞いてみたかったことを聞いてみることにした。


(父さんは私に母さんを殺させようとして毒を教えたの?)


薬屋は答えない。金髪に近い亜麻色の髪を揺らし、緑の目を優しくなごませてただアガットを見つめるだけ。当然だ。彼はアガットの心の中にいるのだから、アガットが持ちえない応えは教えてくれない。


まだ一日しかここにいないがすでに異音に敏感になっていた。水の轟音の中にアガットは複数の足音を聞き取り顔を上げた。


汚らしい囚人服を着ていても、侮られたくはなかった。アガットは背筋を伸ばして扉の鉄格子の前に立った。邪魔なおまるをなるべく足で隅によける。


足音は三つあった。軽やかな、おそらく貴婦人のものがひとつ。鋲を打った靴を履いた男のものがふたつ。


控え所から走り出てきた牢番が、へこへこしながら扉の鉄格子についた鉄の蓋を開ける。


アガットと彼女の目があった。……驚いた。


アガットはなるべくきっちりした仕草で礼をした。


「御意を得ます、エレオノーラ姫様。公爵子息レオ・クロード・ドゥ・シャヴァネルの妻、アガット・ド・ブルーニと申します」


驚いたのは姫も同じ、だが身分が下の者から先に挨拶する慣習に従って動けた分、ほんの少しだけアガットが有利である。


エレオノーラ姫は国王陛下の一粒種の十六歳。今は勇者ジュリアンと婚約しているが、その前は貴公子レオと婚約があった。婚約者がくるくる変わるくらい重要な立場の女性であるということだ。


聞いていたとおりの美少女だった。こてを当てなくてもくるくるした髪は銀色、緑の目は少しだけ薄い新緑の色。少しだけ地味な、けれど布地も縫製も一級品のドレスを身に纏っていた。暗い臭い牢にあっても彼女だけに光が当たっているよう。まるで春の日の光の元にあるかのような、輝くばかりの少女。


背後の二人は、と見れば勇者ジュリアンはいなかった。どちらかがそうかと思っていたのだが。文官と、武官である。ジュリアンの旅に同行した魔術師アルツ・コアと、剣士ウィルフレッドだろうとあたりをつけた。一方はローブ姿で杖を持ち、もう一方は平服だが帯剣している。凱旋パレードで見たことがある。


「姫様、お下がりを。この女は毒を使います」

「姫様、ご命令をください。一発で仕留めてみせますよ」


と姦しい男たちは置いておいて、アガットはエレオノーラ姫にすっと視線を定めた。


「姫様、正直なところ困惑しておりますの。ここに入れられる覚えがないものですから。我が夫は数日前から国王陛下に誘われ、遠乗りに出かけております。どうか姫様、このことを彼に知らせてくださいませんか?」


「貴様……ッ、姫様になんという無礼を!」

「おのれぇ! 姫様、殺させてください!」


「私が危機的な状況にあると知れば、夫はすぐさま馬を取って返し私を救ってくださるはずですわ。エレオノーラ姫様もご存知の通り、騎士道精神に溢れた人なんですの。ねえ?」


エレオノーラ姫の顔が一気に真っ赤になった。煽りが効いたことにアガットはほっとした。敵の目論見を見誤っていなかったことに。


のこのこと牢にまで様子を見に来るなんて、自分が下手人ですと白状しているようなものだ。アガットの父を見つけ出し、白薔薇宮殿に入れて挑発した……それに乗ってしまったのはアガットの失態である。ここからどこまで巻き返せるか。


「あっ、あなたなんて……!」


と姫はわなわな震える両手を握りしめ、鉄格子ごしにアガットをきっと睨みつける。潤んだ瞳も愛らしい。


「あなたなんて、レオにいさまのことなぁんにも知らないくせに!! あたくしはッ、レオにいさまをあなたから救ってみせるわ! あなたなんてっ、シャヴァネル公爵家にはふさわしくない!!」


「その相応しくない嫁を利用してでも逃げなければならない状況に、レオ様を追い詰めたのはお父君ですわ、姫様」


アガットは仰々しい一礼をする。


「夫はその不利な状況から形勢逆転を果たそうとしているのです。どうか、姫様、昔のことを少しでも思い出してくださるのなら、夫のために私を解放してくださいませ」


「お黙りィッ!!」


姫君は絶叫した。なんと乗せられやすい人だろうとアガットは呆れた。こんなことで今後、この国の外交は大丈夫だろうか。王妃や姫といった人たちは重要な外交官の一員だというのに。


「あたくしには自由なんてなんにもないっ、いつだってお父様の言いなりの、かわいいお人形だわ! でもレオ様はね、あたくしの美しさを誇りなさいと教えてくださったのよ。あなたなんかと出会うよりずっと前から、お母様のお茶会でご一緒してたんですからね!?」


「さようでございますか」


「あたくし、絶対レオにいさまを助けてみせるわっ。たとえ命に代えてもっ。今は……今でこそ、ジュリアン様に心奪われているあたくしだけど、レオにいさまを想う気持ちはちっとも変わっていないんだから!」


と、突然エレオノーラ姫は妖精のようなか細い肢体全身を使って胸を張った。


「結婚式も、初夜さえ済ませていないあなたなんか何もできないわ!」


――ん? とアガットは内心首を傾げ、顔ばかりは微笑をたたえたまま思わず男二人をちらっと見てしまった。ちょっと待ってこれ大丈夫なの?


男二人の表情も姿勢も相変わらず敵意に満ちて、しかしながらちょっぴり目が泳ぐ。


(――あら、あらあら)

としか思いようがない。


成人したまだ若い男女が仮にとはいえ夫婦の契りを結び、同じ場所で数か月暮らしておいて何もないと信じているとは。姫君は十六歳である。であるが、もう結婚できる年だ。


例えば今こうして腰を沈めている礼はただ上半身を倒しただけではなく、足はカエル足と呼ばれるひどいガニ股になっている。粗悪な囚人服の生地がぴりぴり音を立てるほどに足を開いて腰を落とさなければこの礼の形にはならない。レオはこの足の状況がちょっと変態的なほどに気に入ったようで、この礼を取らされたまま後ろからド突きまわされた夜もあったのだ。


いわく、

「まさかきみたちがスカートの下でこんなことしているとは思わなかったよ」

とかなんとか。


エレオノーラ姫の美しさに対する敵愾心さえしゅるしゅるとしぼんでいった。


(本当にお茶を飲んで話をするだけだったの、あの人とこの方……)


まあ考えてみればそれはその通り、姫の純潔は国の体面に直結する問題だから、迂闊なことはできるはずはない。キスくらいはしたかもしれないが。


「あたくし、ジュリアン様に恋をして愛を知ったの。でもあたくしを人間にしてくださったのはレオにいさまだからっ、だからっ、レオにいさまをぜったい自由にして差し上げるの! もう公爵家なんかに囚われなくってもいい……ああ、馬に乗って、風のように駆けるレオにいさま……」


エレオノーラ姫はうっとりと胸に両手を当てた。


「お母上が突然亡くなって、どんなにか心細いことでしょう。あたくしがお慰めしてあげるのよ。そのあと、あたくしジュリアンのところにお嫁に行ってしまうのだけれど……!」


アガットは姿勢を戻した。不敬ととられても知ったことか。


彼女の胸の中にあるのは、この麗しいお人形さんに対する心からの軽蔑。続く帝室への、これまで抱いたことのなかった怒り。どうして国王が急にシャヴァネル廃絶なんてとんでもないことを言い渡したのか。帝室アヴァトグルニがもう、ダメだということがようやくわかって、どこかほっとした気持ち。


アガットは鉄格子を掴んだ。毒避けのまじないと、あとは結界魔法でもかかっていたのだろう、手のひらがジュッと焼けたが気にしなかった。


「レオ様はシャヴァネル公爵家を愛してらっしゃいますよ。そしてお母上のことは憎んでらっしゃいました」


「なっ、なにを言うのよ。……まさか、まさかあの噂は本当なのねッ、あなたがあのお優しかった公爵夫人を……!」


「エレオノーラ姫様」


優しく甘く低く喉を使わず囁く、赤ちゃんの肌を撫でるような声をアガットは出した。姫君はビクッと飛び上がった。


「もう黙りなさい。いつか殺してあげるから、それまで待ってなさい」


あまりのことに銀髪の美少女は絶句し、男ふたりはそれぞれ杖と剣に手をかけた。


アガットの手持ちの毒は今、何もない。法律も機能しないまま強制的に牢に放り込まれ、目の前に自分を殺せる力を持った男がおり、はるかに高位の女性に面と向かって敵対を叫ばれ、けれどもそれで臆したりなどしない。


――こんなお姫様を崇める奴らと戦って、レオ様が負けるものか。


その確信がある以上、アガットは決して引かない。


じゅううう、と煙を漂わせる手をアガットは鉄格子から引き剥がし、ホラ、とエレオノーラ姫に見せつけた。


「これが私の誓いよ。さあ、もうお行きなさい。パァパとマァマが心配して待っていますよ……」


姫は屈辱に顔を真っ赤にすると、くるりと踵を返して去っていく。男たちが後に従い、飛び出した牢番が彼らの後ろ姿に向かって頭を下げ、上げたときにはアガットはすでに寝台の上。


牢番はぶつぶつ言いながら鉄の蓋を閉め、室内はぱっと暗くなった。


アガットは膝を抱え、低く笑った。生き延びるために色々と考えなくてはならないことがあり、手のひらの痛みはその助けになってくれるだろう。


一つの達観が彼女の中に生まれつつあった――そうか。人を避けてもなんにもならないのだ。一度でも人と関わりを持った以上、関わりは際限なく膨らみ人の方からこちらにやってくる。人間に生まれたのだから、人間の中で生きなくてはならないのだ。


あんなお姫様のようになってしまう前に。


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