第21話



レオの国王の話し合いは難航していた。なんといっても老齢の国王がころころと言い分を変えるのである。聡明だった王妃はすでに亡く、彼の周辺に控える大臣たちもすでに老いた。王子はいない、王女だけ。もはや誰の言葉も彼には届かない。


そんな中アガットはといえば、相変わらず間諜たちと戯れ、夜会では壁の花になる日々だった。


レオとはたまに顔を合わせることができ、言葉を交わす。会話が途切れても沈黙は苦にならなかった。リオンの存在を悟られるわけにはいかなかったので、関係のない会話をしながら指文字や筆談で近況を伝え聞いた。あの狩猟小屋でともに過ごした頃の家族のような、同輩のような雰囲気は戻ってこなかったが、仕事を通じた確かな信頼が互いの間に存在する、気がしていた。


すべてはアガットの錯覚かもしれない。レオは優しかったが、誰にでもそうだから。自分が一番だなどと驕り舞い上がってはならなかった。


さて、そのような中でどこからどう話が伝わっていったものやら。


その日、アガットは遅く起きた。前日の夜会でさんざん飲まされた赤ワインの悪酔いが、甘口で口当たりがいい酒だっただけに頭の後ろの方にずきずきと残っていた。


「お客人がいらしております」


とナディネが言ったのは、だからある意味騙し討ちのようなものだった。


「予定はないはずじゃ?」


「緊急のお客人です。……お身内の方ですよ」


アガットは起き上がり、手伝ってもらいながら着替えをすませ、髪を整え、ビスケットと紅茶の軽い食事をとった。ゆうに一時間を越える身支度の間、その客人は待たせておいた――身内? 訪ねてくる身内など、いないはずだったから。


ナディネは多くは話さない。何を聞いてもわかりませんと言うのは、侍女の護身術のひとつだった。アガットがきちんとした格好で客間に姿を現すと、その紳士は立ち上がりはくはくと口を動かした。


「――遅い!」


と、言ったのだろうか。喉が潰れているらしい、ひどい掠れた小さな声は死にかけの老人のようだ。


「あぁ……」


アガットは腹の前で手を組んだままゆるゆると吐き出した。


そこにいたのはテミア子爵だった。血筋の上での父親である。


ぼろっちい恰好をしていた。家を出たときは立派な正装姿で、公爵様の書記なのだと大威張りだったものだが。蓄えていた口髭は剃られ、あらゆる皮がたるみ、頭のてっぺんがハゲている。彼の心労を思えばアガットは同情すべきだった、娘なのだから。しかしそんな感情は沸いてこなかった。


「おかえりなさいませ、父上。永らくのお勤めご苦労様でございました」


と慇懃に一礼して、


「お母上や弟たちはどうしましたの、おひとりでこんなところまで」


我ながら冷ややかだと思う目でつくづく見やる。それまでアガットが一身に憎んでいたのは継母だったが、少し大人になり距離を置いた今になっては、不安定になっていた継母を支えるでもなく継子との生存競争に駆り出した彼に対しても軽蔑が沸く。


思えば彼が少しでも間に入ってくれていたなら、アガットは鉛毒を探そうなんて思わなかったはずである。


「街っ、街の、家に! お前、なぜ連絡よこさん」


父はぜいぜいと答えた、許可も乞わずにソファに座り込んで、用意されたお茶をがぶ飲みした。


「母さんは身体が不自由なのに――」


「ええ、私が鉛中毒にしましたからね」


アガットは彼の前のソファに音を立てずに座った。父はちょうどお茶請けに用意されたクッキーに手を伸ばし、早くも三枚目に齧りついていたところだったが、それを聞いて菓子を取り落とした。


(呆れたこと……)


さっき食べたばかりだったが、まだ喉は乾いていた。アガットは紅茶を啜る。爽快感のあるミントの匂いが鼻を通り抜け、ブレンドが好みの味で目を細めた。


「気づいてなかったの? 本当に? まあそうか。娼館や男同士の付き合いの方がお忙しかったものねェ」


「なん……」


父親の動揺する仕草が、いやになるほど自分に似ていた。アガットは過去を思う、薬屋こそが本当の父親であってくれと願い続けた幼年期。それから、もしそうでないなら恋人にしてくれと思いながら病に倒れた彼の世話をした思春期の、今でも思い出せば胸がきゅうっと疼く短く濃く甘い日々。


――なんでこの人、私の人生に入ってこようとしているのだろう。


薬屋はもういないし、レオだって忙しくて……エレオノーラ姫のご機嫌を取り、複雑な宮廷で立ち回るのに忙しくて、アガットを構っている暇もないのに。みんながそれを指さして笑うのに。前の夜会でも一人ぼっちで居心地が悪かった。なのに、どうして。


「どうしてこんなところまで来たんです? 私に何をさせようと?」


アガットは冷たい声でカップごしに告げた。


父親は思っていたよりしぶとく、というか、さすがに公爵閣下の書記まで成り上がった文官は肝が据わっていた。毒を恐れる本能はあれど、自分の娘を恐れることはないと考えたと見えて、


「保護っ、しろ。家族だろう。私に仕事を紹介……ああそれと、えっほ。レオ様に面通しを」


「してあげられることなどありませんわ、お飾りの妻ですもの」


「あの方が再度公爵閣下になられるのは、ごほ、周知の事実だ!」


「へえ」


コルセットの下にじっとり汗をかいていた。動揺している自分を悟られては付け込まれてしまう。


「はたしてそううまくいくものかしら。あの方は優しいから。シャヴァネル家が廃絶したのはつい最近のことよ。また復活して、また領地を再配分してでは王の采配に疑念を抱く者も出てくるでしょう」


父は何かを叫んだが、喘鳴が大半でうまく聞き取れない。ただ、不忠者め、と、その単語は聞こえた。


「不忠? 私が? いったいどこが。私ほどレオ様を支えてきた女はいないというのに」


彼の顔にはっきりとした蔑みの色が生まれたが、アガットはもうそれを見て心動かされることはないのだった。以前なら心が痛んだり、怯えたりしたのかもしれない。


そろそろか。と思った。そもそもここまでこの人を生かしておいたのがアガットの落ち度だった。まさか生き残るとは思わなかった。テミア子爵は戦場へ出征したわけではない。前線にほどちかい街に公爵家の経理流通の中継地点があって、そこで働いていたのだ。その街は魔物の群れに飲み込まれ、それを勇者ジュリアンが救ったという。


……死んだとばかり思っていた。


アガットはその奇跡を心底疎ましく思い、早く終わらせたいと願った。もう目の前のしょぼくれた男が父親だという事実を直視したくなかったし、顔をみたくなかったし、体臭や口臭に悩まされたくなかった。


ありていに言って、彼女は粗忽者に過ぎたのだった。


戦場からずたぼろで帰還した兵士ですら、国の補助や人々の好意を受けたとしても帰るのがやっとだというのに。この白薔薇宮殿の最深部まで、どうしてこんな格好で迷い込んでこれようか。どうして家族の面倒まで見られたというのだ。見るからに文無しで。


シャヴァネル公爵家は現在、廃絶が宣言されすべての経済活動が停止している状態なのに?


人の悪意に慣れすぎて、自分が知る以上の悪意を想像できなくなっていた……それがアガットの敗因だった。


彼女があらかじめ紅茶に入れておいたマリティアの粒は、シュテド・リを出る前滑り込みのようにあの老婆の店で買い求めたものだった。オーレアット・コットの魔導工場で作られた品質のいい、すぐに液体に溶ける、心臓発作を起こす粒だ。


父が胸を押さえて痙攣しはじめてすぐ、アガットは胸元の砂時計型のロケットから解毒薬を出し、紅茶で服用した。元々、循環系に効く毒への耐性がある方だったのですぐに症状は治まった。人魚の涙であるマリティアは、同じ海の生き物であるマナティの糞を乾燥させた丸薬で効果をなくすのだ。


「こ……っ、ぁっ、お前っ、お前!」


と父は呻いた。アガットの方にぶるぶる震える手を伸ばし、


「親不孝……っ! 地獄っ、地獄にっ」


「ええ。お父様と同じところに行けるのが待ち遠しいわ。覚悟はできてる。……おかわいそうな父上。誰もあなたなんて愛してないわ。その証拠に助けにも来ないじゃない」


アガットはテーブルに手をついて身を乗り出し、末期の痙攣を繰り返し口から泡を吹く男の耳に、小さく、素早く、何度も何度も、


「かわいそうっ。かわいそうっ。かわいそうっ」


そのようにしてテミア子爵はこと切れた。


アガットは切なく、だが満足していた。もう彼が目の前に現れることはないし、もう二度と殴られることはないし、学院の学費を絶つと脅されることも、髪の結い方ひとつで男ができたのか母親そっくりの淫蕩めと罵られることも、継母とその子供たちには新品の晴れ着が与えられアガットには祖母の古着が与えられる新年祭を迎えることはないのだった。すべては終わった……ように思われた。


扉を打ち壊す勢いで騎士たちが乱入してきたのはそのときである。アガットは思わず立ち上がった。壁際に控えていたナディネが悲鳴を上げた。


「見たぞ、紛い物の公爵の嫁め!」


鎧を着こみ、兜の面宛を下ろして人相をわからなく、また胸の前に堂々たる毒避けのまじない紋章をつけた騎士は叫ぶ。朗々とした声に紅茶のカップがビリビリ震え、ソーサーにぶつかって音が立つ。


「倒れた父親を介抱さえせんまま見殺しにするとは! やはりこの女が毒を盛ったに違いない! やあやあ者ども、かかれかかれぇ!! ここにいるのは魔女ぞ、公爵夫人ではないぞ!!」


――しまった。


アガットは胸を抑えた。もうロケットの中には何もない、袖口にも、ポケットの中にも。


(油断した、油断した!)


できることはなにもなかった。アガットは捕らえられた。レオに組み伏せられたときにあった、思いやり未満の手加減はかけらほどもなかった。抑えられた手首は折れる寸前まで握られ、


「――痛っ!」


と叫べば頬を鉄の籠手を嵌めた手で殴られ、鼻血が出て口の端が切れた。じたばたさせた足を体重かけて抑え込まれてしまえばもう動けない。


「やめてぇえ! 違います、私は彼女の部下じゃありません、きゅっ、宮殿の女官ですわ!」


と、けたたましくナディネが抵抗する音が聞こえる。


鎧で隠れた向こう、ダキネラル人の緑の目を光らせて騎士は厳粛に告げた、


「魔女め。楽に死ねると思うな……」


その言葉はアガットにとって死刑宣告に等しかった。背中の上に人の足が乗っていて、満足に息もできない。


そのときアガットが思っていたのはひとつだけだ。


(レオ様……)


――やってしまいました。ご迷惑をおかけしなければいいんですけど。



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